■現代の文章:日本語文法講義 第23回 「主題と主語:ハとガの関係」

(2022年6月28日)

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1 使う側の視点

前回、助詞の「は・が」と「既知・未知」の関係について記しました。既知ならば「は」が接続し、未知ならば「が」が接続するとしたら、なかなか魅力的なことのようにも思います。実際に、それが当てはまりそうな事例もありました。

しかし、当てはまらない事例がいくらでも出てきます。どうもこれは違うな、ということになりました。理論の正しさを証明しようとすると、事例の解釈が強引になりがちです。それでは理論やルールとして使えません。

簡単なことではありませんが、無理なく自然に使えるルールが欲しいものです。そのためにも、ルールはシンプルにできたら、それに越したことはありません。実際のところ、わかってみると、なんとシンプルなことかと思うこともあります。

同時にそれを安直に求めれば、無理をすることになるでしょう。切れ味のよい見解は、しばしば間違います。既知と未知が「は・が」に対応するというのも、支持されなくなりました。こうした点を十分に意識して検証していく必要があります。

主題と「は」、主語と「が」の組合せに関しても、同様でしょう。河野六郎は「日本語(特質)」(『日本列島の言語』)で、[ハとガの違いは][主題と主語の違い]であり、[助詞ガによって主語を示す](p.106 『日本列島の言語』)と記していました。

河野は続けて、[主題の提示は、主語-述語の論理的関係とは別の関係である]と記しています。この点が大切です。主語-述語の論理的関係で分析することを否定する必要はありません。これとは別に、主題-解説(説明)で分析すればよいのです。

しかし日本語が論理的でないという発想があると、これが違った方向に行きます。「主語-述語」で考えるのをやめて、「主題-解説」だけで考えるべきだという主張が出てくるのです。

庵は『新しい日本語学入門』で三上章の主張を紹介しています。[三上は「主語」や「主述関係」に代えてどのような概念を用いたのでしょうか。その概念は主題です。主題というのは、その文で述べたい内容の範囲を定めたものです](p.87)。

「主語-述語」という関係を日本語で使おうとすると、たしかに不都合が起こります。それは「主語」「述語」の概念が欧米語と大きく違っているからです。それでは「主題」の概念が明確になっているかと言えば、そうではないでしょう。

まじめな学生が、「主語-述語」というのがわからないと言ってくることがあります。文を書くときに使えないということです。このことはそのまま、「主題-解説」の場合にも当てはまります。

「主題・主語」を「は・が」と関連づけようとするなら、「主題・主語」の概念を明確にする必要があるでしょう。従来の「主語」概念に問題があるのは確かです。しかし「主題」が明確にならないのであれば、「主述関係」ばかりを否定するわけにもいきません。

河野は、主語を記さない形式で文が成立する言語を「単肢言語」と命名しました。主語の明記が必要かどうかで、言語を区分しているのです。日本語文法でも、主語の概念を使うという前提になります。日本語は主語の明記が必要でない単肢言語ということです。

日本語の特徴として河野は、[主体が了解されている場合]、主語がなくとも[これだけで立派に一文を成しうるのであって、あるべき主語を省略しているのではない]と記しました。一方、[主体が明らかでないときは][助詞ガを添えて]主語を明記するのです(p.98 『日本列島の言語』)。

河野六郎の見解は魅力的なものです。しかし「主語・述語」、あるいは「主題」の概念を確認しておかないと、その先に進むことができません。以下で、河野の見解を見ていきましょう。

     

2 主語と「が」の関係

河野は以下のように書いています。

▼述語動詞が文の要であって、文の最後に位する。日本語は、この文末という位置を述語動詞の形態のうえに明示している。すなわち、「終止形」と呼ばれる活用形がそれである。 p.98 『日本列島の言語』日本語(特質)

河野は述語動詞の特徴として、(1)「文の要」であり、(2)文の最後、文末に置かれ、(3) 終止形が使われるという3点をあげています。

文の要になるのは、キーワードが述語で束ねられるということでしょうか。述語動詞が文末に置かれる例はしばしば見られます。たとえば「放課後、私は本を図書館に返却しました」という例文は、以下のような構造になるとはずです。

・放課後  返却しました
・私は   返却しました
・本を   返却しました
・図書館に 返却しました

河野は「述語動詞」という言い方をしていますが、これは述語動詞に限らないことです。「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」という例文を見ると、以下のようになります。

・今日の演奏会で 一番好きでした
・私は      一番好きでした
・彼女の演奏が  一番好きでした

文末部分の中核になる言葉は「好き」です。この言葉の品詞は動詞ではありません。動詞なら終止形がウ段ですし、イ段の活用形に「ます」が接続するはずです。「好く」が終止形だったとしても、「好き・ます」とは言えません。

