■現代の文章:日本語文法講義 第26回 「基礎概念の通説的見解」

(2022年8月3日)

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1 通説的な立場の確認が必要

『岩波講座言語の科学 5 文法』の「2 文法の基礎概念Ⅰ」は、益岡隆志が書いたものです。基礎概念が簡潔にきちんと書かれていて、とても優れていると思いました。読むと、内容がわかります。明確でない文章では、何を言っているのかわかりません。

通説的な日本語文法の基礎概念をここで確認することができます。ただし現在の通説とはやや違いがありそうです。基礎概念を簡潔にわかりやすく記述した文献が、他にもあるかもしれませんが、少なくとも益岡の解説を読むと、やっとわかったという気がしたした。

基礎概念をひとまず確認してから、もっと新しい入門書を見ておいたほうが良いと思います。原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』が標準的な立場に立っているように見えました。詰めが甘い点もありますが、わかりやすくまとまっていると思います。

この本を使って、基礎概念について通説の立場を確認していきましょう。原沢の説明の方が、現在の通説に近いはずですが、解説を誤読しないようにするために、益岡の解説をふまえておきたいと思いました。原沢の本は、例文とその解説がある点でも便利です。

      

     

2 益岡隆志による基礎概念の確認

原沢の『日本人のための日本語文法入門』で特徴的といえるのは、最初の章で学校文法を否定しながら、述語の一番大切な機能を説明していることでしょう。いままでにも何度かふれたすぐれた例文が示されていて、その例文を使って、基礎概念を説明しています。

ただ、すこし注意が必要です。基礎概念をまとめて解説していないため、基礎概念の全体像が見えにくい点がありますし、また説明の厳格性にも不安があります。この点、『岩波講座言語の科学 5 文法』「2 文法の基礎概念Ⅰ」の益岡隆志による解説は明確です。

まず益岡の基礎概念を確認して、それとの対象で『日本人のための日本語文法入門』の説明を読みたいと思います。益岡が示す基礎概念は5つです。述語を中心的な成分だとしていますが、その理由が直接的に説明されていませんので、その点を確認しておきます。

益岡があげた成分は「述語成分」以外、4つです。このうち「主題」を別扱いしていますので、「述語修飾成分」「補足成分」「状況成分」が問題になります。これらのうち「述語修飾成分」という名称が象徴的です。状況成分は「述語修飾成分の一種」とあります。

残りの「補足成分」は[述語が表す事態に関する情報を補う役割を担っている]概念とのことです。述語が中心で、それを補うということは、修飾しているという意味になります。この点で、大きく見ると「述語修飾成分」の一種ともいうことになるでしょう。

益岡は述語を中心的な成分としています。この述語に説明を加えるための成分を取り上げて、それらを「述語修飾成分」「補足成分」「状況成分」の3つに分けました。さらに「主題成分」があるとしています。以上が、日本語文法の基礎概念ということでした。

      

3 通説の立場を知るために便利な本

以上をふまえて、原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』における基礎概念を見ていきましょう。原沢も述語を中心的な成分としています。[文の要は述語であり、その述語を中心にいくつかの成分が並んでいると考える](p.17)と説明しています。

さらに益岡が[主語否定論の立場に立つ](p.46 『岩波講座言語の科学 5 文法』)のと同じ立場です。[日本語文法では学校文法のように主語を特別扱いしません。いくつかある成分の中の一つであるという考え](p.17)ですから、主語は基礎概念になりません。

ここで主語を特別扱いしない点を強調したいためなのか、主語成分を特別な概念とせずに[皆対等な関係で述語と結ばれていると考えるのです](p.17)とあります。「対等な関係」というのは、曖昧で不明確な説明です。こうした詰めの甘さがあります。

「日本語文法」と「学校文法」を安直に対比させている点も、益岡の解説を基本にすえないと危ないと感じさせることになりました。さらに[主述関係が文の基本的な構造であるとする]考えを[大きな間違いなんですね](p.17)という書き方をしています。

すぐれた学者の本として『日本人のための日本語文法入門』を選んだのではありません。通説を知るために選んだものです。通説に近い立場で書かれている点に価値があります。益岡の基礎概念の考えには、通説との違いがありますから、その確認が必要です。

      

