1 振り返るべき大切な本

岩淵悦太郎の『日本語を考える』は、はじめ『現代の言葉』という題で1965年に出版されたとのこと。初版のみで絶版になったものが、改訂されて1977年に講談社学術文庫に入りました。しかしこの文庫本も広く読まれたとはいえません。残念なことです。

たしかに一般受けする本ではありません。数十年前の日本語の本ですから、仕方ないのでしょうか。しかし最近の日本語についての本よりも、数段、良質なものだと思います。日本語の文法を考える際に、振り返るべき大切な本です。お勧めできる本といえます。

[多くの人は、それぞれ、言語に対してある種の規範意識を持つ]、それは[それぞれの生活経験や、読書や、学習などから]生まれるのでしょう(p.38)。時代とともに規範意識は変わります。そして言語を使う共通の基盤が出来た場合、収斂していくはずです。

      

2 品詞論の問題点

文法は[言語に内在するきまりであるから、言語である以上、どんな言語にも文法はある]のです。しかし[日本語には文法がないとか、文法を知らなくても文章が書けるとかいう考え]があります。ここでの文法とは「文法書」だと岩淵は指摘します(p.116)。

大正時代の日本語文法は[品詞論が主であり、ことに活用の暗記が中心であった](p.116)。[品詞に関する知識が不必要]ではないにしろ、[英語などと違って、日本語の場合、品詞論がすぐさま文の構成の説明に役立つとは限らない](p.117)でしょう。

品詞分類の基準が明確ならば、それは良いのですが、しかし例えば副詞の場合でも、[副詞というものをはっきりと規定していない](p.118)のです。品詞を基準にして考えることは難しいと言うことになります。それでは何を基準にしていけばよいのでしょうか。

     

3 基盤となるのは助詞・助動詞

岩淵は基本になる基準を明示していません。品詞ではないと記しています。そして[「に」と「へ」の混同][助動詞「う」の用法][「が」と「を」の問題]という見出しが見えます。助詞、助動詞が問題になると示唆しているようでもあります。

「明日は雨が降るでしょう」と「これから努力しましょう」の「しょう」には、ニュアンスの違いがあることを感じるはずです。前者は推量と言われますし、それが妥当だと思います。しかし後者の場合、どうも推量とは違う感じがするのです。

▼自分にだけ関することなら、それは、自分の決意を表すのにとどまるが、相手にも関係があることを言う場合には、自分の意思を相手に強制することになる。
さあ、一緒に出掛けましょう。
の場合は、相手を勧誘することであろう。 pp..125-126

パソコンやスマートフォンの普及によって、日本語の書き言葉にも大きな共通基盤が出来てきました。日本語のルール化も可能になってくるはずです。岩淵悦太郎の『日本語を考える』は、数十年前に出た本の中でも、いまだに読む価値のある本と言えるでしょう。

      

日本語を考える (講談社学術文庫 159)

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岩淵 悦太郎
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1 AIによる文書作成

先日、IT企業の若手のリーダーからAIが進んできて、今後どうなるかという話がありました。いまよりも、もっと要約から文書作成から、どんどんやってくれるようになる時代が来るはずだというのです。いまでも、相当なレベルだとの話でした。

これからAIはもっと賢くなってくるはずです。AIを上手に利用したら、便利になることは間違いないでしょう。今後、AIがなくなる世界を考えるのは困難です。だからと言って、リーダーたちが文章の訓練をしなくていい時代が来ることもないでしょう。

逆に、文章についての関心が高まっています。すでに一部の人達から、日本語能力の差が拡大してことを指摘する声が上がっていました。能力差が大きくなってきていて、その能力がないと、リーダーになりにくいということは特別な話ではないでしょう。

     

2 機械化によって起こったこと

若いリーダーは、なぜ今後本気で読み書きをやらなくてはならないのか、その辺がもやもやしていたのだろうと思います。AIに任せればいいということだったのでしょうか。機械化が進んで、たしかに機械に任せるようになりました。その結果が問題です。

ドラッカーが『産業人の未来』で、[大量生産工場における機械化や自動化]によって起こったことは、[かつての肉体労働者がいなくなり、職長が残った]と指摘していました(p.89)。職長がなすべき仕事は、以前とは違います。機械の制御・管理が仕事です。

