1 アリストテレス論理学の「主辞」

北原保雄の『日本語の文法』第六章は「日本語の主語」です。現行の教科書では、ほぼすべてで主語という成分を立てているだろうと書きだしています。現在も同様でしょう。では主語というのは、どういう概念なのかと北原は問うています。

▼Subject および Predicate の語源は、アリストテレス論理学で用いられたギリシャ語の hupokeimenon(主辞)・kategoroumenon(賓辞)がラテン語で、subjectum(=thrown down)・pradictum(=declared)と訳されたものに由来し、それぞれ、「述べられる主題として投げ出されたもの」、「それについて何かを述べるもの」という意である。こういうアリストテレス論理学でいう主辞は、「主題 = 説明」の主題に相当するもので、主格であるとは限らない。 p.215 北原保雄『日本語の文法』

北原は「パンは、朝食に食べる。/今は 朝食時である。/故に 今は パンを食べている。」という推論をあげます。この場合、[主辞は、「パン」と「今」とであるが、これらはいずれも主格ではない]のです。主辞は「何について」を表すことになります。

     

2 日本語の「主語廃止論」

北原は、時枝誠記『日本文法 口語篇』で、例文「私は六時に友人を駅に迎へた」では「私/六時/友人/駅」が「迎へる」に対して[同じ関係に立ってゐる]、[日本語の主語が、述語と特別の関係を構成するものでない]との指摘を明記するのです(p.223)。

さらに三上章の「主語廃止論」をあげ、[西洋の言語における主語 = 述語関係(Subject-Predicate relation)に当たるようなものが日本語にはないのかというと、それは題述関係(Topic-Comment relation)である](p.230)という三上の見解を肯定的に紹介します。

主題が[述部の言い切り(文末)と呼応して一文を完成する]日本語は、[文末と呼応して一文を完成させるものであるという点で、英語などの主語と共通する](p.231)のです。北原は章の最後に[主語は日本語の文法論にとっては無用のもの]だと記しました。

     

3 文末と呼応しない「題述関係」

北原は日本語の文法に主語は無用であり、「主題 = 説明」の関係を日本語の中核とする見解に従います。「パンは、朝食に食べる」ならば、主題「パンは」、説明「朝食に食べる」、「今は 朝食時である」ならば、主題「今は」、説明「朝食時である」です。

主語を廃止して、主題を中核に据える見解は、その後、学説の多数説になっていきました。北原もそれに従っています。ここで問題になるのは[述部の言い切り(文末)と呼応]と言えるかどうかという点です。「パンは」と「食べる」は呼応していません。

主題と説明の理論も西洋の言語理論でした。日本語に即して生みだされた概念ではなくて、「Topic-Comment relation」です。三上は「題述関係」と訳していました。「主述関係」が文法概念だとすると、それとは別の論述(論理学)についての概念といえます。

日本語がわかるということは、「パンは、朝食に食べる」とあったら、「誰が食べるのか」がわかるということです。「私は」だとわからなくてはいけません。主体が文意の理解に不可欠だからです。文末に主体推定機能がある点を、北原らは見落としています。