■現代の文章:日本語文法講義 第22回 「河野六郎の主張する単肢言語」

(2022年6月24日)

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1 大野晋の「既知・未知」の解釈

前回、河野六郎の「日本語(特質)」(『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』所収)に関連した事項について見ました。まだマテジウスの主張との関連を確認した程度で終わっています。問題にしたマテジウスの理論の原則は、以下の二つでした。

[1] 文は【主題(thema)=テーマ=題目】と【その説明(rhema)=レーマ=解説】からなる。
[2] 思考の流れは、【すでに知られているもの(発話の基礎=既知)】から【まだ知られていないもの(発話の核=未知)】へと流れる。

日本語の文法との関係で、既知と未知と「は」「が」の関係が問題になりました。既知の情報を表すときには「は」を接続させ、未知の情報を表すときには「が」を接続させるという主張があります。これは成立しないことを前回、記しました。

この既知・未知については、大野晋『日本語文法を考える』の3章「既知と未知」で説明しています。この本は1978年に刊行されました。ひろく読まれたものですから、既知・未知について、多くの人が大野の説明で知ることになったと言えるかもしれません。

井上ひさし『私家版 日本語文法』では、『日本語文法を考える』に先立つ1975年の『文学』43巻9号にある大野の「助詞ハとガの機能について」を取り上げています。その内容を、こんな風に要約しています。

▼大野晋はこう説いている。すなわち、話題を提起する場合に、最初に話題を示すときには「が」を用い、その後は「は」を用いるということから、「が」は未知の、新しい情報を示す、「は」は既知の、古い情報を示す p.31 『私家版 日本語文法』

こうした理解に基づいて、しかし[作品の冒頭からいきなり「は」が用いられている例は際限なくある](p.33)と記して、大野説を退けています。おそらく「既知と未知」ということを、井上ひさしのように理解するのがふつうです。

ただし、大野晋は違った解釈を要求しました。「あなたのお嫁さんは、ぼくが世話をするよ」という例文を出して、[「あなたのお嫁さん」というのは、突然出て来たのにハで表されていると考える人もあるかもしれない](p.46 『日本語文法を考える』)と記しています。その解釈は間違いだということでした。

この例文では、[話し相手が独身であるという][事実の上の文脈に立っているのだから][「あなたのお嫁さん」は両者の間ですでに知られた話題である。従ってハがそこに使われる](p.46)というふうに考えるのです。

[「お嫁さん」が誰になるか未定であることと、話題として既知であるということを混同してはならない](pp..46-47)と、不明確な苦しい説明を行っています。これでは、大野にいちいち確認しないと、既知だか未知だか決めかねることになりそうです。

前回示した例文「1904年3月、その王様はパリ郊外のお城に住んでいました」の場合、あるいは「2011年3月11日の午後、おじいさんとおばあさんは仙台のホテルに滞在していました」は、どうでしょうか。物語の冒頭に出てきた「その王様」や「おじいさんとおばあさん」が[すでに知られた話題]というのは、かなり無理がありそうです。

多くの人が使えるようにするためには、シンプルな形式が必要になります。「あなたのお嫁さんは、ぼくが世話をするよ」における既知が「あなたのお嫁さん」であり、お嫁さんを世話するくらい親しいはずの「ぼく」が未知になるという解釈は不自然です。

文脈を持ち出して、そこでの解釈に基づいて、既知と未知を決めるようでは、文法のルールとしては使えません。大野の考えは、マテジウスなどの理論をふまえたものではないでしょう。大野の独自解釈が前面に出ていて、いまから見るとそこが不安定です。

       

     

2 「は・既知」「が・未知」の破綻

大野は『日本語文法を考える』の「補註」に[既知と未知という考え方は、すでに『標準日本文法』(松下大三郎、1924年刊)に、新観念、旧観念の語で取り上げられている](p.213)と記していました。この流れの中に大野もいたということになります。

2001年の『新しい日本語学入門』で庵功雄は、[「は」と「が」の使い分けの問題]について[「情報の新旧」という観点からこの問題を考えることも出来ます。そうした説の代表は久野暲(1973)です]と言い、[この久野の説には批判もありますが、日本語教育をはじめ広く使われています](p.257)と書いていました。