AIが機会と同じ機能を果たすようになるかもしれません。機械化できることは、機械がうまくやります。いかに素晴らしい機械を作るかが問題です。その機械を、いかにうまく運用し、メンテナンスしていくかということがポイントになります。

      

3 リーダーの文書作成能力が問われる時代

AIが作る文書が完璧なものになるはずはありません。作られたものをどう評価し、どう利用するかを考えるのは人間です。AIへの指示の出し方も問われるかもしれません。機械化によって仕事の仕方が変わったように、AIによって仕事は変わるでしょう。

機械化によって、機械を扱う人への要求が高くなり、どう機械化するかが成果に直結するようになりました。機械を作る人と機械を利用する人が、ともにレベルアップをしてきた結果、成果が上がるようになったということです。AIも同じ機能を果たすでしょう。

ビジネスに文書は不可欠なものです。それらの一部をAIが担うようになるかもしれません。それを効率的に的確に利用するためには、文書作成能力の高い人たちが必要になります。評価の仕方も、もっと客観性・合理性が問われるようになってくるでしょう。

全員の人達に、いままで以上の文書作成能力が必要になるわけではありません。リーダーに必要になるということです。訓練するには、ある程度年齢がものをいうかもしれませんねと、若いリーダーに言いました。まずいですと言ってましたので、伝わったようです。

       

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1 英語は並べる言葉

先日、松井力也の『日本人のための英語学習法』で説明されていた、英語の文における「同格的な並置」についてご紹介しました。私にはよくわからない点があったので、保留にしてあります。そう書いた後で、やや違った解説があったのを思い出しました。

大西泰斗とポール・マクベイの共著『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』の解説です。英語を受け入れる態勢をとるためには、[たった1つの事実を受け入れるだけで事足ります。それは、 英語は並べる言葉 だということ](p.3)ということになります。

[要素を上手に並べながら文を形作る]のが英語だということです(p.3)。[英語は、配置の言葉]ということになります(p.4)。そのため[適切な位置に表現のかたまりを配置する、そのコツを身につければいい](p.6)ということになるのです。

      

2 ネイティブは述語のはじまりを「探す」

英語の[文の中心は何といっても主語]、[文は主語とその説明(述語)から成り立っている](p.7)。このとき[英語では、主語は述語が横に並んでみてはじめて主語であることが了解されます。つまりネイティブは述語がはじまるところを「探す」のです](p.8)。

以上のように「主語+述語(述部)」の並びの構造で考える方が標準的でしょう。ここでいう述語はS以外のものを示すようです。5文型で言えば、「S│V」「S│V C」「S│V O」「S│V O O」「S│V O C」となります。

さらに[be動詞が「=」に見えるのは、「=」という積極的な意味があるからではありません。「=」の意味は、文の形それ自体から出てくるのです](p.12)と説明し、第2文型になる動詞を[「=」に多少のフレーバーが加味されている](p.15)と解説しています。

     

3 表現の一粒一粒に役割がまとわりついている日本語

「主語+述語(述部)」の構造で考えるとき、述語のなかみが問題です。大西・マクベイは、ここでも配置の仕方という観点で説明していきます。[動詞の後ろに必要な要素が入るスロットが空いていて、そこに要素を「置きにいく」という感覚](p.17)です。

つまり[あらかじめ意味の決まったスロットに要素を配置していく、それが英語の感覚です](p.17)となります。英語の骨組みは要素の配置によって成立するという説明です。具体的に[ネイティブの英語力を支える、感覚原則]5原則をあげています(p.ix)。

では著者たちは日本語について、どう説明しているでしょうか。日本語の場合、[て・に・を・は]や「赤・赤く・赤い」などの変化形](p.4)によって、[表現の一粒一粒に役割がまとわりついています](p.3)ということになります。わかりやすいでしょう。

日本語について考えるとき、個々の英文法についての説明よりも、こうした言語の原則についての解説のほうが役立ちます。松井力也『日本人のための英語学習法』と『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』を、もう一度合わせ読んでみたいと思いました。

