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1 通説的見解の確認

一般の人たちや、ビジネスリーダーの人たちが、日本語文法の通説的な立場を知っているとはとても思えません。私だけではないと思います。基礎概念となる骨格の部分は、シンプルであるべきですし、実際その通りです。通説的見解を確認しておきたいと思います。

原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』は通説的見解に立った入門書です。この本で基礎概念を見ていきましょう。原沢は[文の要は述語であり、その述語を中心にいくつかの成分が並んでいると考える](p.17)と説明しています。

さらに[日本語文法では学校文法のように主語を特別扱いしません。いくつかある成分の中の一つであるという考え](p.17)ですから、主語は基礎概念になりません。通説の立場に立つとどういうことになるのか、原沢が以下のようにまとめています。

▼日本語文の基本構造は述語を中心にいくつかの成分から構成され、それらの成分は格助詞によって結ばれています。格成分(格助詞によって述語と結ばれた成分)は述語との関係から必須成分と随意成分に分かれ、述語と必須成分との組み合わせは文型と呼ばれます。 p.50 『日本人のための日本語文法入門』

原沢はわかりやすいように、「パーツ」が「ボルト」で[述語と結ばれ]る関係という言い方をしています。各成分が、格助詞で述語と結びついているということです。述語の前にキーワードが並ぶということでしょう。このキーワードが二分されるというのです。

      

2 必須成分と随意成分の区分

必須成分と随意成分の区分を、原沢は例文で解説しています。「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」という文が、どういう構造になっていて、必須成分と随意成分は、どのように区分されるのかを、実際の例で確認しておきましょう。

ティジュカで (場所) 【随意成分】→ 食べた
ジョアキンが (主体) 【必須成分】→ 食べた
フェジョンを (対象) 【必須成分】→ 食べた
シキンニョと (相手) 【随意成分】→ 食べた

必須成分+述語で文型ができるのがルールです。場所をカットして「ジョアキンがフェジョンを食べた」でも文は成立します。ただ原沢のいう[絶対に必要なパーツ]という基準は微妙です。日本語の場合、「フェジョンを食べた」だけでも文が成立します。

原沢は、意味ではなく文法的関係で考えるべきだと書いていました。その通りでしょう。しかし必須成分と随意成分とを区分するときに使った基準は意味でした。意味が通じるかどうかで判定しています。判定が曖昧になるのです。通説の弱点というべきでしょう。

      

3 主題+コト+ムードの表現

原沢は、原沢は文型とは別に、「コト」という概念を提示し、[コトは文の言語事実を形成しますが、文としてはまだ未完成](p.50)だと書きます。コトに加えて、主題と「ムードの表現」が加わることがあるということです。4つの形態が想定されます。

▼【主題:~は】+【解説:「コト」+「ムードの表現」】
・【主題:~は】+【解説:「コト」】
・【「コト」+「ムードの表現」】
・【「コト」】

コトとは、たとえば「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」という例文全体です。これが「昨日は、ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べただろう」となった場合に、「昨日は」が主題、「だろう」がムードになります。

通説の立場に立つと、文末は述語そのものの場合もありますが、「述語+ムードの表現」になることもあります。述語は「コト」内部の基礎概念であり、ムードの表現はそれ以外のものです。このあたりは自然な読み書きのときの立場と違うかもしれません。

さらに述語を「ボイス」「アスペクト」「テンス」に分けて考えるのも通説の立場です。私のみならず、多くの人が学界の通説を知りませんので、こうした通説の基礎概念を概略だけでも確認しておきたいと思いました。否定されるべき叩き台になるはずです。

    

(2022年8月3日)

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1 通説的な立場の確認が必要

『岩波講座言語の科学 5 文法』の「2 文法の基礎概念Ⅰ」は、益岡隆志が書いたものです。基礎概念が簡潔にきちんと書かれていて、とても優れていると思いました。読むと、内容がわかります。明確でない文章では、何を言っているのかわかりません。

通説的な日本語文法の基礎概念をここで確認することができます。ただし現在の通説とはやや違いがありそうです。基礎概念を簡潔にわかりやすく記述した文献が、他にもあるかもしれませんが、少なくとも益岡の解説を読むと、やっとわかったという気がしたした。

基礎概念をひとまず確認してから、もっと新しい入門書を見ておいたほうが良いと思います。原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』が標準的な立場に立っているように見えました。詰めが甘い点もありますが、わかりやすくまとまっていると思います。

この本を使って、基礎概念について通説の立場を確認していきましょう。原沢の説明の方が、現在の通説に近いはずですが、解説を誤読しないようにするために、益岡の解説をふまえておきたいと思いました。原沢の本は、例文とその解説がある点でも便利です。

      

     

2 益岡隆志による基礎概念の確認

原沢の『日本人のための日本語文法入門』で特徴的といえるのは、最初の章で学校文法を否定しながら、述語の一番大切な機能を説明していることでしょう。いままでにも何度かふれたすぐれた例文が示されていて、その例文を使って、基礎概念を説明しています。

ただ、すこし注意が必要です。基礎概念をまとめて解説していないため、基礎概念の全体像が見えにくい点がありますし、また説明の厳格性にも不安があります。この点、『岩波講座言語の科学 5 文法』「2 文法の基礎概念Ⅰ」の益岡隆志による解説は明確です。

まず益岡の基礎概念を確認して、それとの対象で『日本人のための日本語文法入門』の説明を読みたいと思います。益岡が示す基礎概念は5つです。述語を中心的な成分だとしていますが、その理由が直接的に説明されていませんので、その点を確認しておきます。

益岡があげた成分は「述語成分」以外、4つです。このうち「主題」を別扱いしていますので、「述語修飾成分」「補足成分」「状況成分」が問題になります。これらのうち「述語修飾成分」という名称が象徴的です。状況成分は「述語修飾成分の一種」とあります。

残りの「補足成分」は[述語が表す事態に関する情報を補う役割を担っている]概念とのことです。述語が中心で、それを補うということは、修飾しているという意味になります。この点で、大きく見ると「述語修飾成分」の一種ともいうことになるでしょう。

益岡は述語を中心的な成分としています。この述語に説明を加えるための成分を取り上げて、それらを「述語修飾成分」「補足成分」「状況成分」の3つに分けました。さらに「主題成分」があるとしています。以上が、日本語文法の基礎概念ということでした。

      

3 通説の立場を知るために便利な本

以上をふまえて、原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』における基礎概念を見ていきましょう。原沢も述語を中心的な成分としています。[文の要は述語であり、その述語を中心にいくつかの成分が並んでいると考える](p.17)と説明しています。

さらに益岡が[主語否定論の立場に立つ](p.46 『岩波講座言語の科学 5 文法』)のと同じ立場です。[日本語文法では学校文法のように主語を特別扱いしません。いくつかある成分の中の一つであるという考え](p.17)ですから、主語は基礎概念になりません。

ここで主語を特別扱いしない点を強調したいためなのか、主語成分を特別な概念とせずに[皆対等な関係で述語と結ばれていると考えるのです](p.17)とあります。「対等な関係」というのは、曖昧で不明確な説明です。こうした詰めの甘さがあります。

「日本語文法」と「学校文法」を安直に対比させている点も、益岡の解説を基本にすえないと危ないと感じさせることになりました。さらに[主述関係が文の基本的な構造であるとする]考えを[大きな間違いなんですね](p.17)という書き方をしています。

すぐれた学者の本として『日本人のための日本語文法入門』を選んだのではありません。通説を知るために選んだものです。通説に近い立場で書かれている点に価値があります。益岡の基礎概念の考えには、通説との違いがありますから、その確認が必要です。

      

4 「パーツ」が「ボルト」で[述語と結ばれ]る関係

原沢は「母が台所で料理を作る」という例文をあげています。文中の成分は、「母が」「台所で」「料理を」の三つが、述語である「作る」と[皆対等な関係で述語と結ばれている](p.17)とのことです。対等だったとしたら、同じ成分になるのでしょうか。

そう簡単ではないようです。まず主語について、「意味的に重要な役割を担っていることは否定しません」が、それは[意味的な重要性であって、文法的な関係においては、主語だけを他の成分と異なる特別な存在としては認めていないんです](p.18)とのこと。

どうやら「意味的な重要性」と「文法的な関係」は別なようです。[主従関係では、日本語の文法体系を正しく説明することはできないんです](p.18)とあります。「文法的な関係」とは「文法体系」を構成するものであって、意味的な価値とは無縁のようです。

そうなると何をもって日本語では、文法的な関係、文法体系を形作っているのでしょうか。原沢はここで「パーツ」という概念を提示します。見出しでいきなり使い、その意味を説明していませんので、この概念は明確ではありません。しかし例文が示されます。

「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」です。述語は「食べた」と説明されています。なぜ述語になるのかは、益岡の説明と同じでしょう。述語の前にある成分が述語に説明を加えるからです。そのとき結びつき方を原沢は説明します。

例文にある「で」「が」「を」「と」を取り上げて、これが「格助詞」であると確認した上で、[格助詞というボルトによって、それぞれの成分は述語と結ばれ、そのボルト(格助詞)の種類によって、述語との関係が決定される](p.21)と説明しています。

どうやら「ボルト」で[述語と結ばれ]るのが「パーツ」だということのようです。「パーツ」も「ボルト」同様、説明のための一般的な用語であって、基礎概念とは関係ないのでしょう。ただし述語との結びつき方が示されていますから、便利な用語です。

ティジュカで (場所) -- 食べた
ジョアキンが (主体) -- 食べた
フェジョンを (対象) -- 食べた
シキンニョと (相手) -- 食べた

意味で言うならば、「場所・主体・対象・相手」ですが、こちらは意味的なものですから、ひとまずおいておきましょう。大切なのは、格助詞が接続された各成分が「食べた」という述語とつながっているということです。これが文法的な関係でしょう。

これらが[皆対等な関係で述語と結ばれている](p.17)ということです。原沢がそのときあげていた例文は「母が台所で料理を作る」でした。これは上記と同じ関係になります。格助詞のついた各成分が同じように、以下のように述語と結ばれているのです。

母が  (主体) -- 作る
台所で (場所) -- 作る
料理を (対象) -- 作る

原沢の説明は、ここまではわかりました。しかし益岡の説明を読んだ後ならば、この段階では、原沢の言う「文法体系」にはなっていないということがわかるはずです。益岡のいう「述語修飾成分」「補足成分」「状況成分」とどう違うのか、確認が必要になります。

      

5 必須成分と随意成分

問題となるのは「母が台所で料理を作る」のうち、「母が」「台所で」「料理を」を益岡の言う「補足成分」と呼んでよいのかどうか。さらに「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」の「ティジュカで」が「状況成分」になるのかどうかです。

この点、原沢の考えはおそらく通説の考えになるのでしょうが、益岡の説明と少し違っています。原沢は[それぞれの成分は述語との関係において欠くことのできない必須成分とそうではない随意成分とに分かれます](p.22)と記しているのです。

原沢による区分の仕方についての説明の前に、区分のされ方を具体例で見ましょう。「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」では、必須成分が「ジョアキン(が)」「フェジョン(を)」、随意成分が「ティジュカ(で)」「シキンニョ(と)」です。

これを見ると、益岡の基礎概念が崩れているのがわかるでしょう。益岡のいう「状況成分」がなくなっています。「状況成分」+「補足成分」を原沢は「パーツ」と呼んだようです。このパーツを[絶対に必要なパーツ]と、そうでないパーツに分けました。