1981年に出版された北原保雄の『日本語の文法』(「日本語の世界6」)では、「第七章 主題をめぐる問題」の中に「既知と未知」の項目が立てられ(p.253)、それ以降、章末(p.282)まで「既知・未知」のことが論じられています。

しかしそれ以降、一般向けの日本語文法の本では、「は」と「が」について「既知・未知」と関連づけた記述は見当たりません。例えば、この連載で触れてきた一般向けの本に、以下があります。

1989年刊行:吉川武時『日本語文法入門』
1991年刊行:野田尚史『はじめての人の日本語文法』
2000年刊行:森山卓郎『ここから始まる日本語文法』
2012年刊行:原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』

これらの本には「既知・未知」の項目が見当たりません。助詞「は」の接続と既知情報、助詞「が」の接続と未知情報というふうに結びつけるのは、かなり無理をしたものでした。

1994年刊行の千野栄一『言語学への開かれた扉』で、[近年になってプラハ学派を中心に考察されている functional sentence perspective なる理論で、「ハ」と「ガ」の機能に再び関心が集まっている](p.95)と記されていました。ここでの「近年」がいつなのかは正確にわかりません。

1986年に出た『外国語上達法』で、千野栄一は[日本語の「は」と「が」](pp..77-79)の項目で、「既知・未知」と関連づけた記述をしていました。これは暴走だったように思います。もはやこの部分は、否定的に扱うしかないでしょう。

どうやら1980年代の終わりには、「は・が」と「既知・未知」を関連づけるのが無理だということになったようです。そのこと自体は、よいことでした。

しかし「既知・未知」の考えは、情報の流れとして大切な視点です。この視点を否定すべきではありませんし、それどころか「コメント・トピック」論との関連を否定することなどできません。

すでに見たマテジウスの理論の原則について、あらためて見ておいたほうがよさそうです。

[1] 文は【主題(thema)=テーマ=題目】と【その説明(rhema)=レーマ=解説】からなる。
[2] 思考の流れは、【すでに知られているもの(発話の基礎=既知)】から【まだ知られていないもの(発話の核=未知)】へと流れる。

千野栄一の『言語学への開かれた扉』には、以下の記述があります。

▼「コメント・トピック」論はマテジウス自身が述べているように、マテジウスが考え出したものではなく、言語研究の世界では古くから注目されていたテーマであるが、それを言語と言語外現実との関係という形で捉え直し、文の文法的分析と対応する発話の視点からの分析と位置づけて、文法的分析との関係を追求し、改めて言語学のテーマとして取り上げたところにマテジウスの功績がある。 p.236 『言語学への開かれた扉』

ここを読んだだけではわかりにくいでしょう。[文の文法的分析と対応する発話の視点からの分析]ということがポイントになります。「コメント・トピック」論は文法的な分析とは別の分析法であること、それは情報の流れからの分析であるということです。

こうした理論的な整理がなされた後であるならば、文法のルールの基礎になる解釈は標準化されていくはずでした。いまから読むと、大野晋『日本語文法を考える』での「既知・未知」の解釈には、いささか強引な印象があります。

この点、河野六郎の「日本語(特質)」の場合、マテジウスなどの言語学の成果をふまえた上でのものです。主張が明確なため、おかしかったら、それを指摘しやすいようになっています。

        

      

3 単肢言語の特徴

千野栄一『言語学への開かれた扉』によると、[河野六郎が言語学界に占めるユニークな地位の第一は文字論である](p.264)とのことです。さらにもう一つの柱がありました。取り上げたいのは、こちらの第二の柱の方です。

▼河野言語理論の第二の特徴は、言語の本質をなす構造のタイプはそれほど多様ではなく、少数の統辞論的タイプを表す指標が、かつての形態論的な類型論の根底にあるとみている点にある。主語、述語という文における二項主義と、述語だけが文の主要構成要素になる一項主義を区別し(これはマルチネの考え方と同じである)、河野は同じ一項主義でも、モンゴル語から日本語にいたる言語の主なる特徴として、アルタイ型用言複合体という考えを披瀝している。 p.265 『言語学への開かれた扉』

千野の言う「二項主義」と「一項主義」について、「日本語(特質)」の河野は、「両肢言語」「単肢言語」という言い方をしています。河野の命名です。両肢言語とは、以下のようなものだと記しています。