4 「パーツ」が「ボルト」で[述語と結ばれ]る関係

原沢は「母が台所で料理を作る」という例文をあげています。文中の成分は、「母が」「台所で」「料理を」の三つが、述語である「作る」と[皆対等な関係で述語と結ばれている](p.17)とのことです。対等だったとしたら、同じ成分になるのでしょうか。

そう簡単ではないようです。まず主語について、「意味的に重要な役割を担っていることは否定しません」が、それは[意味的な重要性であって、文法的な関係においては、主語だけを他の成分と異なる特別な存在としては認めていないんです](p.18)とのこと。

どうやら「意味的な重要性」と「文法的な関係」は別なようです。[主従関係では、日本語の文法体系を正しく説明することはできないんです](p.18)とあります。「文法的な関係」とは「文法体系」を構成するものであって、意味的な価値とは無縁のようです。

そうなると何をもって日本語では、文法的な関係、文法体系を形作っているのでしょうか。原沢はここで「パーツ」という概念を提示します。見出しでいきなり使い、その意味を説明していませんので、この概念は明確ではありません。しかし例文が示されます。

「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」です。述語は「食べた」と説明されています。なぜ述語になるのかは、益岡の説明と同じでしょう。述語の前にある成分が述語に説明を加えるからです。そのとき結びつき方を原沢は説明します。

例文にある「で」「が」「を」「と」を取り上げて、これが「格助詞」であると確認した上で、[格助詞というボルトによって、それぞれの成分は述語と結ばれ、そのボルト(格助詞)の種類によって、述語との関係が決定される](p.21)と説明しています。

どうやら「ボルト」で[述語と結ばれ]るのが「パーツ」だということのようです。「パーツ」も「ボルト」同様、説明のための一般的な用語であって、基礎概念とは関係ないのでしょう。ただし述語との結びつき方が示されていますから、便利な用語です。

ティジュカで (場所) -- 食べた
ジョアキンが (主体) -- 食べた
フェジョンを (対象) -- 食べた
シキンニョと (相手) -- 食べた

意味で言うならば、「場所・主体・対象・相手」ですが、こちらは意味的なものですから、ひとまずおいておきましょう。大切なのは、格助詞が接続された各成分が「食べた」という述語とつながっているということです。これが文法的な関係でしょう。

これらが[皆対等な関係で述語と結ばれている](p.17)ということです。原沢がそのときあげていた例文は「母が台所で料理を作る」でした。これは上記と同じ関係になります。格助詞のついた各成分が同じように、以下のように述語と結ばれているのです。

母が  (主体) -- 作る
台所で (場所) -- 作る
料理を (対象) -- 作る

原沢の説明は、ここまではわかりました。しかし益岡の説明を読んだ後ならば、この段階では、原沢の言う「文法体系」にはなっていないということがわかるはずです。益岡のいう「述語修飾成分」「補足成分」「状況成分」とどう違うのか、確認が必要になります。

      

5 必須成分と随意成分

問題となるのは「母が台所で料理を作る」のうち、「母が」「台所で」「料理を」を益岡の言う「補足成分」と呼んでよいのかどうか。さらに「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」の「ティジュカで」が「状況成分」になるのかどうかです。

この点、原沢の考えはおそらく通説の考えになるのでしょうが、益岡の説明と少し違っています。原沢は[それぞれの成分は述語との関係において欠くことのできない必須成分とそうではない随意成分とに分かれます](p.22)と記しているのです。

原沢による区分の仕方についての説明の前に、区分のされ方を具体例で見ましょう。「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」では、必須成分が「ジョアキン(が)」「フェジョン(を)」、随意成分が「ティジュカ(で)」「シキンニョ(と)」です。

これを見ると、益岡の基礎概念が崩れているのがわかるでしょう。益岡のいう「状況成分」がなくなっています。「状況成分」+「補足成分」を原沢は「パーツ」と呼んだようです。このパーツを[絶対に必要なパーツ]と、そうでないパーツに分けました。

パーツを2つに分けるときに、状況成分と補足成分に分かるのなら、益岡の基礎概念と同じですが、それならばあえてパーツにまとめる必要はありません。必須成分と随意成分の概念がどう違うのか、これをどういう方法で区分するのかが問題です。

       

6 対等な関係のパーツを二分する方法

原沢は[皆対等な関係で述語と結ばれている](p.17)と書いていたにもかかわらず、[絶対に必要なパーツ]と、そうでないパーツに分けようとしています。もし「皆対等な関係」であるならば、絶対必要とたいして必要でないパーツに分けられるのでしょうか。