活用形がない体言なら、「だ・である」が接続可能です。活用形がある言葉なら、「の・こと」をつけて体言化することができます。「好き・だ」と言えて、「好き・の・だ」とは言えません。そうなると「好き」は体言だと考えられます。

従来、「好き」という言葉は、形容動詞という品詞に該当しました。活用形の有無の判別法が明確でない中で、無理やり作った品詞のようにも思えます。「です・ます・だ・である」の接続と、体言化するときの「の・こと」の接続で判定したほうが確実です。

いずれにしても「好き」は動詞ではありません。河野のいう「述語動詞」が文の「要」になるというのは、絞りすぎになります。文末の中心的な語句である狭義の述語の概念からすると、動詞だけでなく、形容詞も名詞も述語になります。

「要」をキーワードを束ねる機能だと考えると、その役割を果たすのは、ほとんど述語動詞になることは確かです。それ以外を例外としていたのかもしれません。しかし、それでも別の問題が出てくるのです。

河野は主題には「は」が接続し、主語には「が」が接続すると主張しました。[ハとガの違いは][主題と主語の違い]であり、[助詞ガによって主語を示す](p.106 『日本列島の言語』)ということでした。

そうなると先の例文「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」の場合、どうなるでしょう。主題は「私は」であり、主語は「彼女の演奏が」になりそうです。主語というのは主体・主格だったはずですが、どう判断すべきでしょうか。

「一番好きでした」の主体は人になるはずです。「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」の主語は「私は」でなくてはおかしいのです。しかし「が」接続は「彼女の演奏が」になっています。

主体が了解されている場合、主体を明記しなくても文が成立するのが日本語の特徴でした。「私は」と「彼女の演奏が」を省略してみるとどうなるでしょうか。

(a)「今日の演奏会で、彼女の演奏が一番好きでした」
(b)「今日の演奏会で、私は一番好きでした」

河野の言う[これだけで立派に一文を成しうる]に該当するのは、(a)のほうでしょう。文末の主体が主語だと言えるなら、そのほうが使えます。その場合、主体になる言葉は「が」接続に限りません。「は」を添えることもあります。

要の概念を最重視すると、述語の概念との違いが出てくることは、以前の連載であれこれ書きました。主語の概念も、文末の主体と簡単に言い切れないのです。河野は以下のように記しています。

▼このガは主語を意味するが、文法的には補語であって、「主格的補語」とでも呼ぶべきものである。そして、この補語は、他の補語と同様、述語動詞を限定する従属的要素で、常に述語動詞に先行する。 p.98 『日本列島の言語』

これは通説あるいは有力説というべき見解かもしれません。要になる述語動詞の前に並んだキーワードの中で、主語だけが特別な存在ではないということでしょう。しかしここで[ガは主語を意味する]と限定的に解釈すると、逆にわからなくなります。

先の例文の構造をみましょう。
・放課後  返却しました
・私は   返却しました
・本を   返却しました
・図書館に 返却しました

いつ返却したのか、誰が返却したのか、何を返却したのか、どこに返却したのか、その問題意識によって、「放課後」「私は」「本を」「図書館に」の価値評価が変わってきます。その意味で主体だけが特別ではないと言うのは、その通りです。

この例文でいうと、「は」接続の「私は」だけが「主題」であって、特別な存在だということにはならないでしょう。一般人の感覚では、文末の主体である点で特別だとは言えますが、上記のように問題意識によって、価値評価が変わるのは当然です。

河野の「日本語(特質)」から、主語の概念が明確になったとは言いかねます。これならば「文末」を、要になる機能を重視した概念として構築して、文末の「主体(=センテンスの主役)」という発想で考えたほうが、ずっと使えるものになるはずです。

しかし河野の場合、[主語-述語の論理的関係とは別の関係である][主題(thema)とその説明(rhema)による、心理的な、表現秩序]を重視して、[日本語という言語は、論理的構成よりも心理的叙述に適した言語である]と記していました(p.106 『日本列島の言語』)。

主語よりも主題のほうが使えると見ているようです。ひとまず主語については、ここまでにしておきましょう。主題のほうが問題です。

       

3 河野の主題に関する原則

河野六郎の主題についての見解を見ていきましょう(p.106 『日本列島の言語』)。

[1] 【主題(thema)】とその【説明(rhema)】による心理的な表現秩序
[2] 【主語-述語】の論理的関係とは別の関係
[3] 【主題(thema)-説明(rhema)】は言葉の自然な発露に従った文の構成
[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】
[5] 主題について論理的関係の如何を問わずに述べたものが【説明(rhema)】
[6] 助詞ハによって【主題】が提示される
[7] 助詞ガによって【主語】が提示される
[8] 日本語の場合、論理的構成よりも、心理的叙述に適した言語である