▼印欧語では、主語と述語は文の不可欠の要素である。このように、主語と述語を常に明示しなければならない言語を、仮に両肢言語とよぶ。 p.98 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

一方、日本語は単肢言語だということになります。河野の説明によれば、[日本語は、主語は必要に応じてしか表わさない。述語中心の単肢言語である](p.98 「日本語(特質)」)というものです。

河野は言語の構造タイプを、主語と述語の明示の点から区分しました。主語+述語が明記されるタイプの「両肢言語」に対して、主語が欠落しても成立する述語中心の「単肢言語」である日本語について、河野は解説を加えています。

▼たとえば、行クという表現は、日本語としては、これだけで立派に一文をなしうるのであって、あるべき主語を省略しているのではない。もちろん、それは、文脈の中で、行ク主体が了解されている場合である。その主体が明らかでないときは、私ガ行クとか、彼ガ行クとか、助詞ガを添えて言う。 p.98 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

ここは、すこし注意しないといけません。主語がないという点について、[あるべき主語を省略しているのではない]ということです。[主体が了解されている場合]には、主語は必要ないから表記しないという立場にたっています。

千野栄一が『言語学への開かれた扉』で、この点をわかりやすく説明しています。あわせて読んでみると、河野の言うことの意味は分かるはずです。まず第一段階として、千野は、以下のように記しています。

▼よく聞かれる例は、「日本語は主語をよく略す」という表現である。この「略する」という言い方はすでに主語がなければならないことを前提にしていて、主語があるのが当然という立場に立っている。 p.93 『言語学への開かれた扉』

主語が記述されていないのは、省略されたのとは違うというのです。千野は[世界の言語における文のあり方を見ると、言語によっては主語・述語と揃うのが文のパターンの基本である言語もあれば、述語一つあれば十分な言語もある](p.93)と、河野の見解を確認しています。

千野はわかりやすいように、[日本語はあくまでも述語だけの文が本来の姿](p.94)という言い方をしました。[述語だけ]というのは、やや踏み込み過ぎかもしれませんが、河野が「主語は必要に応じてしか表わさない」(p.98 「日本語(特質)」)と言うのは、主語がないのが本来の姿だということになります。

河野の言う単肢言語とは、主語が明示されなくてもセンテンスを成立させることのできる言語ということです。主語がなくても成立するセンテンスは[述語中心](p.98 「日本語(特質)」)の構造になります。

このように主語を明記する必要がないセンテンスにおいては、主語を省略したわけではありません。主語がないほうが本来の姿だということです。この点を、千野は以下のように説明しています。

▼「あなたは学校に行きますか」、「はい、私は学校に行きます」が普通の文である言語と、「学校に行くの?」、「うん、行くよ」で十分な言語があって、後者は前者を略したものではない。日本語で「あなたは学校に行きますか」、「はい、私は学校へ行きます」というのは正しい日本語で可能な文ではあるが、「あなたは」と「私は」が強調されている文で、「Do you go to school?」 Yes, I do.」の訳ではない。 p.93 『言語学への開かれた扉』

主語を明示しなくても分かっているときに、あえて主語を記述する場合、その主語を強調しているということです。記す必要がないときには、記さないのが原則だということになります。「単肢言語」の特徴として、以下を確認しておきましょう。

[1] 主体を明示しなくても分かる場合、主語を明記しないのが原則である。
[2] 主体がわかるにもかかわらず主語を明記する場合、主語は強調になる。
[3] 主体がわからない場合、主語を明記することが文の成立に必要である。

       

4 「主語とガ」「主題とハ」の関連づけ

千野栄一の主語の省略ではないという説明の仕方は、わかりやすいものでした。補助線として有用なものです。同時に、河野六郎の考えとの違いも見えてきます。河野の主張を確認するために、このあたりも見ておきましょう。

河野は、センテンスの[主体が明らかでないときは、私ガ行クとか、彼ガ行クとか、助詞ガを添えて言う](p.98 『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』)と記しています。主語には「が」を接続させるという考えです。さらに河野は言います。

▼このガは主語を意味するが、文法的には補語であって、「主格的補語」とでもよぶべきものである。そして、この補語は、他の補語と同様、述語動詞を限定する従属的要素で、常に述語動詞に先行する。 p.98 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