      

     

1 動詞と動作主

日本語について、松井力也は『日本人のための英語学習法』で、日本語は[「は」「を」などの助詞を用いることによって結びつけられ、同時にそれらがそれぞれの語の関係を説明してい]て、[重要な部分を助詞に依存しています](p.43)と書いています。

さらに[日本語の動詞は、常に動作主と関係づけられたうえでしか成立しない概念なので、たとえ主語が省略されていても、常に動作主が意識されています]。ということは[動作主もいないのに動作だけが存在するわけがないと考え]ることになるでしょう。

「存在するに決まっている主語」ならば省略可能です。英語の場合なら[動詞は、動作主という前提を持たないまま認識されることの可能な、行為そのものを指示する概念]なので、[逐一、動作主が明示されなければ文を成さない]ことになります(p.48)。

     

2 並置とイコール

さらに松井によれば、「I teach.」の場合、「I」と「teach」とが[並置し][I(私)がteach(教えるという行為)とイコールであるということを指示する]とのこと。[自分が人にものを教える立場にある存在だということを表している](p.47)というのです。

どうも、このあたりがよくわかりません。英語では[同格的な並置が、その基本的な骨格を成しています]とのこと。「同格的な並置」になると「teach」が「教える立場にある存在」になって、「自分(私)」=「教える立場にある存在」になるのでしょうか。

「This is a pen.」ならば、「This」=「a pen」と言えなくもありませんが、「is」はどうなるのでしょうか。さらに第2文型の場合、「S=C」になるとは言いにくい例文もあります。「同格的な並置」という概念でどこまで説明できるのか微妙なところです。

    

3 英文法の解説本として出色

この本を読み始めて、ここにあったかと思い出しました。初めに記した[動詞は、常に動作主と関係づけられた]概念になる日本語と、[動作主という前提を持たないまま認識されることの可能な、行為そのものを指示する概念]になる英語との対比についてです。

日本語の場合、動作だけでなくて現象も存在も状態も評価も、すべてその主体が意識されていると言えるかもしれません。しかしここでの説明にまだ確信が持てなくて、そのままになっていました。イコールの話など、注目すべき点については、まだ保留しています。

いくつかの説明に、これは違うなあと思って、しばらく放置していましたが、もう一度きちんと読むべき本だと、改めて思いました。この本にはわれわれを刺激する解説があります。そのまま使えるかどうかは別のことですが、ヒントにはなるはずです。

日本語の文法について考えるとき、日本語の文法書を読むのは当然でしょう。しかし基本のところで考えが違うので、たいていお手上げになっていました。かえって英文法について書かれた本に魅力があります。その中でも出色の本だと思ってご紹介しました。

     

     

1 形容動詞という品詞(?)

日本語にはまだ明確な品詞概念が確立していないようです。形容動詞を認める人たちは、活用語という前提で考えています。しかし、どう考えても活用形などありません。「幸福な」とは言いますが、終止形は「幸福」でしょう。「キュート」と同じはずです。

「キュート」という言葉に「な」とか「に」がついたものを形容動詞と呼ぶのは妙なことでしょう。品詞分類と機能とを混在させて考えると、混乱します。漢文の場合、使われる漢字に活用がありませんから、機能をもとに動詞だ、形容詞だ、名詞だ…と言えます。

英語の場合でも、形容詞が活用することはありません。「cute」は活用しませんが、名詞を修飾するので形容詞です。しかし日本語の自立語の場合、活用を無視するわけにはいきません。活用の有無によって用言と体言に区分され、品詞分類の前提になっています。

      

2 形容動詞の「活用形」(?)