パーツを2つに分けるときに、状況成分と補足成分に分かるのなら、益岡の基礎概念と同じですが、それならばあえてパーツにまとめる必要はありません。必須成分と随意成分の概念がどう違うのか、これをどういう方法で区分するのかが問題です。

       

6 対等な関係のパーツを二分する方法

原沢は[皆対等な関係で述語と結ばれている](p.17)と書いていたにもかかわらず、[絶対に必要なパーツ]と、そうでないパーツに分けようとしています。もし「皆対等な関係」であるならば、絶対必要とたいして必要でないパーツに分けられるのでしょうか。

必須成分と随意成分の概念は、どう違うのか、区分方法はどうなるのか、よほど気をつけてみておかなくてはいけません。原沢は例文「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」を使って説明しています。まずは、区分法を見ていきましょう。

原沢は、例文の述語である「食べた」の前の「ティジュカで」「ジョアキンが」「フェジョンを」「シキンニョと」の4つがパーツを削除していく方法を採ります。[削除することができない成分が必須成分、削除しても文として成り立つ成分が随意成分]です。

たとえば、[「ティジュカで」を削除してみます](p.22)。[「ティジュカで」という成分がなくても、文として問題があるとは感じられませんね](p.23)と記しています。こうした判定から[必須成分ではなく、随意成分と考えることができます](p.23)とのこと。

このようにパーツを削除する方法で区分しています。[「ジョアキンが」を削除して]みると、[ちょっと意味が不明ですね]、[「ジョアキンが」は削除することはできないようです]。したがって[「ジョアキンが」は必須成分](p.23)になるのです。

「フェジョンを」も同様に削除すると、[これもよくわかりませんね](p.23)ということになるので、「フェジョンを」は必須成分です。一方、「シキンニョと」を削除しても[特に違和感は感じません]ので、[「シキンニョと」は随意成分となります」。

削除すると意味不明に感じたり、違和感を感じさせる成分の場合、不可欠な成分だと判断されて必須成分と判定されます。一方、削除しても意味不明にならず、違和感もなければ随意成分に判定されるということです。では、こうした判定法は妥当なのでしょうか。

       

7 判定方法の危うさ

必須成分と随意成分を区分する原沢の判定法が妥当かどうかは、別の例文でも妥当な区分ができるかどうかでひとまず分かるはずです。例文が「マックで私がハンバーガーをシキンニョと食べた」になった場合、原沢の方法を使って区分するとどうなるでしょうか。

原沢の言うボルトとなる格助詞は、先の原沢の例文と同じく「で・が・を・と」になっています。述語は同じく「食べた」です。「マックで」「私が」「ハンバーガーを」「シキンニョと」の4つの成分がどう判定されるかが問題となります。

「マックで私がハンバーガーをシキンニョと食べた」から、「マックで」を削除してみましょう。「私がハンバーガーをシキンニョと食べた」となります。これならば問題ないはずです。したがって「マックで」は随意成分になると判断してよいでしょう。

つぎに「私が」を削除すると、「マックでハンバーガーをシキンニョと食べた」になります。これは、どうでしょうか。違和感は感じられませんし、意味も不明ではありません。主体の記述がない場合、主体は「私」になりますから、文として問題はなさそうです。

以上の判断に従えば、「私が」は随意成分になります。しかし原沢は、違った判断をしていたはずです。原沢の例文は「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」でした。「ジョアキンが」をカットしたとき、どう書いていたでしょうか。

原沢は[ちょっと意味が不明ですね]とか[一緒に食べたのは誰なんだろうと思ってしまいます](p.23)と書いています。普通の日本人なら「ティジュカでフェジョンをシキンニョと食べた」とあれば、主体は「私は」だと判定します。違和感など感じないでしょう。

日本語は単肢言語ですから、主体を記述するのは必須ではありません。主体がわかりきっている場合、かえって記述しないのがふつうでしょう。主体を記述しない文の場合、「私は」が主体になるのがルールです。原沢の判定方法はあやういところがあります。

       

8 文法的な関係で区分すべき

例文「マックで私がハンバーガーをシキンニョと食べた」で絶対に必要なパーツはどれでしょうか。一律に決まるのかどうか、わかりませんが、「私がシキンニョと食べた」が一番中核になりそうです。「私だよ、シキンニョと食べたのは…」という感じでしょう。

あえて「私が」と記述をしていますから、「私」の強調になっています。さらに「食べた」だけでなくて、「シキンニョ」と一緒に「食べた」のです。そのため、この例文では単に「食べた」のとは違った行為になっています。以上は意味の面から見たものです。

原沢は「意味的な重要性」でなく「文法的な関係」を重視していました(p.18)。しかし主体をめぐるルールは、たんなる意味的な重要性の問題なのでしょうか。主体を記述しなくても文が成り立つ単肢言語である日本語では、主体に特別な地位を与えています。

主体がわかりきっている場合に、あえて主体を記述すれば主体の強調になるのです。また主体の記述がなく、文末が「する・した」の意味ならば、主体は「私」だと判断されます。こうしたルールは、意味的な重要性という以上に、文法的なルールというべきです。

原沢は「意味的な重要性」でなく「文法的な関係」を重視したはずですが、成分の判別を意味に頼っています。意味を根拠にすると、判定が曖昧になりがちです。この点、益岡隆志が「補足成分」と「状況成分」を分けたときの区分法のほうが明確でしょう。

例文でいうと「ティジュカで」や「マックで」が状況成分にあたります。状況成分の要件は、「述語修飾成分」であることを前提として、①文頭に表れていること、②出来事が生起した時と場所を表すものでした。要件を明示したほうが、区分が明確になります。

益岡の成分の分類は、語順が変わると成分が変わってしまう点で、結果の妥当性に問題がありました。しかし、①の要件を削除すれば、「時間・空間」を内容とする成分となります。絶対必要な必須成分と、それ以外の「付随成分」との区分よりはましでしょう。

        

9 【主題】+【解説:コト+ムードの表現】

原沢は格助詞というボルトで、述語とパーツを結びつけるのが日本語文の基本構造だとしています。さらにパーツと呼んだ成分を、必要不可欠な必須成分とそれ以外の成分である随意成分とに区分しました。このあたりを、原沢のまとめで確認しておきます。

▼日本語文の基本構造は述語を中心にいくつかの成分から構成され、それらの成分は格助詞によって結ばれています。格成分(格助詞によって述語と結ばれた成分)は述語との関係から必須成分と随意成分に分かれ、述語と必須成分との組み合わせは文型と呼ばれます。 p.50 『日本人のための日本語文法入門』

原沢が必須成分と随意成分に区分する基準は、文型をつくるのに必須の成分とそれ以外の成分ということになります。ただし原沢は文型とは別に、「コト」という概念を提示し、[コトは文の言語事実を形成しますが、文としてはまだ未完成](p.50)だと言うのです。

未完成であるというのは、[コトをどのように考え、どのように聞き手に伝えるのかというムードの表現が必要になるからです](p.50)とのこと。原沢は本に図式化して、説明しています(p.51)。以下が、原沢の本にあるものをもとに簡略化したものです。

▼【主題:~は】+【コト:「成分」…「成分」…→[述語]】+【ムードの表現】

「ムードの表現」とは[コトの中から主題となる成分を選び、提示する](p.50)だけでなく、それ以外の表現形式もあるのです。いずれの場合も、原則として「ムードの表現」が[基本的に述語の最後につく](p.144)形式をとります。

[述語の最後につく]というのは、【述語+「ムードの表現」】の形式になるということです。原沢は例文をあげています。[1) 今日の午後、台風が上陸する・そうだ][2) 駅まで私の車で送り・ましょうか]の「そうだ」「ましょうか」がムードの表現です。

ここでポイントとなるのは、先の例文の述語が「送り」と「上陸する」とされることでしょう。コトの中に述語はあって、そのあとに「ムードの表現」がなされるということです。おそらくこれが通説的見解なのでしょう。述語はセンテンスの文末ではありません。

「~は」によって主題が提示されるとき、[残った部分は主題について説明する部分となり、解説と呼ばれます]とのことです。【主題】+【解説】の構造を採用しています。ただ、これだけでは、ややわかりにくいので、これも以下に図式化しておきます。

▼【主題:~は】+【解説:「コト」+「ムードの表現」】
・【主題:~は】+【解説:「コト」】
・【「コト」+「ムードの表現」】
・【「コト」】

主題がある文と主題のない文があり、ムードの表現がある文とない文があるということです。[コトは文の言語事実を形成しますが、文としてはまだ未完成][ムードの表現が必要になる](p.50)こともある、ということでしょう。コトだけの文もあるのです。

原沢のあげた例文で言えば、「今日の午後、台風が上陸するそうだ」は「今日の午後、台風が上陸する」+「そうだ」となって、【「コト」+「ムードの表現」】になります。「今日の午後、台風が上陸する」なら【「コト」】ということです。

「~は」がつくと主題化するとのことですので、「今日の午後には、台風が上陸するそうだ」ならば、「今日の午後には」+「台風が上陸する」+「そうだ」という【主題:~は】+【解説:「コト」+「ムードの表現」】となるはずです。

これが「今日の午後には、台風が上陸する」ならば、「今日の午後には」+「台風が上陸する」となって、【主題:~は】+【解説:「コト」】になるでしょう。原沢は明示していませんが、こうした観点で言うと、日本語の文構造は4種類になるということです。

▼【主題】+【コト+ムードの表現】:「今日の午後には、台風が上陸するそうだ」
・【主題】+【コト】       :「今日の午後には、台風が上陸する」
・【コト+ムードの表現】     :「台風が上陸するそうだ」
・【コト】            :「台風が上陸する」

       

10 通説的な立場の確認

原沢の説明を見ると、通説的な考えがかなり見えてきます。主語を特別扱いしないで、述語の前に並列的にキーワードを並べた構造を考えておいて、それらを必須成分と付随成分に分け、「必須成分+述語」で文型ができると考えるのです。

こうして述語と結びつくキーワードの体系を「コト」と扱い、それらに主題が加わったり、「ムードの表現」が加わることになります。ここでムードというのは、筆者の気持ち・心的態度を表すものです。益岡隆志はモダリティという言い方をしていました。

センテンスの文末は、多くの場合、「述語+モダリティ」か「述語」が来るということです。ムード・モダリティとは別に、述語にはいくつかの形態をとることになります。それが「ボイス」「アスペクト」「テンス」です。ここは原沢も益岡も共通しています。

益岡の『岩波講座言語の科学 5 文法』のボイスの項目の例文をみれば、わかると思います(p.55)。「話す⇔話せる」「思う⇔思われる」「飲む⇔飲みたい」「読む⇔読みやすい」「送った⇔送ってもらった」「置いた⇔置いてあった」。能動態と受動態です。

アスペクトについては、原沢が示した例がわかりやすいと思います。(『日本人のための日本語文法入門』 pp..108-109)。[動きのいろいろな段階を表す形式]です。「描くところだ」「描きはじめる」「描いている」「描きおわる」「描いてある」。

テンスについて原沢は[話そうとすることがらが過去に起きたことか、現在起きていることか、これから起きることかといったことを示す文法手段]と説明しています(p.128)。「食べる⇔食べた」「美しい⇔美しかった」「学生だ⇔学生だった」などの変化です。

これらの組合せを見ておきましょう。「描き終わった」ならば、【ボイス:能動態】【アスペクト:終了】【テンス:過去】となり、「描いてもらうところだ」ならば、【ボイス:受動態】【アスペクト:動作の直前】【テンス:現在】となりそうです。

