1 遺著『わが心の歴史』の「私と外国語」

日本を代表する西洋史学者だった堀米庸三の遺著『わが心の歴史』に「私と外国語」という文章があります。昭和47(1972)年の原稿です。5ページの短いものですが、外国語の勉強方法について、ひと筆書きされています。印象に残る文章でした。

[ヨーロッパの歴史が専門なので、いくつかの言葉は知っている。それは当たり前のことであるが、実を言えばあまり語学に堪能ではない]と記しています。そんなわけはないのです。実際[かつては自分も語学に才能があると思っていた]くらいです(p.114)。

しかしとてつもなく外国語が出来る人たちの中に入って、自分の[この自信がものの見事に崩れるときがきた]のでした。東大のラテン語の講義に出たときのこと、キケロの『友情論』を読もうにも[第一行目からしてわからない]状況に陥ったとのことです。

      

2 語学のできる人たちの勉強法

自分がわからないのに、[読めるやつがいたらお目にかかってやろうぐらいの捨てばちで教室に出た]と言うのでした。ところが最初の人も次の人も、[スラスラとやってのけたのである。このときほど驚いたことはない](p.114)と記しています。

[このときの私のクラスメートは五、六人だった。その人たちはいまみな語学や文学の専門家として、現在の日本で一流の地位を占めている人ばかり](p.115)、全員特別に語学の出来る人たちです。その人たちの勉強法について、堀米はこんな風に観察しています。

▼皆文法に対する特殊な興味を持っており、その素地でもって誠に正確な辞書の引き方を心得ていた。私はと言うと、文法ほど嫌いで不得手なものはなかった。ただ若い時は記憶力がかなり強かったので、イディオムやフレーズを矢鱈と覚えこみ、一種の語感ができたので、文法に興味を持たなくても、旧制高校程度の語学ではボロを出さずに済んでいたのである。 p.115

     

3 読む訓練が会話に先行する

堀米がフルブライトに留学するとき45歳だったとのことです。このとき英語会話の相手になったのが木村彰一でした。木村は、千野栄一の『外国語上達法』に出てくる神のような語学の天才S先生です。周囲には相当できる人がいたことがわかります。

[木村先生と一緒にいる間は、そばに誰がいようと、電車に乗ってもバスに乗っても、しゃべるのは英語ばかりである]。こうして3か月もすると[少なくとも不自然でなくなった]のでした。以来[世界が急に広くなったように感じた](p.117)とのことです。

堀米は大切な指摘をしています。[一つ話せる言葉が出来ると、特に会話を習わなくとも、読める言葉はなんとか話せるようになる](p.118)ということです。会話ができるようになるには、一度は集中的な訓練が必要だということになります。

さらに大切なのは、読める言葉ならば[なんとか話せるようになる]という指摘でしょう。いきなり会話から始めるのではなく、きっちり文法をやって読めるようになることから始めるべきだということのようです。語学の勉強方法として王道だと感じました。