日本語では、動詞も形容詞も活用しますので、当然ながら用言です。「キュート」は活用しませんが、「キュート+な」ならば名詞を修飾します。一方、「キュート+に」ならば「なる」が続いて、「医者になる」「水になる」と同じなので名詞でしょう。

「幸福になる」「幸せになる」も同様です。「幸福な」ならば、名詞を修飾します。「幸福になる」の場合、「幸福」は名詞でしょう。無理やり形容動詞だと認定して、そのために「―だろ/だっ・で・に/だ/な/なら」などという活用形を作る必要はないのです。

「きれいだろウ・きれいだっタ・きれいでナイ・きれいにナル・きれいだ・きれいなトキ・きれいならバ」とは言えます。ならば「医者」も「医者だろうウ・医者だっタ・医者でナイ・医者にナル・医者だ・医者のトキ・医者ならバ」と活用するのでしょうか。

     

3 品詞と活用の有無

日本語の場合、用言・体言の区分が品詞分類に優先して扱われますし、それ自体は妥当なことです。そして重要なのは、活用の有無は形式的に客観的に判別できる点でしょう。「である/だ」がつくかどうかで判別できます。つくなら体言、つかないなら用言です。

「医者である/医者だ」「幸福である/幸福だ」「キュートである/キュートだ」なので「医者」も「幸福」も「キュート」も体言になります。一方、「美しい」や「白い」などの形容詞の場合、「美しいだ」「白いだ」と言えません。形式的に決まるのです。

日本語で読む場合に、まず意味が認識され、活用の有無が意識されます。たとえば「ある/ない」は存在に関わる言葉であると認識され、ともに活用形があると意識されるはずです。こうした共通性から、両者がペアになる言葉と扱われるのは自然なことでしょう。

存在の肯定と否定をするペアの言葉でも、「ある」は動詞、「ない」は形容詞です。「きれい」と「きたない」も、ある状態・評価を肯定・否定するペアの言葉ですが、動詞と形容詞になります。日本語では品詞よりも活用の有無が意識されるということです。

      

      

1 ベンチの指示を仰がなかったイタリアチーム

田嶋幸三の『「言語技術」が日本のサッカーを変える』という本を大切にしています。「はじめに」に紹介されている話に驚かされました。2006年のワールドカップの準決勝のイタリア対ドイツ戦でアシスタントレフェリーを務めた廣嶋禎数の話です。

▼「イタリアの選手が退場させられて選手が1人減ってしまったその時、イタリアの選手たちは、誰1人として、ベンチを見なかった」
イタリア・チームは、状況からして非常に不利な局面を迎えていた。にもかかわらず、選手たちはベンチに指示を仰がなかった。その場で話し合いを始め、10人でどのように試合を進めていくのかを即座に決め、お互いに指示を出し合い、発生した問題を解決していった――というのです。 p.8

もうこれだけで十分なくらいのインパクトがありました。サッカーに限らない大切な話です。サッカーについてほとんど知らないため、ちょっと待てよと、この人のことを調べてみたら、現在、日本サッカー協会の会長とのこと。有名な方でした。

     

2 日本チームの自己決定力

田嶋は言います。[究極の状況下で、自らが考えて判断を下す「自己決定力」。その力を備えていない限り、世界で通用するサッカー選手になることはできない、という事実を明確に示している――そうした出来事だと、私には思えたのでした](p.9)。

当然ながら、[日本人選手はどうでしょう?]と問うことになります(p.9)。U-17で監督を務めた経験から、何かあると[自分自身で答えを探すことよりも、私の解答を求める様子がありありと見える]という状況です(p.11)。若者ばかりではありません。

こういうとき、田嶋はどうすべきだと考えるのでしょうか。[世界に通用するサッカー選手をたくさん育てていくためには、自分の考えや意思を、自分の言葉できちんと表現する力をつけることがどうしても必要になる](p.18)と言うのです。

    

3 組織の人材育成の総論

以上はすべて「はじめに」に記述されています。この部分が総論の中でも核になるところです。ここだけで、何かを感じる人ならば、ここからは自分で考えることが出来るでしょう。すでにヒントは与えられていますし、一番の問題も提示されています。

この後に記されているサッカーのことは、よくわかりません。少なくともビジネスの世界とは違うなあと思うところもありました。ビジネスリーダーならば、この十数ページの「はじがき」を読んで、組織での人材育成について考えてみるのがよいと思います。

組織での人材育成において、「言語技術」を重視することは、日本ではまだ例外的なことです。しかしキーポイントというべきでしょう。自分で考えて、それを明確にする必要があります。他人に分かるように表現できることが必要です。