ボイス・アスペクト・テンスは述語に関する基礎概念であり、「コト」内部の表現形態といえます。一方、「コト」の枠外における基礎概念には、主題と心的な態度を示すムード(モダリティ)があるということです。通説的な立場をひとまず、こう理解しておきます。

         

11 通説的な立場の解説は貴重

すこし回り道をして確認してみました。一般の人たちや、ビジネスリーダーの人たちが、日本語文法の通説的な立場を知っているとはとても思えません。私だけではないと思います。基礎概念となる骨格の部分は、シンプルであるべきですし、実際その通りでした。

「~は」を機械的に主題の区分として使い、述語をボイス・アスペクト・テンスの項目ごとに分解している点、通常の読み書きの立場とは違うでしょう。そのあとにムード・モダリティを加えて、センテンスの文末を構想する発想も違和感があって賛同できません。

各項目につけられた例文の説明にも違和感を持ちました。例によって、行ったり来たりしながら、これらの例文についての説明も見ていきたいと思っています。河野六郎の「日本語(特質)」(『日本列島の言語』)がどう通説と違うのかの確認も大切でしょう。

原沢伊都夫は『日本人のための日本語文法入門』で例文「月はきれいだ」「月がきれいだ」をあげて、その違いについて[「~は」は主題を表し、「~が」は主語を表しました。両者の文法的な役割は徹底的に違ってましたね](p.150)と記していました。

原沢のこの入門書は、ここで終わらずに、個々の例文について説明しています。通説的な立場での解説は貴重です。これらの[状況を思い浮かべていただきたいと思います](p.151)とあります。これを宿題にしましょうか。今回は、ここで終わりにしておきます。

       

     

1 リーダーに必要とされるルール

先日行った文章をチェックする講座の場合、対象はリーダーの方々でした。リーダーと言っても様々でしょうが、部下がいるということです。部下の文章をどう読むかというとき、何をチェックしたらよいのかが問題になります。思想はチェックできません。

外形から見ていくこと、つまりは形式から見ていくのが王道でしょう。外形から見ていくと、大枠と具体的な断片とから判断することになります。大枠を頭に入れながら、細かいところを見ていくのです。神は細部に宿るといいます。その通りです。

では日本語の文で細部というのは、どういうところでしょうか。これがポイントになります。一つは文末です。もう一つは、文末の主体になります。日本語の場合、文末にいたって、そのセンテンスの意味が最終的に決まりますから、文末とその主体が大切です。

結局は文法的な発想で文を見ることになります。大枠とは別に、神は細部に宿るを明確にルール化しようとするのが、日本のビジネスリーダーに必要な日本語文法だということです。しかし現行の日本語文法はポイントがずれていて、こうした文法になっていません。

      

2 文末とその主体が基礎

日本語は文末が一番大切であり、その文末の主体の言葉がセンテンスの主役になりますから、その組み合わせが大切です。主体となる言葉がわかりきったものなら、記述されません。あえて記述する場合、文末の主体となる主役の言葉を強調することになります。

主役のマークとなるのが助詞の「は」「が」です。これらの助詞は、言葉にアクセントをつけます。わかりきった言葉なら、記述しなくても意味を採る場合に問題はないのです。あえてアクセントをつけるのは、その語句を強調するためだということになります。

文末に置かれた言葉によって、センテンスの意味が確定しますから、その前提として、語られた内容の対象となる言葉が「誰なのか、何なのか、どこなのか、いつなのか」を間違えてはいけません。取り違いや、不明だというのでは、伝達が適切でなくなります。

      

3 日本語の論理性の基礎

日本語のセンテンスの意味を取り違えないように、一番基礎のところに気をつけるべきでしょう。基礎とは、文末に置かれた言葉がセンテンスの意味を確定するということ、その主体を正確に理解することです。ここでまちがったら、意味を取り違えます。

多くの場合、文末の言葉の意味が不明だとか、主体を取り違えるということはありません。しかし、ときにダマシになりやすいケースがあります。主体が記載されず、かわりに強意を示す「は」接続がある場合、ときどきおかしなことになりがちです。

たとえば「その本は、もう読んだ」の主体を「その本」だと勘違いするリスクがあります。通説的見解だと「この本は」が主題であり、そのあとに関係事項が解説されているのだから、「この本に関して言うと、もう読んだ」という構造だと説明するでしょう。

この説明は、日本語の論理性の基礎について触れません。関係があれば接続可能です。日本語では、文末で意味を確定するとき、主体がわかっていることが前提になっています。述べられることの主体が明確であることは、日本語に限らず、不可欠なことです。

       

(2022年7月8日)

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1 主題の概念と判別の齟齬

日本語で、読み書きをしようとする人にとって困るのは、読み書きの実践の場面で、主題という概念を日本語でどう使ったらいいかということです。主題の定義がはっきりしていないため、簡単には使いこなせません。

ハが接続する言葉が主題だと言われて、わかったという人がいたら、それは幸せです。実際に書くということになれば、そんなルールでは使えません。私たちが、ハ接続の言葉を見たときにすることは、その言葉が文末の主体になっているかどうかのほうです。

河野六郎は、「この本はもう読んだ」という例文の「この本は」が主題だと言いました。たしかに、感覚的に「この本」が主題らしいと感じます。しかしこの場合でも、わたしたちは主体であるかどうかを確認しようとするはずです。主題の確認を意識しません。

日本語を読み書きする人間が、まず第一に確認することは、「この本は」が文末の主体かどうかです。主題であるかどうかは、必要なら意識すればよいでしょう。ただし主題であるかどうかがわかっても、どう使えばよいかがわからなくては意味がありません。

主題の実質が、明確になっていない点が問題なのです。河野が言及した主題に関する原則がありました。それを見ると、実際に使う場面で、矛盾することが出てきます。そんな話を前回しました。もう一度、原則を並べておきましょう(p.106 『日本列島の言語』)。

[1] 【主題(thema)】とその【説明(rhema)】による心理的な表現秩序
[2] 【主語-述語】の論理的関係とは別の関係
[3] 【主題(thema)-説明(rhema)】は言葉の自然な発露に従った文の構成
[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】
[5] 主題について論理的関係の如何を問わずに述べたものが【説明(rhema)】
[6] 助詞ハによって【主題】が提示される
[7] 助詞ガによって【主語】が提示される
[8] 日本語の場合、論理的構成よりも、心理的叙述に適した言語である

[心理的な表現秩序]ですから、論理的な関係ではありません。大切なことは、[言葉の自然な発露に従った文の構成]のなかにおける主題の概念です。こうした主題の実質的な概念と、形式的な判別結果が一致すれば問題ありません。

原則からすれば、[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】であり、その場合、[6] 助詞ハによって【主題】が提示されるはずです。しかし、そうならない例があるということでした。

「この本ですが、私はもう読みました」という例文では、原則[4]と[6]の矛盾が感じられます。この例文では、まず念頭に浮かんだ概念を言葉にして、「この本ですが」と言ったに違いありません。主題は「この本ですが」と感じるのが自然なことです。

もし主題が「この本ですが」だとしたら、その解説・説明部分はどうなるでしょうか。「他の人は知りませんが、私はもう読みましたよ」となります。「この本」がテーマで、「私はもう読みました」と説明することに、自然な感じがするはずです。

ところが例文で助詞ハがつくのは「私は」です。この「私は」が主題だと感じる人は少数派でしょう。ひとまず少数派なのはよいとしても、「この本ですが」を無視して「私は」が主題だとすると、その説明は「もう読みましたよ」となります。

【私は】と【もう読みました】という関係は、主題-解説だと言われても、ピンときません。それよりも、「もう読みました」の主体が「私」になっている点を意識します。そうであるならば、いわば【主語-述語】の論理的関係でしょう。

使う側からすると、ハ接続の言葉が主題だと言われても、妙な感じになります。問題なのは、形式的に判別されて主題だとされた言葉が、実質的な主題の概念と一致するかどうかです。形式的判別と実質的な概念に矛盾があれば、実質が優先されることになります。

主題の実質的な概念は、[何かを言う際][言葉の自然な発露に従っ]て、[まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]でしょう。こう考えて、改めて例文を見るとどうでしょうか。「この本ですが、私はもう読みました」の主題を「私は」にするのは無理です。

前回書いた通り、読み書きをする側にとって、【主題は助詞ハによって提示される】という原則が納得できるのであれば、問題はありませんでした。しかし、主題となる言葉が、ハ接続になるというのは、ただのあてはめでしかないと感じます。

理論的な裏づけがあるわけではありません。そうなっているという主張でしかないのです。ただの思いつき、そう考えると都合がいいだけではないかと感じます。使う側が、そう感じる場合、強引に、そうなっていると主張しても無駄なことです。

使う側の視点に立てば、主体の確認が必要なのはわかります。誰がどうしたのかは、大切な問題ですから、それを間違えたら困ります。ハがついたり、ガがついたら主体になることが多いものの、一対一対応にはなっていません。だから確認が必要です。

実質的な問題である「主体であるかどうか」ということならば、確認が必要になります。主題が使えるようにするためには、主題の実質的な概念を明確にすること、さらに主題の判定する基準が適切であることが必要です。ハ接続というのは、ハズレでした。

主題の概念とは、[何かを言う際][言葉の自然な発露に従っ]て、[まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]と考えてよいのでしょうか。そうであるなら、どういう場合に主題になるのかが問題になります。以下、英語で主題をどう使うのかを見てみましょう。

    

      

2 英語における主題概念の使われ方

上田明子は『英語の発想』の「5.文と文をつなげてパラグラフを構成する」で、[隣り合って並んでいる文と文の関係]について解説しています。ここで示されるのが[「文」の文法的な考え方と情報伝達に果たす役割]という2系統のことです(p.89)。

2系統はそれぞれ2つずつあって、4つのポイントが示されます。見出しは以下です。
① 普通の文と強調の文
② 同じ主語を続ける
③ 既知の情報と新しい情報
④ 新しい情報から始める文

2系統のうち、文法的な考え方は①と②になり、情報伝達に果たす役割は③と④になります。①②は「主語-述語」の関係、③④は「主題-解説」の関係とも言えるでしょう。そうなると、主題の中核的な役割は、情報伝達に関わることになりそうです。

上田は[4項目の要点]として、以下のように、上記を言いかえています。
① 文法で扱う文-主語と述部
② 同じ主語を続ける
③ 情報の流れ:既知の情報→新情報
④ 文頭では-文の最初の要素にも新情報

まず第一に、標準の文形式と強調の文形式があり、強調の場合、語順が変わる形式となるので、それは例外と扱われるということ。第二に、文をつなげていく場合、主語をころころ変えずに、同じ主語を続けていくのが原則です。ここまでが文法的な関係について。

第三に、情報の流れとして、既知の情報を先に言い、そのあと未知の情報に言及するのが標準的で自然な流れであること。ところが第四に、いきなり新しい情報からはじまる文があり、この場合、新しい情報は文の主語になっていないことが多いということです。

こうした[4項目の関係を整理して、混乱なく文章の構造を述べていくために、シーム(theme)とリーム(rheme)という、文法の主語+述部とは別の2分法を立てます](p.97 『英語の発想』)と上田は記していました。

ここでいう【シーム(theme)とリーム(rheme)】というのは、河野六郎のいう【主題(thema)-説明(rhema)】にあたります。「thema」はチェコ語・ドイツ語での表記、「theme」は英語のようです。