これを踏まえて、河野はこんな風に書きました。

▼日本語は、上述のように単肢言語であるから、主語は不可欠の要素ではない。そして、必要があれば、補語として助詞ガによって主語を示すことができる。 p.106 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

千野の場合、一般向けの文章だったためなのか、主語・述語という学術用語をあまり厳格に使っていません。先に引用したように、[述語だけの文が本来の姿](p.94 『言語学への開かれた扉』)というときの「述語」の使い方は妙なものでした。

さらに同じ本で千野は、「あなたは学校に行きますか」と「学校に行くの?」とを並べて、後の文に「あなたは」がないことについて、[後者は前者を略したものではない](p.93)と書いています。ここで千野は、「は」のつく「あなたは」を主語だとしているのです。

河野は[主題を示すのが助詞ハであるが、ハは、主語を示すのではない](p.106 「日本語(特質)」)と記しています。[ハとガの違いは、このように、主題と主語の違いであって、主題の提示は、主語-述語の論理的関係とは別の関係である](p.106 「日本語(特質)」)というのが河野の主張でした。

ここでの千野の説明が間違いだとは言えません。学校文法なら、「私は」「私が」も、「あなたは」「あなたが」も主語と扱われます。一般的な世の中の理解をみるなら、こうした認識が主流かもしれません。

とはいえ多くの文法学者は、河野の同様、「は」と「が」を区別して扱っています。河野は[ハとガの違いは、このように、主題と主語の違い]であり、[助詞ガによって主語を示す](p.106 「日本語(特質)」)という認識でした。

単肢言語と言う場合に問題になるのは、主語の方です。主題については、記述するのが原則であるという認識のようです。以下のように河野は記しています。

▼日本語といえども、文は、ある主題について述べられることがふつうであり、その主題を示す必要がある。 p.106 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

河野が主題を示すハの事例としてあげた例文は「コノ本ハ、モウ読ンダ」でした。「コノ本ハ」がこの例文の主題です。「読ンダ」の主体は「私」になります。「読んだ」の主体者である「私」が記述されていないので、主語がない文となるでしょう。

河野は主題の指標として「は」の接続を主張していました。従って、例文が「コノ本ヲ、モウ読ンダ」となった場合、主語がなく、主題もない文だということになります。

主題があるのがふつうだと河野は書いていましたし、たしかに「この本」を主題にした「コノ本ハ、モウ読ンダ」の文の方が、「コノ本ヲ、モウ読ンダ」よりも、おさまりがよいように感じます。

一方、「私はこの本を、すでに読み終えました」という文があったら、「私は」が主題ということです。この場合、学校文法でもみられた「主部+述部」の構造と同様になります。【私は】+【この本を、すでに読み終えました】という構造です。

この例文の場合、【主部】+【述部】と、【主題】+【解説】が一致しています。

一方、「この本は、すでに読み終えました」という文の場合、【この本は】+【すでに読み終えました】という【主題】+【解説】の構造です。

「この本」は文末の「読み終えました」の主体ではありませんから、【主部】+【述部】の構造にはなりません。

河野たちのいう「コメント・トピック」論の場合、「は」接続の言葉を主題とみなすことによって、客観的に【主題】+【解説】の構造をつかむことができます。「主題」と「は」の関係にぶれが生じないのであれば、この構造は安定したものです。

多くの一般向け日本語文法の本で、「コメント・トピック」論を採用しています。「既知・未知」と「は・が」の関係とは違うようです。では、河野の言うように、「は」が接続する言葉が主題になると言ってよいのでしょうか。それが問題になります。

ここで一区切りつけましょう。次回、「コメント・トピック」論を適用させた事例を、もう少し見てみる必要がありそうです。

今回残念なことに、宿題に応えられませんでした。「貴方は適任」と「貴方が適任」では、ずいぶんニュアンスが違います。両者がどう違うのかまで踏み込めませんでした。

「貴方」が既知だったり、未知だったりするわけではありません。「貴方」が主題であり、あるいは主語であると言われても、それだけで納得する人は、まずいないでしょう。

単純に主題と「は」を関連づけただけでは、役に立たないのです。たとえば「貴方は適任」と「貴方が適任」の違いが説明できるようにならない限り、「は・が」の問題は解決したことになりません。