マテジウスの「コメント・トピック」論を日本語にあてはめたものになっています。ポイントは言うまでもなく、[6]と[7]です。「は・が」を【主題(thema)-説明(rhema)】と【主語-述語】に関連づけたことが、正しいのかどうかが問題になります。

先に述べた通り、使う側の視点で見ていきましょう。何が主題であるのか、きちんと判別できるかどうかということが、まず問題になります。助詞ハがつけば、主題だと認識されるでしょうか。主題の概念と共に確認が必要になります。

河野は、「コノ本ハモウ読ンダ」という例文をあげていました(p.106 『日本列島の言語』)。以下、この例文を見ていきましょう。

「この本はもう読んだ」の場合、主題は「この本は」です。
【この本は】【もう読んだ】
「この本に関して言えば」、「もう読んだ」よ…となります。

「私はこの本をもう読んだ」ならば、主題は「私は」です。
【私は】【この本をもう読んだ】
「私に関して言えば」、「この本をもう読んだ」よ…となります。

「この本ですが、私はもう読みました」の場合、主題は「私は」なのでしょう。河野の[6]を見る限り、そうなります。
(この本ですが)【私は】【もう読みました】
「(この本ですが)」「私に関して言えば」「もう読みました」よ…となります。

なんだか「この本ですが」が宙ぶらりんの感じがするでしょう。自然な発想で行くと、主題は「この本ですが」になります。河野の[4]でいう[何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]に該当すると感じるからです。

【この本ですが】【私はもう読みました】
「この本に関して言えば」、「私はもう読んだ」よ…となります。
こちらの方が自然な受け取り方でしょう。

言うまでもありませんが、ここでの「が」は主語を提示していません。「この本ですが」が主語であると感じる人はいないでしょう。「が」は主語をあらわすだけの助詞ではありません。そうなると、「は」も主題をあらわすだけの助詞とは言いにくくなります。

読み書きをする側にとって、【主題】は助詞ハによって提示されるという原則が納得できるのであれば、問題ありません。しかし、そんなに簡単ではなさそうです。

例文を変形させて「この本ですが、もう読みました」になったら、主題のない文章になるのでしょう。しかしこの例文を見て、この文の主題は何になりますかと聞いたなら、たぶん「この本」という答えが多数になるはずです。主題の概念がわからなくなります。

「この本なんですけどね、私はもう読みましたよ」と言いたい場合に、「この本」が文頭に来るのはおかしくありません。このとき、他の人はどうも読んでないようだけど、自分はすでに読んだというニュアンスがあるなら、「私」が必要になります。

この場合、「この本は…」が文頭に来て、それに続けると、「この本は、私はもう読みました」と「は」が重なります。ここで「私は」を「私が」にするのはおかしいでしょう。「この本は、私がもう読みました」ではニュアンスが違ってきます。

こういうとき、助詞の重なりを避けようとして、「この本ですが、私はもう読みました」とか、「この本ですけどね、私はもう読みました」という言い方をしても、おかしくありません。しかしこのとき、主題が「私は」になることには、違和感があります。

「まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの」という河野の主題の原則[4]に反するのではないでしょうか。「助詞ハによって【主題】が提示される」という河野の主題に関する原則[6]が、原則[4]と対立することがあるということです。

どちらが実質的であるかと言えば、主題の原則[4]の方でしょう。「は」がつけば主題であるというふうに、形式的に決めるのは無理がありそうです。「は」がついても主題にならないもの、あるいは「は」がつかなくても主題になるものがあるならば、主題の原則[6]は成り立たなくなります。

そもそもの発想が、逆転していたのかもしれません。文を書く当事者の視点に立てば、こういうことを言いたいときには「は」をつける、こういうことならば「が」をつけるといった形式によるルールが必要なのです。

「は」がついていたら、こういう概念になり、「が」がついていたら、こういう概念になるという発想は、書く側の視点ではなくて、読む側の視点でしょう。主題や主語という抽象概念をあらわす用語になると、読む場合でも使いにくいはずです。

河野の主題に関する原則のうちの2つが矛盾することがあるということになります。
[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】
[6] 助詞ハによって【主題】が提示される

ルールを使う側の視点に立つと、[4]の原則が優先されることです。[6]はルールとして成立しません。そうなると河野の言う[ハとガの違いは][主題と主語の違い](p.106 『日本列島の言語』)という見解は成立しないということになります。