「theme」は一般的には「テーマ」のことですが、その表記では、さまざまな意味が付加されるおそれがあります。上田はあえて「シーム」と表記したのでしょう。大切なことは、【シーム(theme)】=【主題(thema)】ということです。

それでは、上田はシームというものをどう説明しているでしょうか。

▼シームとは、文の最初に来る語ないし語句のひとまとまりです。例えば、名詞(句)、副詞(句)などがあり、形容詞(句)が倒置により文の最初に出てくる場合もシームとなります。 p.97 『英語の発想』

シームの後の[文の残りの部分](p.98)がリームです。このように、[シーム・リームを、上のように、まず形の上から定義]しています。この判別法は、河野六郎の言う主題の実質的な概念と整合性を持っていると言えそうです。

河野は主題の実質的な概念を、【[何かを言う際][言葉の自然な発露に従っ]て、[まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]】としていました。まず念頭に浮かんだ言葉が、文の最初に来るのは自然なことでしょう。

ここでの上田の説明は、英語についてなされたものです。これを日本語に適応できるかどうか、確認が必要になります。

     

      

3 「シーム(主題)-リーム(解説)」と「主語-述部」

幸いなことに、上田明子は『英語の発想』「9.日本語の特徴を考える」で、日本語の場合のシームに言及していました。日本語の原文とその英訳を並べたうえで、何がシームになるかを、具体的にあげています。

日本語の文は高橋英夫『西行』からの引用(p.190『英語の発想』)です。そこに英訳を付していますので、ここでのシーム=主題がどう判定されているのかが見えてきます。高橋英夫『西行』の原文は、以下です。

▼平成二年(1990)は、西行円寂後八百年の遠忌に当たっていた。その年のうちには行けなかったが、次の年平成三年の四月上旬にこの寺を訪れてみると、ちょうど境内の桜が満開を少し過ぎたところであったらしく、坂道をあがってゆくにつれて、ここもまた桜の寺であるのが明らかになってきた。 高橋英夫『西行』

上田は、この例文を3つのパートに分けて、日本語と英訳の【シーム=主題】をとりだします。以下、[原文、訳文とも、シームと考えることができます](p.195 『英語の発想』)とのことです。

(1) 【平成二年(1990)は】 ⇔ 【The second year of Heisei(1990)】was…
(2) 【その年のうちには】 ⇔ 【That year】, I couldn’t…
(3) 【次の年平成三年の四月上旬に】 ⇔  but 【at the beginning of April, the next year, that is the third year of Heisei】, when I visited

上田は[英語の散文について用いたシームの考え方を、この部分では、そのまま応用できます]と記しています(p.195 『英語の発想』)。形式的な定義である[シームとは、文の最初に来る語ないし語句のひとまとまり](p.97)を、日本語にあてはめたのです。

ここで重要なのは、日本語の主題を「は」接続と固定的に対応させていない点です。
(1)【平成二年(1990)は】と、(2)【その年のうちには】の主題には「は」が接続していますが、しかし(3)【次の年平成三年の四月上旬に】では「は」接続になっていません。

この例文を変形させて、「次の年平成三年の四月上旬に、わたしはこの寺を訪れてみた」となった場合でも、主題は【次の年平成三年の四月上旬に】になるはずです。文のはじめにおかれる言葉であることならば、そうなります。

河野六郎は[まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの](p.106 『日本列島の言語』)が主題だとしていました。さらに[日本語といえども、文は、ある主題について述べられることがふつうであり、その主題を示す必要がある](p.106)ということですから、主題が表記されるのは原則といえそうです。

「次の年平成三年の四月上旬に、わたしはこの寺を訪れてみた」という文で、最初に頭に浮かんだのは、「次の年の平成三年の四月上旬のことだったなあ…」ということでしょう。それに対して「私はこの寺を訪れてみたのです」と解説が加わります。

上田明子は「主語-述語」と「シーム(主題)-リーム(解説)」の2系統を使う理由として、先に記した4つの要点を使って[文章の構成を説明するために必要最小限の用語]だと記していました。4つの要点をもう一度、示しておきます。

① 文法で扱う文-主語と述部
② 同じ主語を続ける
③ 情報の流れ:既知の情報→新情報
④ 文頭では-文の最初の要素にも新情報

このうち、①②が「主語-述語」の文法的な秩序であり、この秩序のもとでは、原則として先に既知の内容が示され、続いて未知について述べることになります。③の場合、はじめに示される内容を担うのが主語であり、同時に「シーム=主題」だということです。

上田は、③に該当する[They didn’t know him personally.]という例文をあげて、「They」が「主語=シーム(主題)」であり、「didn’t know him personally」が「述部=リーム(解説)」であると確認しています。

③の場合、[主語とシーム、述部とリームが一致しているので][主語・述部、シーム・リームの2つの分野を立てる必要はありません](p.100 『英語の発想』)。このタイプならば、既知の情報から未知の情報へという情報の流れになっているからです。

一方、④の形式の場合、文のはじめに新情報が提示されています。このとき[主語の前に、それとは別な要素]が置かれることになります。この主語の前に置かれた新情報がシーム(主題)になっているのです。この場合、主語と主題が一致していません。

④の場合、主題=シームが提示され、そのあとに主語が続きます。未知の情報がシーム(主題)であり、その後に続く既知の情報が主語になるという構造です。

▼1つの文の中で主語には既知の情報を担わせて、情報の流れの、既知の情報→新情報は、主語から出発させられます。加えて、主語の前にシームという単位を置いて、これに別の新情報を担わせることができます。 pp..100-101 『英語の発想』

つまり、(1)文の骨組みになる「主語-述語」には論理的で安定した秩序を維持させること、(2)新情報を「主語-述語」の前に置くことで、センテンスの安定性を維持しながら、未知の情報を提示する秩序を作るということです。

上田の説明は、「主語-述語」と「シーム(主題)-リーム(解説)」の役割分担を明確に示しています。語られる内容とその主体からなる「論理的な秩序」と、既知の情報と未知の情報からなる「情報伝達の秩序」の2系統の秩序で、文章の構成を明確にするものです。

      

4 主題の概念と情報の流れの秩序

「主題と解説」と「既知と未知」について、マテジウスの理論の原則がありました。以下の2つからなっています。

[1] 文は【主題(theme)=シーム】と【その説明(rheme)=リーム】からなる。
[2] 情報の流れは、【すでに知られているもの(既知)】から【まだ知られていないもの(未知=新情報)】へと流れるのが原則である。

上田明子が『英語の発想』で行った説明は、マテジウスの理論の原則にそったものでした。日本語文法における主題の概念とはかなり違ったものになっています。上田の場合、主題の概念(シーム)を使うのは、情報伝達の秩序のチェックのためでした。

この意味での主題と解説の概念ならば、文と文を構成するときにこそ、使うものです。実際のところ上田がシームとリームを持ち出してきたのは、「5.文と文をつなげてパラグラフを構成する」でのことでした。

文をどうやって並べてゆくかということです。このとき新情報の提示の仕方が大切になります。主題=シームをどう配置するかという問題です。上田は書いています。

▼新情報をいくつかの文のシームにおいて、「ある場所では…」「次には、どうやって…」と推移を表したり、「あるときには…」「一方、他のときには」と比較を表す組合せをつくることができます。それによって、いくつかの文からなるパラグラフの中で、連続とまとまりをはっきりさせるという役割を果たすのです。 p.105 『英語の発想』

ここで上田は、主題=シームが文章構成において役割を果たすということを示しました。センテンスを構成する秩序というよりも、文章における情報の流れの秩序として主題=シームを扱っています。

上田はシームを並べていました。「ある場所では…」「次には、どうやって…」「あるときには…」「一方、他のときには」のように示されると、日本語文法での主題の概念とずいぶん違っていて、主題だという感じがしません。

それと同時に、主題とされる言葉には「は」接続が多く見られるという点に気づくでしょう。とはいえ「は」の接続をもって主題であると判別することにはなりません。「が」の接続が主語を示すことにならないのと同じことです。

「は」と「が」の接続の違いに基づいて、文法的な機能の違いを示そうという試みは、かなりズレた発想でした。日本語文法を扱う人たちが、主語と「は・が」の関係を意識しすぎたのではないでしょうか。

マテジウスは『機能言語学』で、[既知のものだとして示すことができないものから陳述を始める場合、提示される観念全体の複合体から、容易に認識できる観念をとりだして、それを出発点とすることが非常に多い](p.94)と記しています。

いささか面倒な言い回しです。新情報に当たるものから記述をスタートさせる場合、[容易に認識できる観念]をとっかかりにするということでしょう。その場合、客観的な条件となるものが選ばれやすくなります。

マテジウスは、「湖の堤の上に若者が立っていた」という例文をあげています。ここでは[「湖の堤」を容易に認められるもの、与えられたものとして取り出し、この場所的設定を陳述の基礎として](p.94)いると指摘しました。

あるいは「秋のある日…」などのように[与えられた出発点に容易になりうるのは、時には時間的設定]であるとも指摘しています。

場所的設定や、時間的設定に当たるものを「主題=シーム」にするということは、先に引いた上田明子の示したシームの例でも、おわかりになるでしょう。「ある場所では…」「あるときには…」「一方、他のときには」がシーム(主題)の例として並んでいました。

マテジウスのあげた例文「湖の堤の上に若者が立っていた」では、「若者が」という日本語になっていましたが、ここを「若者は」とすることも可能です。「湖の堤の上に若者は立っていた」の場合でも、主題(シーム)は「湖の堤の上に」のままでしょう。

あるいは「若者が」を前に出して、「若者が湖の堤の上に立っていた」にしたならば、主題(シーム)は「若者が」になるはずです。「若者がね…」どうしたのかと言えば、「湖の堤の上に立っていました」となるでしょう。この場合、主題=主語になっています。

文法的な秩序とは別の概念である「主題=シーム」を情報の流れとして使うのは、意味のあることでした。しかし「は」「が」の違いを説明するために、主題を持ち出すのは見当違いだったというべきでしょう。

助詞「は」の機能が重要なのは間違いありません。しかし主題がハ接続だという公式的な見方は、読み書きをする側には、役に立たないのです。少なくとも、日本語を論理的に記述しようとする場合には、使えません。

日本語文法における「主語-述語」の概念に問題があったために、主題が登場したのでしょう。「主語-述語」の概念から見直すしかありません。

     

      

4 主題に関する河野の原則

河野六郎の主題に関係する原則を整理しておきます(p.106 『日本列島の言語』)。

[1] 【主題(thema)】とその【説明(rhema)】による心理的な表現秩序
[2] 【主語-述語】の論理的関係とは別の関係
[3] 【主題(thema)-説明(rhema)】は言葉の自然な発露に従った文の構成
[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】
[5] 主題について論理的関係の如何を問わずに述べたものが【説明(rhema)】
[6] 助詞ハによって【主題】が提示される
[7] 助詞ガによって【主語】が提示される
[8] 日本語の場合、論理的構成よりも、心理的叙述に適した言語である

まず主題の概念が問題になります。そのことは同時に、[6]の問題にもなるでしょう。助詞ハがつけば、主題だと認識されるのかどうかが問題です。河野は、「コノ本ハモウ読ンダ」という例文をあげていました。この例文を見ていきましょう。

「この本はもう読んだ」の場合、主題は「この本は」です。【この本は】【もう読んだ】となります。「この本に関して言えば」、「もう読んだ」よ…ということです。この例文に、「私は」が加わった場合はどうでしょうか。私に関して言えばということです。