必須成分と随意成分の概念は、どう違うのか、区分方法はどうなるのか、よほど気をつけてみておかなくてはいけません。原沢は例文「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」を使って説明しています。まずは、区分法を見ていきましょう。

原沢は、例文の述語である「食べた」の前の「ティジュカで」「ジョアキンが」「フェジョンを」「シキンニョと」の4つがパーツを削除していく方法を採ります。[削除することができない成分が必須成分、削除しても文として成り立つ成分が随意成分]です。

たとえば、[「ティジュカで」を削除してみます](p.22)。[「ティジュカで」という成分がなくても、文として問題があるとは感じられませんね](p.23)と記しています。こうした判定から[必須成分ではなく、随意成分と考えることができます](p.23)とのこと。

このようにパーツを削除する方法で区分しています。[「ジョアキンが」を削除して]みると、[ちょっと意味が不明ですね]、[「ジョアキンが」は削除することはできないようです]。したがって[「ジョアキンが」は必須成分](p.23)になるのです。

「フェジョンを」も同様に削除すると、[これもよくわかりませんね](p.23)ということになるので、「フェジョンを」は必須成分です。一方、「シキンニョと」を削除しても[特に違和感は感じません]ので、[「シキンニョと」は随意成分となります」。

削除すると意味不明に感じたり、違和感を感じさせる成分の場合、不可欠な成分だと判断されて必須成分と判定されます。一方、削除しても意味不明にならず、違和感もなければ随意成分に判定されるということです。では、こうした判定法は妥当なのでしょうか。

       

7 判定方法の危うさ

必須成分と随意成分を区分する原沢の判定法が妥当かどうかは、別の例文でも妥当な区分ができるかどうかでひとまず分かるはずです。例文が「マックで私がハンバーガーをシキンニョと食べた」になった場合、原沢の方法を使って区分するとどうなるでしょうか。

原沢の言うボルトとなる格助詞は、先の原沢の例文と同じく「で・が・を・と」になっています。述語は同じく「食べた」です。「マックで」「私が」「ハンバーガーを」「シキンニョと」の4つの成分がどう判定されるかが問題となります。

「マックで私がハンバーガーをシキンニョと食べた」から、「マックで」を削除してみましょう。「私がハンバーガーをシキンニョと食べた」となります。これならば問題ないはずです。したがって「マックで」は随意成分になると判断してよいでしょう。

つぎに「私が」を削除すると、「マックでハンバーガーをシキンニョと食べた」になります。これは、どうでしょうか。違和感は感じられませんし、意味も不明ではありません。主体の記述がない場合、主体は「私」になりますから、文として問題はなさそうです。

以上の判断に従えば、「私が」は随意成分になります。しかし原沢は、違った判断をしていたはずです。原沢の例文は「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」でした。「ジョアキンが」をカットしたとき、どう書いていたでしょうか。

原沢は[ちょっと意味が不明ですね]とか[一緒に食べたのは誰なんだろうと思ってしまいます](p.23)と書いています。普通の日本人なら「ティジュカでフェジョンをシキンニョと食べた」とあれば、主体は「私は」だと判定します。違和感など感じないでしょう。

日本語は単肢言語ですから、主体を記述するのは必須ではありません。主体がわかりきっている場合、かえって記述しないのがふつうでしょう。主体を記述しない文の場合、「私は」が主体になるのがルールです。原沢の判定方法はあやういところがあります。

       

8 文法的な関係で区分すべき

例文「マックで私がハンバーガーをシキンニョと食べた」で絶対に必要なパーツはどれでしょうか。一律に決まるのかどうか、わかりませんが、「私がシキンニョと食べた」が一番中核になりそうです。「私だよ、シキンニョと食べたのは…」という感じでしょう。

あえて「私が」と記述をしていますから、「私」の強調になっています。さらに「食べた」だけでなくて、「シキンニョ」と一緒に「食べた」のです。そのため、この例文では単に「食べた」のとは違った行為になっています。以上は意味の面から見たものです。

原沢は「意味的な重要性」でなく「文法的な関係」を重視していました(p.18)。しかし主体をめぐるルールは、たんなる意味的な重要性の問題なのでしょうか。主体を記述しなくても文が成り立つ単肢言語である日本語では、主体に特別な地位を与えています。