すでに「が」がつく言葉が主語になるとは言えない点を見ていました。主題の場合も、同じことが言えます。「は」がつく言葉が主題になるとは言えません。

      

4 単肢言語の特徴の裏づけ

主語と述語、主題と解説というルールを使おうとしたら、それらの概念を明確にする必要があります。主語も述語も、いささか困った概念になってしまいました。再定義するしかなさそうです。主題も簡単に元年を明確にできそうにありません。

こういうときに、機械的に「は・が」で区別できたなら楽ですが、以上みてきたように、そういう対応にはなっていません。「主語-述語」の概念を再定義したほうがよさそうです。文末の概念を明確化し、その主体をセンテンスの主役と考えるほうが合理的です。

一方、[主語-述語の論理的関係とは別の関係である][主題(thema)とその説明(rhema)による、心理的な、表現秩序](p.106 『日本列島の言語』)に関して、日本語ではまだ主題の概念も安定していませんから、使い方が確立するはずもありません。

河野の主題についての原則を参考にしながらも、別の観点から見ていく必要がありそうです。「主題-解説」の使い方は、日本語ではまだ確立していないというべきでしょう。

ここで宿題をまずやらなくてはいけません。「貴方は適任」と「貴方が適任」の違いを説明せよという問題でした。両者の違いは「は」と「が」です。

「は」という助詞が、どんな機能を持っているかが問題になります。特定し、限定するのが「は」の主要な機能です。従って、特定したもの、限定したもの以外について、言及することにはなりません。あるものに対して、それだけについて語るニュアンスが出てきます。

「貴方は適任」がどういうニュアンスを持っているか、以上からわかるはずです。「他の人は知りませんけどね、貴方は適任ですよ」という評価をしていることになります。他との比較でなくて、絶対的な評価です。従って、客観的なニュアンスが出ます。

助詞「は」は、特定し限定して、それについての絶対的なニュアンスをもち、客観性も帯びます。そのため助詞「は」は対象を強調するアクセントが、助詞の中でも一番強いものになりました。

一方、助詞「が」の場合、選択肢のある中から選び出して、決定するということが主要な機能といえます。選択肢から選ぶということは、相対的な評価だということです。また選択する過程で、当事者の評価が入りますから、主観的なニュアンスをもちます。

「貴方が適任」がどういうニュアンスを持つか、もうおわかりでしょう。「いろいろな方がいらっしゃいますけどね、貴方が適任ですよ、私はそう思います」ということになります。この場合、評価というよりも推奨というニュアンスというべきかもしれません。

もし自らが自らを選択して決定する場合、意思を表すことになります。これもおわかりでしょう。「私が行きます」という文から、「私」の意思を感じるはずです。「私は行きます」ならば、他の人とは関係なく、自分のことのみ、たんたんと語っていることになります。

助詞「が」も、選択して決定するのですから、強調のニュアンスを色濃くもっていると言えるでしょう。相対的な強調ですから、助詞「は」の絶対的な強調に比べればマイルドになります。

特定し限定する助詞「は」と、選択し決定する助詞「が」には、強調する機能があるということです。主体が不明の場合に、原則として「は・が」をつけて目印にして、確認を求めるのは、自然なことでしょう。

主題がわかっているときに、あえて主体に「は・が」をつけたら、強調になるのも、こうした理由からです。わかりきったことならば、ほとんどの場合、あえて強調する必要はありません。主体がわかる場合に、原則として主体を明示しないのは自然なことです。

河野六郎が提唱した単肢言語には、3つの特徴がありました。
[1] 主体を明示しなくても分かる場合、主体を明記しないのが原則である。
[2] 主体がわかるにもかかわらず主体を明記する場合、主語は強調になる。
[3] 主体がわからない場合、主体を明記することが文の成立に必要である。

なぜ単肢言語には、こうした特徴があるのか。助詞「は」と「が」の機能を見れば、おわかりだろうと思います。もはや上記の「主体」を「主語」と記述する必要はないでしょう。「主語」よりも、要である文末の「主体」の方が、上記を明確に表します。

主体という言葉がわかりにくいと言われて、多くの方に聞いてみたところ、いちばんわかりやすいと言われたのが、「主役」という言葉でした。文末の主体がセンテンスの主役です。主体でも主役でもどちらでもよいでしょう。

以前の連載でも述べましたが、問題は、述語の概念の方にあります。述語の概念がずれている場合、その主体にもずれが生じます。これについては、また戻ってくることがあるでしょう。

その前に「主題-解説」をどう使うのかについて、次回、見ていきたいと思います。文法的な分析とは別の、情報の流れを分析するものです。中心となる概念は、既知と未知ということになります。