「私はこの本をもう読んだ」の主題は原則の[6]から「私は」となります。【私は】【この本をもう読んだ】です。「私に関して言えば」、「この本をもう読んだ」よ…となります。ここまで見る限り、主題と助詞ハの関係は齟齬もなく対応しているようです。

     

5 成立しない「主題はハ」「主語はガ」

問題なのは、「この本ですが、私はもう読みました」の場合です。原則[6]からすると、主題は「私は」でしょう。(この本ですが)【私は】【もう読みました】となり、「(この本ですが)」「私に関して言えば」「もう読みました」よ…となるようです。

しかし例文の冒頭「この本ですが」が宙ぶらりんに感じます。自然な感覚だと、主題は「この本ですが」になるでしょう。原則の[4]でいう[何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]にも該当しています。使う側の視点との違いがあるのです。

「この本ですが、もう読みました」になったら、主題のない文章になるのでしょうか。ここでも主題は「この本」だと感じるはずです。原則[4]からしてもそうなります。これを見ても分かる通り、主題の原則[6]が、原則[4]と対立することがあるということです。

ルールを使う側の視点に立つと、[4]の原則が優先されます。そうなると[6]はルールとして成立しません。すでにガが主語と言いにくい点も見てきました。河野の言う[ハとガの違いは][主題と主語の違い]という見解は成立しないということになります。

     

6 「貴方は適任」と「貴方が適任」の違い

「貴方は適任」と「貴方が適任」の違いを説明せよという宿題が残っていました。助詞「は」の機能は【特定し、限定すること】です。ある特定の対象についてのみ語ることになります。そこから絶対的な評価、客観性のニュアンスが出てくることになるのです。

助詞「が」の場合、【選択肢のある中から選び出して、決定すること】が主要な機能になります。選択肢から選ぶので、相対的な評価です。選択する過程で、当事者の評価が入りますから、主観的なニュアンスをもちます。これらを例文にあてはめてみましょう。

「貴方は適任」ならば、「他の人は知りませんけどね、貴方は適任ですよ」という評価をしていることになります。「貴方が適任」ならば、「いろいろな方がいらっしゃいますけどね、貴方が適任ですよ、私はそう思います」と推奨しているということです。

     

*連載はこちら

      

1 「主語-述語」と「主題-解説」の併用

前回、助詞の「は・が」と「既知・未知」の関係について記しました。既知ならば「は」が接続し、未知ならば「が」が接続するというものでした。きわめてシンプルな考えです。それが当てはまりそうな事例もありましたが、もはや支持されていません。

では、主題を表す場合に「は」、主語の場合に「が」が接続するという見解も、よほど気をつけてみていかないとリスクがあります。河野六郎は[ハとガの違いは][主題と主語の違い]であり[助詞ガによって主語を示す]と記していました(『日本列島の言語』)。

河野の場合、[主題の提示は、主語-述語の論理的関係とは別の関係である]と記していますから、主語-述語の論理的関係で分析することを否定していません。これとは別に、「主語-述語」を廃止し、「主題」だけで考えるべきだという見解が出てきました。

しかし河野は、主語を記さない形式で文が成立する言語を「単肢言語」と命名し、主語の明記が必要かどうかで、言語を区分しています。日本語文法でも、主語の概念を使うということが前提でした。日本語は主語の明記が必要でない単肢言語ということです。

      

2 述語動詞に限られない文末の要

問題となるのは「主語」「述語」「主題」などの概念が明確であるかどうかです。例えば河野は述語動詞の特徴として、(1)「文の要」であり、(2)文の最後、文末に置かれ、(3) 終止形が使われるという3点をあげています。具体的な事例で見てみましょう。

たとえば「放課後、私は本を図書館に返却しました」という例文の構造は、「放課後…返却しました」「私は…返却しました」「本を…返却しました」「図書館に…返却しました」でしょう。文末「返却しました」が前に置かれたキーワードを束ねています。

述語動詞が文の要になっている形式です。しかし述語動詞に限られません。「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」という例文の場合、「好き」は体言でしょう。体言の場合、体言化する「の・こと」は接続できません。学校文法なら形容動詞です。

      

3 主語と「が」の関係の不明確さ

「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」という例文の場合、別の問題が出てきます。主題が「は」、主語が「が」接続だとすると、おかしなことになります。「私は」と「彼女の演奏が」を省略したらどうなるでしょうか。以下のようになります。

(a)「今日の演奏会で、彼女の演奏が一番好きでした」○
(b)「今日の演奏会で、私は一番好きでした」△

もし主体がわかる場合、明記されなくても問題なく成立するのは(a)です。「一番好きでした」の主体となるのは「私は」と考えるのが素直な見方でしょう。そうなると主語に「が」が接続するという見解はどうなるのか、主語の概念がよくわからなくなります。

しかし河野の場合、[日本語という言語は、論理的構成よりも心理的叙述に適した言語である]と記していました。主語よりも主題のほうが、日本語の場合、使えると見ているようです。主語の概念はよくわかりませんでしたが、主題のほうを見ていきましょう。

*この項、続きます。

(2022年6月28日)

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1 使う側の視点

前回、助詞の「は・が」と「既知・未知」の関係について記しました。既知ならば「は」が接続し、未知ならば「が」が接続するとしたら、なかなか魅力的なことのようにも思います。実際に、それが当てはまりそうな事例もありました。

しかし、当てはまらない事例がいくらでも出てきます。どうもこれは違うな、ということになりました。理論の正しさを証明しようとすると、事例の解釈が強引になりがちです。それでは理論やルールとして使えません。

簡単なことではありませんが、無理なく自然に使えるルールが欲しいものです。そのためにも、ルールはシンプルにできたら、それに越したことはありません。実際のところ、わかってみると、なんとシンプルなことかと思うこともあります。

同時にそれを安直に求めれば、無理をすることになるでしょう。切れ味のよい見解は、しばしば間違います。既知と未知が「は・が」に対応するというのも、支持されなくなりました。こうした点を十分に意識して検証していく必要があります。

主題と「は」、主語と「が」の組合せに関しても、同様でしょう。河野六郎は「日本語(特質)」(『日本列島の言語』)で、[ハとガの違いは][主題と主語の違い]であり、[助詞ガによって主語を示す](p.106 『日本列島の言語』)と記していました。

河野は続けて、[主題の提示は、主語-述語の論理的関係とは別の関係である]と記しています。この点が大切です。主語-述語の論理的関係で分析することを否定する必要はありません。これとは別に、主題-解説(説明)で分析すればよいのです。

しかし日本語が論理的でないという発想があると、これが違った方向に行きます。「主語-述語」で考えるのをやめて、「主題-解説」だけで考えるべきだという主張が出てくるのです。

庵は『新しい日本語学入門』で三上章の主張を紹介しています。[三上は「主語」や「主述関係」に代えてどのような概念を用いたのでしょうか。その概念は主題です。主題というのは、その文で述べたい内容の範囲を定めたものです](p.87)。

「主語-述語」という関係を日本語で使おうとすると、たしかに不都合が起こります。それは「主語」「述語」の概念が欧米語と大きく違っているからです。それでは「主題」の概念が明確になっているかと言えば、そうではないでしょう。

まじめな学生が、「主語-述語」というのがわからないと言ってくることがあります。文を書くときに使えないということです。このことはそのまま、「主題-解説」の場合にも当てはまります。

「主題・主語」を「は・が」と関連づけようとするなら、「主題・主語」の概念を明確にする必要があるでしょう。従来の「主語」概念に問題があるのは確かです。しかし「主題」が明確にならないのであれば、「主述関係」ばかりを否定するわけにもいきません。

河野は、主語を記さない形式で文が成立する言語を「単肢言語」と命名しました。主語の明記が必要かどうかで、言語を区分しているのです。日本語文法でも、主語の概念を使うという前提になります。日本語は主語の明記が必要でない単肢言語ということです。

日本語の特徴として河野は、[主体が了解されている場合]、主語がなくとも[これだけで立派に一文を成しうるのであって、あるべき主語を省略しているのではない]と記しました。一方、[主体が明らかでないときは][助詞ガを添えて]主語を明記するのです(p.98 『日本列島の言語』)。

河野六郎の見解は魅力的なものです。しかし「主語・述語」、あるいは「主題」の概念を確認しておかないと、その先に進むことができません。以下で、河野の見解を見ていきましょう。

     

2 主語と「が」の関係

河野は以下のように書いています。

▼述語動詞が文の要であって、文の最後に位する。日本語は、この文末という位置を述語動詞の形態のうえに明示している。すなわち、「終止形」と呼ばれる活用形がそれである。 p.98 『日本列島の言語』日本語(特質)

河野は述語動詞の特徴として、(1)「文の要」であり、(2)文の最後、文末に置かれ、(3) 終止形が使われるという3点をあげています。

文の要になるのは、キーワードが述語で束ねられるということでしょうか。述語動詞が文末に置かれる例はしばしば見られます。たとえば「放課後、私は本を図書館に返却しました」という例文は、以下のような構造になるとはずです。

・放課後  返却しました
・私は   返却しました
・本を   返却しました
・図書館に 返却しました

河野は「述語動詞」という言い方をしていますが、これは述語動詞に限らないことです。「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」という例文を見ると、以下のようになります。

・今日の演奏会で 一番好きでした
・私は      一番好きでした
・彼女の演奏が  一番好きでした

文末部分の中核になる言葉は「好き」です。この言葉の品詞は動詞ではありません。動詞なら終止形がウ段ですし、イ段の活用形に「ます」が接続するはずです。「好く」が終止形だったとしても、「好き・ます」とは言えません。

活用形がない体言なら、「だ・である」が接続可能です。活用形がある言葉なら、「の・こと」をつけて体言化することができます。「好き・だ」と言えて、「好き・の・だ」とは言えません。そうなると「好き」は体言だと考えられます。

従来、「好き」という言葉は、形容動詞という品詞に該当しました。活用形の有無の判別法が明確でない中で、無理やり作った品詞のようにも思えます。「です・ます・だ・である」の接続と、体言化するときの「の・こと」の接続で判定したほうが確実です。

いずれにしても「好き」は動詞ではありません。河野のいう「述語動詞」が文の「要」になるというのは、絞りすぎになります。文末の中心的な語句である狭義の述語の概念からすると、動詞だけでなく、形容詞も名詞も述語になります。

「要」をキーワードを束ねる機能だと考えると、その役割を果たすのは、ほとんど述語動詞になることは確かです。それ以外を例外としていたのかもしれません。しかし、それでも別の問題が出てくるのです。

河野は主題には「は」が接続し、主語には「が」が接続すると主張しました。[ハとガの違いは][主題と主語の違い]であり、[助詞ガによって主語を示す](p.106 『日本列島の言語』)ということでした。

そうなると先の例文「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」の場合、どうなるでしょう。主題は「私は」であり、主語は「彼女の演奏が」になりそうです。主語というのは主体・主格だったはずですが、どう判断すべきでしょうか。

「一番好きでした」の主体は人になるはずです。「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」の主語は「私は」でなくてはおかしいのです。しかし「が」接続は「彼女の演奏が」になっています。

主体が了解されている場合、主体を明記しなくても文が成立するのが日本語の特徴でした。「私は」と「彼女の演奏が」を省略してみるとどうなるでしょうか。

(a)「今日の演奏会で、彼女の演奏が一番好きでした」
(b)「今日の演奏会で、私は一番好きでした」

河野の言う[これだけで立派に一文を成しうる]に該当するのは、(a)のほうでしょう。文末の主体が主語だと言えるなら、そのほうが使えます。その場合、主体になる言葉は「が」接続に限りません。「は」を添えることもあります。