主体がわかりきっている場合に、あえて主体を記述すれば主体の強調になるのです。また主体の記述がなく、文末が「する・した」の意味ならば、主体は「私」だと判断されます。こうしたルールは、意味的な重要性という以上に、文法的なルールというべきです。

原沢は「意味的な重要性」でなく「文法的な関係」を重視したはずですが、成分の判別を意味に頼っています。意味を根拠にすると、判定が曖昧になりがちです。この点、益岡隆志が「補足成分」と「状況成分」を分けたときの区分法のほうが明確でしょう。

例文でいうと「ティジュカで」や「マックで」が状況成分にあたります。状況成分の要件は、「述語修飾成分」であることを前提として、①文頭に表れていること、②出来事が生起した時と場所を表すものでした。要件を明示したほうが、区分が明確になります。

益岡の成分の分類は、語順が変わると成分が変わってしまう点で、結果の妥当性に問題がありました。しかし、①の要件を削除すれば、「時間・空間」を内容とする成分となります。絶対必要な必須成分と、それ以外の「付随成分」との区分よりはましでしょう。

        

9 【主題】+【解説:コト+ムードの表現】

原沢は格助詞というボルトで、述語とパーツを結びつけるのが日本語文の基本構造だとしています。さらにパーツと呼んだ成分を、必要不可欠な必須成分とそれ以外の成分である随意成分とに区分しました。このあたりを、原沢のまとめで確認しておきます。

▼日本語文の基本構造は述語を中心にいくつかの成分から構成され、それらの成分は格助詞によって結ばれています。格成分(格助詞によって述語と結ばれた成分)は述語との関係から必須成分と随意成分に分かれ、述語と必須成分との組み合わせは文型と呼ばれます。 p.50 『日本人のための日本語文法入門』

原沢が必須成分と随意成分に区分する基準は、文型をつくるのに必須の成分とそれ以外の成分ということになります。ただし原沢は文型とは別に、「コト」という概念を提示し、[コトは文の言語事実を形成しますが、文としてはまだ未完成](p.50)だと言うのです。

未完成であるというのは、[コトをどのように考え、どのように聞き手に伝えるのかというムードの表現が必要になるからです](p.50)とのこと。原沢は本に図式化して、説明しています(p.51)。以下が、原沢の本にあるものをもとに簡略化したものです。

▼【主題:~は】+【コト:「成分」…「成分」…→[述語]】+【ムードの表現】

「ムードの表現」とは[コトの中から主題となる成分を選び、提示する](p.50)だけでなく、それ以外の表現形式もあるのです。いずれの場合も、原則として「ムードの表現」が[基本的に述語の最後につく](p.144)形式をとります。

[述語の最後につく]というのは、【述語+「ムードの表現」】の形式になるということです。原沢は例文をあげています。[1) 今日の午後、台風が上陸する・そうだ][2) 駅まで私の車で送り・ましょうか]の「そうだ」「ましょうか」がムードの表現です。

ここでポイントとなるのは、先の例文の述語が「送り」と「上陸する」とされることでしょう。コトの中に述語はあって、そのあとに「ムードの表現」がなされるということです。おそらくこれが通説的見解なのでしょう。述語はセンテンスの文末ではありません。

「~は」によって主題が提示されるとき、[残った部分は主題について説明する部分となり、解説と呼ばれます]とのことです。【主題】+【解説】の構造を採用しています。ただ、これだけでは、ややわかりにくいので、これも以下に図式化しておきます。

▼【主題:~は】+【解説:「コト」+「ムードの表現」】
・【主題:~は】+【解説:「コト」】
・【「コト」+「ムードの表現」】
・【「コト」】

主題がある文と主題のない文があり、ムードの表現がある文とない文があるということです。[コトは文の言語事実を形成しますが、文としてはまだ未完成][ムードの表現が必要になる](p.50)こともある、ということでしょう。コトだけの文もあるのです。

原沢のあげた例文で言えば、「今日の午後、台風が上陸するそうだ」は「今日の午後、台風が上陸する」+「そうだ」となって、【「コト」+「ムードの表現」】になります。「今日の午後、台風が上陸する」なら【「コト」】ということです。