要の概念を最重視すると、述語の概念との違いが出てくることは、以前の連載であれこれ書きました。主語の概念も、文末の主体と簡単に言い切れないのです。河野は以下のように記しています。

▼このガは主語を意味するが、文法的には補語であって、「主格的補語」とでも呼ぶべきものである。そして、この補語は、他の補語と同様、述語動詞を限定する従属的要素で、常に述語動詞に先行する。 p.98 『日本列島の言語』

これは通説あるいは有力説というべき見解かもしれません。要になる述語動詞の前に並んだキーワードの中で、主語だけが特別な存在ではないということでしょう。しかしここで[ガは主語を意味する]と限定的に解釈すると、逆にわからなくなります。

先の例文の構造をみましょう。
・放課後  返却しました
・私は   返却しました
・本を   返却しました
・図書館に 返却しました

いつ返却したのか、誰が返却したのか、何を返却したのか、どこに返却したのか、その問題意識によって、「放課後」「私は」「本を」「図書館に」の価値評価が変わってきます。その意味で主体だけが特別ではないと言うのは、その通りです。

この例文でいうと、「は」接続の「私は」だけが「主題」であって、特別な存在だということにはならないでしょう。一般人の感覚では、文末の主体である点で特別だとは言えますが、上記のように問題意識によって、価値評価が変わるのは当然です。

河野の「日本語(特質)」から、主語の概念が明確になったとは言いかねます。これならば「文末」を、要になる機能を重視した概念として構築して、文末の「主体(=センテンスの主役)」という発想で考えたほうが、ずっと使えるものになるはずです。

しかし河野の場合、[主語-述語の論理的関係とは別の関係である][主題(thema)とその説明(rhema)による、心理的な、表現秩序]を重視して、[日本語という言語は、論理的構成よりも心理的叙述に適した言語である]と記していました(p.106 『日本列島の言語』)。

主語よりも主題のほうが使えると見ているようです。ひとまず主語については、ここまでにしておきましょう。主題のほうが問題です。

       

3 河野の主題に関する原則

河野六郎の主題についての見解を見ていきましょう(p.106 『日本列島の言語』)。

[1] 【主題(thema)】とその【説明(rhema)】による心理的な表現秩序
[2] 【主語-述語】の論理的関係とは別の関係
[3] 【主題(thema)-説明(rhema)】は言葉の自然な発露に従った文の構成
[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】
[5] 主題について論理的関係の如何を問わずに述べたものが【説明(rhema)】
[6] 助詞ハによって【主題】が提示される
[7] 助詞ガによって【主語】が提示される
[8] 日本語の場合、論理的構成よりも、心理的叙述に適した言語である

マテジウスの「コメント・トピック」論を日本語にあてはめたものになっています。ポイントは言うまでもなく、[6]と[7]です。「は・が」を【主題(thema)-説明(rhema)】と【主語-述語】に関連づけたことが、正しいのかどうかが問題になります。

先に述べた通り、使う側の視点で見ていきましょう。何が主題であるのか、きちんと判別できるかどうかということが、まず問題になります。助詞ハがつけば、主題だと認識されるでしょうか。主題の概念と共に確認が必要になります。

河野は、「コノ本ハモウ読ンダ」という例文をあげていました(p.106 『日本列島の言語』)。以下、この例文を見ていきましょう。

「この本はもう読んだ」の場合、主題は「この本は」です。
【この本は】【もう読んだ】
「この本に関して言えば」、「もう読んだ」よ…となります。

「私はこの本をもう読んだ」ならば、主題は「私は」です。
【私は】【この本をもう読んだ】
「私に関して言えば」、「この本をもう読んだ」よ…となります。

「この本ですが、私はもう読みました」の場合、主題は「私は」なのでしょう。河野の[6]を見る限り、そうなります。
(この本ですが)【私は】【もう読みました】
「(この本ですが)」「私に関して言えば」「もう読みました」よ…となります。

なんだか「この本ですが」が宙ぶらりんの感じがするでしょう。自然な発想で行くと、主題は「この本ですが」になります。河野の[4]でいう[何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]に該当すると感じるからです。

【この本ですが】【私はもう読みました】
「この本に関して言えば」、「私はもう読んだ」よ…となります。
こちらの方が自然な受け取り方でしょう。

言うまでもありませんが、ここでの「が」は主語を提示していません。「この本ですが」が主語であると感じる人はいないでしょう。「が」は主語をあらわすだけの助詞ではありません。そうなると、「は」も主題をあらわすだけの助詞とは言いにくくなります。

読み書きをする側にとって、【主題】は助詞ハによって提示されるという原則が納得できるのであれば、問題ありません。しかし、そんなに簡単ではなさそうです。

例文を変形させて「この本ですが、もう読みました」になったら、主題のない文章になるのでしょう。しかしこの例文を見て、この文の主題は何になりますかと聞いたなら、たぶん「この本」という答えが多数になるはずです。主題の概念がわからなくなります。

「この本なんですけどね、私はもう読みましたよ」と言いたい場合に、「この本」が文頭に来るのはおかしくありません。このとき、他の人はどうも読んでないようだけど、自分はすでに読んだというニュアンスがあるなら、「私」が必要になります。

この場合、「この本は…」が文頭に来て、それに続けると、「この本は、私はもう読みました」と「は」が重なります。ここで「私は」を「私が」にするのはおかしいでしょう。「この本は、私がもう読みました」ではニュアンスが違ってきます。

こういうとき、助詞の重なりを避けようとして、「この本ですが、私はもう読みました」とか、「この本ですけどね、私はもう読みました」という言い方をしても、おかしくありません。しかしこのとき、主題が「私は」になることには、違和感があります。

「まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの」という河野の主題の原則[4]に反するのではないでしょうか。「助詞ハによって【主題】が提示される」という河野の主題に関する原則[6]が、原則[4]と対立することがあるということです。

どちらが実質的であるかと言えば、主題の原則[4]の方でしょう。「は」がつけば主題であるというふうに、形式的に決めるのは無理がありそうです。「は」がついても主題にならないもの、あるいは「は」がつかなくても主題になるものがあるならば、主題の原則[6]は成り立たなくなります。

そもそもの発想が、逆転していたのかもしれません。文を書く当事者の視点に立てば、こういうことを言いたいときには「は」をつける、こういうことならば「が」をつけるといった形式によるルールが必要なのです。

「は」がついていたら、こういう概念になり、「が」がついていたら、こういう概念になるという発想は、書く側の視点ではなくて、読む側の視点でしょう。主題や主語という抽象概念をあらわす用語になると、読む場合でも使いにくいはずです。

河野の主題に関する原則のうちの2つが矛盾することがあるということになります。
[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】
[6] 助詞ハによって【主題】が提示される

ルールを使う側の視点に立つと、[4]の原則が優先されることです。[6]はルールとして成立しません。そうなると河野の言う[ハとガの違いは][主題と主語の違い](p.106 『日本列島の言語』)という見解は成立しないということになります。

すでに「が」がつく言葉が主語になるとは言えない点を見ていました。主題の場合も、同じことが言えます。「は」がつく言葉が主題になるとは言えません。

      

4 単肢言語の特徴の裏づけ

主語と述語、主題と解説というルールを使おうとしたら、それらの概念を明確にする必要があります。主語も述語も、いささか困った概念になってしまいました。再定義するしかなさそうです。主題も簡単に元年を明確にできそうにありません。

こういうときに、機械的に「は・が」で区別できたなら楽ですが、以上みてきたように、そういう対応にはなっていません。「主語-述語」の概念を再定義したほうがよさそうです。文末の概念を明確化し、その主体をセンテンスの主役と考えるほうが合理的です。

一方、[主語-述語の論理的関係とは別の関係である][主題(thema)とその説明(rhema)による、心理的な、表現秩序](p.106 『日本列島の言語』)に関して、日本語ではまだ主題の概念も安定していませんから、使い方が確立するはずもありません。

河野の主題についての原則を参考にしながらも、別の観点から見ていく必要がありそうです。「主題-解説」の使い方は、日本語ではまだ確立していないというべきでしょう。

ここで宿題をまずやらなくてはいけません。「貴方は適任」と「貴方が適任」の違いを説明せよという問題でした。両者の違いは「は」と「が」です。

「は」という助詞が、どんな機能を持っているかが問題になります。特定し、限定するのが「は」の主要な機能です。従って、特定したもの、限定したもの以外について、言及することにはなりません。あるものに対して、それだけについて語るニュアンスが出てきます。

「貴方は適任」がどういうニュアンスを持っているか、以上からわかるはずです。「他の人は知りませんけどね、貴方は適任ですよ」という評価をしていることになります。他との比較でなくて、絶対的な評価です。従って、客観的なニュアンスが出ます。

助詞「は」は、特定し限定して、それについての絶対的なニュアンスをもち、客観性も帯びます。そのため助詞「は」は対象を強調するアクセントが、助詞の中でも一番強いものになりました。

一方、助詞「が」の場合、選択肢のある中から選び出して、決定するということが主要な機能といえます。選択肢から選ぶということは、相対的な評価だということです。また選択する過程で、当事者の評価が入りますから、主観的なニュアンスをもちます。

「貴方が適任」がどういうニュアンスを持つか、もうおわかりでしょう。「いろいろな方がいらっしゃいますけどね、貴方が適任ですよ、私はそう思います」ということになります。この場合、評価というよりも推奨というニュアンスというべきかもしれません。

もし自らが自らを選択して決定する場合、意思を表すことになります。これもおわかりでしょう。「私が行きます」という文から、「私」の意思を感じるはずです。「私は行きます」ならば、他の人とは関係なく、自分のことのみ、たんたんと語っていることになります。

助詞「が」も、選択して決定するのですから、強調のニュアンスを色濃くもっていると言えるでしょう。相対的な強調ですから、助詞「は」の絶対的な強調に比べればマイルドになります。

特定し限定する助詞「は」と、選択し決定する助詞「が」には、強調する機能があるということです。主体が不明の場合に、原則として「は・が」をつけて目印にして、確認を求めるのは、自然なことでしょう。

主題がわかっているときに、あえて主体に「は・が」をつけたら、強調になるのも、こうした理由からです。わかりきったことならば、ほとんどの場合、あえて強調する必要はありません。主体がわかる場合に、原則として主体を明示しないのは自然なことです。

河野六郎が提唱した単肢言語には、3つの特徴がありました。
[1] 主体を明示しなくても分かる場合、主体を明記しないのが原則である。
[2] 主体がわかるにもかかわらず主体を明記する場合、主語は強調になる。
[3] 主体がわからない場合、主体を明記することが文の成立に必要である。

なぜ単肢言語には、こうした特徴があるのか。助詞「は」と「が」の機能を見れば、おわかりだろうと思います。もはや上記の「主体」を「主語」と記述する必要はないでしょう。「主語」よりも、要である文末の「主体」の方が、上記を明確に表します。

主体という言葉がわかりにくいと言われて、多くの方に聞いてみたところ、いちばんわかりやすいと言われたのが、「主役」という言葉でした。文末の主体がセンテンスの主役です。主体でも主役でもどちらでもよいでしょう。

以前の連載でも述べましたが、問題は、述語の概念の方にあります。述語の概念がずれている場合、その主体にもずれが生じます。これについては、また戻ってくることがあるでしょう。

その前に「主題-解説」をどう使うのかについて、次回、見ていきたいと思います。文法的な分析とは別の、情報の流れを分析するものです。中心となる概念は、既知と未知ということになります。