「~は」がつくと主題化するとのことですので、「今日の午後には、台風が上陸するそうだ」ならば、「今日の午後には」+「台風が上陸する」+「そうだ」という【主題:~は】+【解説:「コト」+「ムードの表現」】となるはずです。

これが「今日の午後には、台風が上陸する」ならば、「今日の午後には」+「台風が上陸する」となって、【主題:~は】+【解説:「コト」】になるでしょう。原沢は明示していませんが、こうした観点で言うと、日本語の文構造は4種類になるということです。

▼【主題】+【コト+ムードの表現】:「今日の午後には、台風が上陸するそうだ」
・【主題】+【コト】       :「今日の午後には、台風が上陸する」
・【コト+ムードの表現】     :「台風が上陸するそうだ」
・【コト】            :「台風が上陸する」

       

10 通説的な立場の確認

原沢の説明を見ると、通説的な考えがかなり見えてきます。主語を特別扱いしないで、述語の前に並列的にキーワードを並べた構造を考えておいて、それらを必須成分と付随成分に分け、「必須成分+述語」で文型ができると考えるのです。

こうして述語と結びつくキーワードの体系を「コト」と扱い、それらに主題が加わったり、「ムードの表現」が加わることになります。ここでムードというのは、筆者の気持ち・心的態度を表すものです。益岡隆志はモダリティという言い方をしていました。

センテンスの文末は、多くの場合、「述語+モダリティ」か「述語」が来るということです。ムード・モダリティとは別に、述語にはいくつかの形態をとることになります。それが「ボイス」「アスペクト」「テンス」です。ここは原沢も益岡も共通しています。

益岡の『岩波講座言語の科学 5 文法』のボイスの項目の例文をみれば、わかると思います(p.55)。「話す⇔話せる」「思う⇔思われる」「飲む⇔飲みたい」「読む⇔読みやすい」「送った⇔送ってもらった」「置いた⇔置いてあった」。能動態と受動態です。

アスペクトについては、原沢が示した例がわかりやすいと思います。(『日本人のための日本語文法入門』 pp..108-109)。[動きのいろいろな段階を表す形式]です。「描くところだ」「描きはじめる」「描いている」「描きおわる」「描いてある」。

テンスについて原沢は[話そうとすることがらが過去に起きたことか、現在起きていることか、これから起きることかといったことを示す文法手段]と説明しています(p.128)。「食べる⇔食べた」「美しい⇔美しかった」「学生だ⇔学生だった」などの変化です。

これらの組合せを見ておきましょう。「描き終わった」ならば、【ボイス:能動態】【アスペクト:終了】【テンス:過去】となり、「描いてもらうところだ」ならば、【ボイス:受動態】【アスペクト:動作の直前】【テンス:現在】となりそうです。

ボイス・アスペクト・テンスは述語に関する基礎概念であり、「コト」内部の表現形態といえます。一方、「コト」の枠外における基礎概念には、主題と心的な態度を示すムード(モダリティ)があるということです。通説的な立場をひとまず、こう理解しておきます。

         

11 通説的な立場の解説は貴重

すこし回り道をして確認してみました。一般の人たちや、ビジネスリーダーの人たちが、日本語文法の通説的な立場を知っているとはとても思えません。私だけではないと思います。基礎概念となる骨格の部分は、シンプルであるべきですし、実際その通りでした。

「~は」を機械的に主題の区分として使い、述語をボイス・アスペクト・テンスの項目ごとに分解している点、通常の読み書きの立場とは違うでしょう。そのあとにムード・モダリティを加えて、センテンスの文末を構想する発想も違和感があって賛同できません。

各項目につけられた例文の説明にも違和感を持ちました。例によって、行ったり来たりしながら、これらの例文についての説明も見ていきたいと思っています。河野六郎の「日本語(特質)」(『日本列島の言語』)がどう通説と違うのかの確認も大切でしょう。

原沢伊都夫は『日本人のための日本語文法入門』で例文「月はきれいだ」「月がきれいだ」をあげて、その違いについて[「~は」は主題を表し、「~が」は主語を表しました。両者の文法的な役割は徹底的に違ってましたね](p.150)と記していました。

原沢のこの入門書は、ここで終わらずに、個々の例文について説明しています。通説的な立場での解説は貴重です。これらの[状況を思い浮かべていただきたいと思います](p.151)とあります。これを宿題にしましょうか。今回は、ここで終わりにしておきます。