      

*連載はこちら     

    

1 「既知・は」「未知・が」の破綻

「既知と未知」を「は・が」と結びつける考え方は、もはや日本語の文法学界でも否定的に扱われるようになりました。もともと無理な考えでしたが、1980年代まで主張されていたようです。日本人にとって、「は」と「が」の違いは気になるものとみえます。

しかし「既知・未知」の考えは、情報の流れとして大切な視点です。この視点を否定すべきではありませんし、それどころか「コメント・トピック」論との関連を否定することなどできません。これは以下のマテジウスの理論の原則に関わることです。

[1] 文は【主題(thema)=テーマ=題目】と【その説明(rhema)=レーマ=解説】からなる。
[2] 思考の流れは、【すでに知られているもの(発話の基礎=既知)】から【まだ知られていないもの(発話の核=未知)】へと流れる。

      

2 「主語の省略」ではない単肢言語

河野六郎は「日本語(特質)」で「両肢言語」「単肢言語」という言い方をしています。両肢言語とは、[主語と述語を常に明示しなければならない言語](p.98 『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』)です。日本語は、これとは違う単肢言語と言えます。

[日本語は、主語は必要に応じてしか表わさない。述語中心の単肢言語である](p.98 「日本語(特質)」)のです。ここで河野は主語がないということは、[あるべき主語を省略しているのではない]と記しています。主体がわかるなら、明示の必要がないのです。

この間の事情を千野栄一は『言語学への開かれた扉』でわかりやすく説明しています。「あなたは学校に行きますか」と「学校に行くの?」では違った文です。「はい、私は学校に行きます」と「うん、行くよ」では違います。前者はあえて主語を記した文です。

▼日本語で「あなたは学校に行きますか」、「はい、私は学校へ行きます」というのは正しい日本語で可能な文ではあるが、「あなたは」と「私は」が強調されている文で、「Do you go to school?」 Yes, I do.」の訳ではない。 p.93 『言語学への開かれた扉』

     

3 「主題・は」「主語・が」

千野の説明は、わかりやすい言い方ですが、正確性では問題があります。河野は[ハとガの違い]について[主題と主語の違い]だとして[助詞ガによって主語を示す](p.106 『日本列島の言語』)と主張しました。「あなたは」「私は」は主語ではないのです。

河野は「コノ本ハ、モウ読ンダ」という例文をあげて、「コノ本ハ」が主題だと確認します。文末の主体になる言葉がありませんから、例文には主語がありません。「は」接続の言葉が主題になるのです。例文は、主語なしで、主題のある文ということになります。

河野たちのいう「コメント・トピック」論の場合、「は」接続の言葉を主題とみなすことによって、客観的に【主題】+【解説】の構造をつかむことができます。「主題」と「は」の関係にぶれが生じないのであれば、この構造は安定したものです。

しかしこれだけでは十分ではありません。たとえば「貴方は適任」と「貴方が適任」の違いが説明できるようにならない限り、「は・が」の問題は解決したことになりません。「貴方は」は主題、「貴方が」は主語だという説明で納得する人はいないでしょう。

     

(2022年6月24日)

*これまでの連載はこちら

      

1 大野晋の「既知・未知」の解釈

前回、河野六郎の「日本語(特質)」(『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』所収)に関連した事項について見ました。まだマテジウスの主張との関連を確認した程度で終わっています。問題にしたマテジウスの理論の原則は、以下の二つでした。

[1] 文は【主題(thema)=テーマ=題目】と【その説明(rhema)=レーマ=解説】からなる。
[2] 思考の流れは、【すでに知られているもの(発話の基礎=既知)】から【まだ知られていないもの(発話の核=未知)】へと流れる。

日本語の文法との関係で、既知と未知と「は」「が」の関係が問題になりました。既知の情報を表すときには「は」を接続させ、未知の情報を表すときには「が」を接続させるという主張があります。これは成立しないことを前回、記しました。

この既知・未知については、大野晋『日本語文法を考える』の3章「既知と未知」で説明しています。この本は1978年に刊行されました。ひろく読まれたものですから、既知・未知について、多くの人が大野の説明で知ることになったと言えるかもしれません。

井上ひさし『私家版 日本語文法』では、『日本語文法を考える』に先立つ1975年の『文学』43巻9号にある大野の「助詞ハとガの機能について」を取り上げています。その内容を、こんな風に要約しています。

▼大野晋はこう説いている。すなわち、話題を提起する場合に、最初に話題を示すときには「が」を用い、その後は「は」を用いるということから、「が」は未知の、新しい情報を示す、「は」は既知の、古い情報を示す p.31 『私家版 日本語文法』

こうした理解に基づいて、しかし[作品の冒頭からいきなり「は」が用いられている例は際限なくある](p.33)と記して、大野説を退けています。おそらく「既知と未知」ということを、井上ひさしのように理解するのがふつうです。

ただし、大野晋は違った解釈を要求しました。「あなたのお嫁さんは、ぼくが世話をするよ」という例文を出して、[「あなたのお嫁さん」というのは、突然出て来たのにハで表されていると考える人もあるかもしれない](p.46 『日本語文法を考える』)と記しています。その解釈は間違いだということでした。

この例文では、[話し相手が独身であるという][事実の上の文脈に立っているのだから][「あなたのお嫁さん」は両者の間ですでに知られた話題である。従ってハがそこに使われる](p.46)というふうに考えるのです。

[「お嫁さん」が誰になるか未定であることと、話題として既知であるということを混同してはならない](pp..46-47)と、不明確な苦しい説明を行っています。これでは、大野にいちいち確認しないと、既知だか未知だか決めかねることになりそうです。

前回示した例文「1904年3月、その王様はパリ郊外のお城に住んでいました」の場合、あるいは「2011年3月11日の午後、おじいさんとおばあさんは仙台のホテルに滞在していました」は、どうでしょうか。物語の冒頭に出てきた「その王様」や「おじいさんとおばあさん」が[すでに知られた話題]というのは、かなり無理がありそうです。

多くの人が使えるようにするためには、シンプルな形式が必要になります。「あなたのお嫁さんは、ぼくが世話をするよ」における既知が「あなたのお嫁さん」であり、お嫁さんを世話するくらい親しいはずの「ぼく」が未知になるという解釈は不自然です。

文脈を持ち出して、そこでの解釈に基づいて、既知と未知を決めるようでは、文法のルールとしては使えません。大野の考えは、マテジウスなどの理論をふまえたものではないでしょう。大野の独自解釈が前面に出ていて、いまから見るとそこが不安定です。

       

     

2 「は・既知」「が・未知」の破綻

大野は『日本語文法を考える』の「補註」に[既知と未知という考え方は、すでに『標準日本文法』(松下大三郎、1924年刊)に、新観念、旧観念の語で取り上げられている](p.213)と記していました。この流れの中に大野もいたということになります。

2001年の『新しい日本語学入門』で庵功雄は、[「は」と「が」の使い分けの問題]について[「情報の新旧」という観点からこの問題を考えることも出来ます。そうした説の代表は久野暲(1973)です]と言い、[この久野の説には批判もありますが、日本語教育をはじめ広く使われています](p.257)と書いていました。

1981年に出版された北原保雄の『日本語の文法』(「日本語の世界6」)では、「第七章 主題をめぐる問題」の中に「既知と未知」の項目が立てられ(p.253)、それ以降、章末(p.282)まで「既知・未知」のことが論じられています。

しかしそれ以降、一般向けの日本語文法の本では、「は」と「が」について「既知・未知」と関連づけた記述は見当たりません。例えば、この連載で触れてきた一般向けの本に、以下があります。

1989年刊行:吉川武時『日本語文法入門』
1991年刊行:野田尚史『はじめての人の日本語文法』
2000年刊行:森山卓郎『ここから始まる日本語文法』
2012年刊行:原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』

これらの本には「既知・未知」の項目が見当たりません。助詞「は」の接続と既知情報、助詞「が」の接続と未知情報というふうに結びつけるのは、かなり無理をしたものでした。

1994年刊行の千野栄一『言語学への開かれた扉』で、[近年になってプラハ学派を中心に考察されている functional sentence perspective なる理論で、「ハ」と「ガ」の機能に再び関心が集まっている](p.95)と記されていました。ここでの「近年」がいつなのかは正確にわかりません。

1986年に出た『外国語上達法』で、千野栄一は[日本語の「は」と「が」](pp..77-79)の項目で、「既知・未知」と関連づけた記述をしていました。これは暴走だったように思います。もはやこの部分は、否定的に扱うしかないでしょう。

どうやら1980年代の終わりには、「は・が」と「既知・未知」を関連づけるのが無理だということになったようです。そのこと自体は、よいことでした。

しかし「既知・未知」の考えは、情報の流れとして大切な視点です。この視点を否定すべきではありませんし、それどころか「コメント・トピック」論との関連を否定することなどできません。

すでに見たマテジウスの理論の原則について、あらためて見ておいたほうがよさそうです。

[1] 文は【主題(thema)=テーマ=題目】と【その説明(rhema)=レーマ=解説】からなる。
[2] 思考の流れは、【すでに知られているもの(発話の基礎=既知)】から【まだ知られていないもの(発話の核=未知)】へと流れる。

千野栄一の『言語学への開かれた扉』には、以下の記述があります。

▼「コメント・トピック」論はマテジウス自身が述べているように、マテジウスが考え出したものではなく、言語研究の世界では古くから注目されていたテーマであるが、それを言語と言語外現実との関係という形で捉え直し、文の文法的分析と対応する発話の視点からの分析と位置づけて、文法的分析との関係を追求し、改めて言語学のテーマとして取り上げたところにマテジウスの功績がある。 p.236 『言語学への開かれた扉』

ここを読んだだけではわかりにくいでしょう。[文の文法的分析と対応する発話の視点からの分析]ということがポイントになります。「コメント・トピック」論は文法的な分析とは別の分析法であること、それは情報の流れからの分析であるということです。

こうした理論的な整理がなされた後であるならば、文法のルールの基礎になる解釈は標準化されていくはずでした。いまから読むと、大野晋『日本語文法を考える』での「既知・未知」の解釈には、いささか強引な印象があります。

この点、河野六郎の「日本語(特質)」の場合、マテジウスなどの言語学の成果をふまえた上でのものです。主張が明確なため、おかしかったら、それを指摘しやすいようになっています。

        

      

3 単肢言語の特徴

千野栄一『言語学への開かれた扉』によると、[河野六郎が言語学界に占めるユニークな地位の第一は文字論である](p.264)とのことです。さらにもう一つの柱がありました。取り上げたいのは、こちらの第二の柱の方です。

▼河野言語理論の第二の特徴は、言語の本質をなす構造のタイプはそれほど多様ではなく、少数の統辞論的タイプを表す指標が、かつての形態論的な類型論の根底にあるとみている点にある。主語、述語という文における二項主義と、述語だけが文の主要構成要素になる一項主義を区別し(これはマルチネの考え方と同じである)、河野は同じ一項主義でも、モンゴル語から日本語にいたる言語の主なる特徴として、アルタイ型用言複合体という考えを披瀝している。 p.265 『言語学への開かれた扉』

千野の言う「二項主義」と「一項主義」について、「日本語(特質)」の河野は、「両肢言語」「単肢言語」という言い方をしています。河野の命名です。両肢言語とは、以下のようなものだと記しています。

▼印欧語では、主語と述語は文の不可欠の要素である。このように、主語と述語を常に明示しなければならない言語を、仮に両肢言語とよぶ。 p.98 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

一方、日本語は単肢言語だということになります。河野の説明によれば、[日本語は、主語は必要に応じてしか表わさない。述語中心の単肢言語である](p.98 「日本語(特質)」)というものです。

河野は言語の構造タイプを、主語と述語の明示の点から区分しました。主語+述語が明記されるタイプの「両肢言語」に対して、主語が欠落しても成立する述語中心の「単肢言語」である日本語について、河野は解説を加えています。

▼たとえば、行クという表現は、日本語としては、これだけで立派に一文をなしうるのであって、あるべき主語を省略しているのではない。もちろん、それは、文脈の中で、行ク主体が了解されている場合である。その主体が明らかでないときは、私ガ行クとか、彼ガ行クとか、助詞ガを添えて言う。 p.98 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

ここは、すこし注意しないといけません。主語がないという点について、[あるべき主語を省略しているのではない]ということです。[主体が了解されている場合]には、主語は必要ないから表記しないという立場にたっています。

千野栄一が『言語学への開かれた扉』で、この点をわかりやすく説明しています。あわせて読んでみると、河野の言うことの意味は分かるはずです。まず第一段階として、千野は、以下のように記しています。

▼よく聞かれる例は、「日本語は主語をよく略す」という表現である。この「略する」という言い方はすでに主語がなければならないことを前提にしていて、主語があるのが当然という立場に立っている。 p.93 『言語学への開かれた扉』

主語が記述されていないのは、省略されたのとは違うというのです。千野は[世界の言語における文のあり方を見ると、言語によっては主語・述語と揃うのが文のパターンの基本である言語もあれば、述語一つあれば十分な言語もある](p.93)と、河野の見解を確認しています。

千野はわかりやすいように、[日本語はあくまでも述語だけの文が本来の姿](p.94)という言い方をしました。[述語だけ]というのは、やや踏み込み過ぎかもしれませんが、河野が「主語は必要に応じてしか表わさない」(p.98 「日本語(特質)」)と言うのは、主語がないのが本来の姿だということになります。

河野の言う単肢言語とは、主語が明示されなくてもセンテンスを成立させることのできる言語ということです。主語がなくても成立するセンテンスは[述語中心](p.98 「日本語(特質)」)の構造になります。

このように主語を明記する必要がないセンテンスにおいては、主語を省略したわけではありません。主語がないほうが本来の姿だということです。この点を、千野は以下のように説明しています。

▼「あなたは学校に行きますか」、「はい、私は学校に行きます」が普通の文である言語と、「学校に行くの?」、「うん、行くよ」で十分な言語があって、後者は前者を略したものではない。日本語で「あなたは学校に行きますか」、「はい、私は学校へ行きます」というのは正しい日本語で可能な文ではあるが、「あなたは」と「私は」が強調されている文で、「Do you go to school?」 Yes, I do.」の訳ではない。 p.93 『言語学への開かれた扉』

主語を明示しなくても分かっているときに、あえて主語を記述する場合、その主語を強調しているということです。記す必要がないときには、記さないのが原則だということになります。「単肢言語」の特徴として、以下を確認しておきましょう。

[1] 主体を明示しなくても分かる場合、主語を明記しないのが原則である。
[2] 主体がわかるにもかかわらず主語を明記する場合、主語は強調になる。
[3] 主体がわからない場合、主語を明記することが文の成立に必要である。

       

4 「主語とガ」「主題とハ」の関連づけ

千野栄一の主語の省略ではないという説明の仕方は、わかりやすいものでした。補助線として有用なものです。同時に、河野六郎の考えとの違いも見えてきます。河野の主張を確認するために、このあたりも見ておきましょう。

河野は、センテンスの[主体が明らかでないときは、私ガ行クとか、彼ガ行クとか、助詞ガを添えて言う](p.98 『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』)と記しています。主語には「が」を接続させるという考えです。さらに河野は言います。

▼このガは主語を意味するが、文法的には補語であって、「主格的補語」とでもよぶべきものである。そして、この補語は、他の補語と同様、述語動詞を限定する従属的要素で、常に述語動詞に先行する。 p.98 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

これを踏まえて、河野はこんな風に書きました。

▼日本語は、上述のように単肢言語であるから、主語は不可欠の要素ではない。そして、必要があれば、補語として助詞ガによって主語を示すことができる。 p.106 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

千野の場合、一般向けの文章だったためなのか、主語・述語という学術用語をあまり厳格に使っていません。先に引用したように、[述語だけの文が本来の姿](p.94 『言語学への開かれた扉』)というときの「述語」の使い方は妙なものでした。

さらに同じ本で千野は、「あなたは学校に行きますか」と「学校に行くの?」とを並べて、後の文に「あなたは」がないことについて、[後者は前者を略したものではない](p.93)と書いています。ここで千野は、「は」のつく「あなたは」を主語だとしているのです。

河野は[主題を示すのが助詞ハであるが、ハは、主語を示すのではない](p.106 「日本語(特質)」)と記しています。[ハとガの違いは、このように、主題と主語の違いであって、主題の提示は、主語-述語の論理的関係とは別の関係である](p.106 「日本語(特質)」)というのが河野の主張でした。

ここでの千野の説明が間違いだとは言えません。学校文法なら、「私は」「私が」も、「あなたは」「あなたが」も主語と扱われます。一般的な世の中の理解をみるなら、こうした認識が主流かもしれません。

とはいえ多くの文法学者は、河野の同様、「は」と「が」を区別して扱っています。河野は[ハとガの違いは、このように、主題と主語の違い]であり、[助詞ガによって主語を示す](p.106 「日本語(特質)」)という認識でした。

単肢言語と言う場合に問題になるのは、主語の方です。主題については、記述するのが原則であるという認識のようです。以下のように河野は記しています。

▼日本語といえども、文は、ある主題について述べられることがふつうであり、その主題を示す必要がある。 p.106 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

河野が主題を示すハの事例としてあげた例文は「コノ本ハ、モウ読ンダ」でした。「コノ本ハ」がこの例文の主題です。「読ンダ」の主体は「私」になります。「読んだ」の主体者である「私」が記述されていないので、主語がない文となるでしょう。

河野は主題の指標として「は」の接続を主張していました。従って、例文が「コノ本ヲ、モウ読ンダ」となった場合、主語がなく、主題もない文だということになります。

主題があるのがふつうだと河野は書いていましたし、たしかに「この本」を主題にした「コノ本ハ、モウ読ンダ」の文の方が、「コノ本ヲ、モウ読ンダ」よりも、おさまりがよいように感じます。

一方、「私はこの本を、すでに読み終えました」という文があったら、「私は」が主題ということです。この場合、学校文法でもみられた「主部+述部」の構造と同様になります。【私は】+【この本を、すでに読み終えました】という構造です。

この例文の場合、【主部】+【述部】と、【主題】+【解説】が一致しています。

一方、「この本は、すでに読み終えました」という文の場合、【この本は】+【すでに読み終えました】という【主題】+【解説】の構造です。

「この本」は文末の「読み終えました」の主体ではありませんから、【主部】+【述部】の構造にはなりません。

河野たちのいう「コメント・トピック」論の場合、「は」接続の言葉を主題とみなすことによって、客観的に【主題】+【解説】の構造をつかむことができます。「主題」と「は」の関係にぶれが生じないのであれば、この構造は安定したものです。

多くの一般向け日本語文法の本で、「コメント・トピック」論を採用しています。「既知・未知」と「は・が」の関係とは違うようです。では、河野の言うように、「は」が接続する言葉が主題になると言ってよいのでしょうか。それが問題になります。

ここで一区切りつけましょう。次回、「コメント・トピック」論を適用させた事例を、もう少し見てみる必要がありそうです。

今回残念なことに、宿題に応えられませんでした。「貴方は適任」と「貴方が適任」では、ずいぶんニュアンスが違います。両者がどう違うのかまで踏み込めませんでした。

「貴方」が既知だったり、未知だったりするわけではありません。「貴方」が主題であり、あるいは主語であると言われても、それだけで納得する人は、まずいないでしょう。

単純に主題と「は」を関連づけただけでは、役に立たないのです。たとえば「貴方は適任」と「貴方が適任」の違いが説明できるようにならない限り、「は・が」の問題は解決したことになりません。

      

*今までの連載はこちら  ・【第21回】はこちら

     

4 マテジウスの理論の2原則

河野六郎は「日本語(特質)」で[主題の提示は、主語-述語の論理的関係とは別の関係]といい、これをマテジウスの「現実的文分節」(FSP)の問題であると指摘していました。この点、千野栄一が『言語学への開かれた扉』と『外国語上達法』で解説しています。

河野が指摘するのは、千野が『外国語上達法』で示した[「文の基礎と核の理論」と呼ばれる理論]に該当するようです。[今日の術語では「コメント」と「トピック」、あるいは、「テーマ」と「レーマ」と呼ばれている問題](『言語学への開かれた扉』)です。

マテジウスは[発話の基礎(既知のもの)と発話の核(未知のもの)の違いが]どういう形で示されているのかを問題とし、[文を分析する場合に][文法的分析のほかに、基礎と核による分析があり、この二つの分析方法の間の関係についても考察を重ね]ました。

この理論の原則は、(1)文は【主題(thema)=テーマ=題目】と【その説明(rhema)=レーマ=解説】からなり、(2)思考の流れは、【すでに知られているもの(発話の基礎=既知)】から【まだ知られていないもの(発話の核=未知)】へと流れるというものです。

      

5 「文の基礎と核の理論」と日本語のハとガ

これは日本語に限った話ではなく、[人間の思考方法のユニバーサルな特質]ですから、この理論と日本語との関わりが問題になります。千野は『外国語上達法』で[日本語の「は」と「が」]という項目を立てて、以下のように記しました。

▼この「文の基礎と核の理論」がわれわれにとって特に興味をひくのは、日本語でこの区別をする手段は、チェコ語のように語順でもなければ、英語のように冠詞や受身構文によるのでもなく、「は」と「が」の区別が似たような区別を担っていることである。 p.77 『外国語上達法』

文の「基礎」と「格」の区別が[日本語の特徴の一つとされるハとガの違い]になるようです。(1)助詞「は」は主題を導き、「既知」の情報である言葉に接続し、(2)助詞「が」は主語を導き、「未知」の情報である言葉に接続するということになります。

「昔あるところに一人の王様がいました」という例文の「王様」は、昔話のはじめにくる未知の情報であるので「が」が接続するのです。「その王様には三人の娘がいました」では、既知となった王様に「は」が接続し、未知の三人の娘には「が」が接続しています。

      

6 「既知にハ、未知にガ」の間違い

千野の出した例文では既知と「は」、未知と「が」が対応していました。しかし対応しない例もあります。以下の例文を見てください。理論が当てはまらない事例がいくらでもあるのです。理論の間違いか、理論へのあてはめの間違いになるでしょう。

① 1904年3月、その王様はパリ郊外のお城に住んでいました。
② この王様が、あの三人娘の父親でした。
③ 王様にとって三人娘が生きがいのすべてだったのです。

①に初出の「その王様」は未知の新情報ですが、「は」が接続しています。②で既知になった王様に接続するのは「が」です。②で登場した「三人娘」が③にも登場しますから既知の情報になりました。しかし「三人娘が」と、「が」の接続になっているのです。

既知の情報に「は」、未知の情報に「が」が接続するというルールは日本語には存在しません。日本語は、こんな原理で「は」と「が」を使い分けてはいないということです。ナンセンスな説明というしかありません。日本語には、別の原理があるということです。