自説を明確に表現することは、基礎的な能力といえます。それがあれば、田嶋の言う「自己決定力」が身についてくるはずです。では、どうやってそれを習得していったらよいのでしょうか。これを考えることが、各人、リーダーの課題だということになります。

       

      

1 想像力で補わなくてはならない情報量

活字と音声と映像の情報量を見ると、活字が一番情報量が少なくて、映像が一番情報量が多いということになります。ファイルのサイズを見れば、明らかでしょう。こんなことは常識ですが、しかし別の側面からこれを見ると新鮮な感じがするかもしれません。

酒井邦嘉は『脳を創る読書』で、[想像力で補わなくてはならない情報量]に言及しています。この情報量は反対の順番です。活字を読むためには、想像力を働かせることが不可欠になります。これがうまく働かないと、読めない状況になるということでしょう。

そこから「読む」という行為を定義することができます。[単に視覚的にそれを脳に入力するというのではなく、足りない情報を想像力で補い、あいまいなところを解決しながら「自分の言葉」に置き換えていくプロセス](p.27)というのが酒井の定義です。

         

2 「みにくいあひるの子」の事例

酒井は「文の構造を見抜く脳のすごい能力」という見出しを立てて、「みにくいあひるの子」を例に挙げています。(A)≪みにくい「あひるの子」≫なのか、(B)≪「みにくいあひる」の子≫なのかというのです。私たちは(A)のように受け取ることでしょう。

酒井は、Bの場合、親はみにくくても、子供は[実はとてもかわいい子なのかもしれない]と言い、[こうした構造に基づく曖昧性は、日本語に限らずどの言語にも等しくある]としています(p.28)。ここまでは良いでしょう。しかし以下は妙なはなしです。

▼(B)のように、「みにくい」という形容詞が直後にある言葉「あひる」を修飾するほうが自然なはずだが、実際はそうではないのである。これは、「みにくいあひるの子」が本当は白鳥の子であるという知識が原因かもしれないし、文脈(コンテクスト)から意味を判断したためかもしれない。 pp..28-30

         

3 的確な読み取りと日本語文法

日本語では後ろの言葉に重心が置かれます。核になる言葉が後ろに置かれるのがルールですから、「みにくい」子であり、かつ「あひるの」子だということになるのです。後ろに置かれた「子」が要になります。予備知識があるとか、文脈の問題ではありません。

「眠れる森の美女」がどう受け取られるのか考えてみればわかるでしょう。最後の「美女」が要になっていますから、「眠れる美女」であり、かつ「森の美女」だということになります。これが日本語のルールです。「眠れる森」と受け取るのは間違っています。

塚原仲晃記念賞を受賞した東京大学の教授が、[予備知識がほとんど使えない「みにくいがちょうの子」のような例で考えてみるとよい](p.30)と書いているのは驚きです。「みにくい子」であり、かつ「がちょうの子」と読む以外、不自然な読み方と言えます。

日本語の文法が確立していないことの影響が、こんなところにも出ているようです。構造を読み取る場合、その言語におけるルールが適応されるのは当然のことでしょう。そのルールを知らないと、読解が適切にできませんし、おかしな解説をすることになります。

     

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1 計算問題の文章が読めるか

留学生が計算問題を解こうとして困難に直面することがあります。長めの文章のある問題になると、日本語の読み取りがうまくいかなくて、何を求められているのかわからないことがあるのです。この場合、典型的な問題を繰りかえすことで、かなり改善できます。

しかし留学生だけの問題ではありません。日本人も同じように、問題文の読み取りがうまくいかない人がかなりいます。日本語の読解力が計算問題に直結することがあるということです。これは日本語に関することなので、思ったよりも深刻な問題になっています。

日本語の習得はそう簡単に進みませんから、慣れればうまくいく留学生ばかりではありません。短期間での挽回が難しいですし、ある程度、日本に来て日がたつと、日本語なしの世界を見つけ出して、進歩が鈍ります。では日本人の場合、どうでしょうか。

    

2 練習で能力が伸びる場合

日常の会話が出来るということと、計算問題の問題文を正確に迅速に理解するということは、大きく違っています。母語の日本語に問題があるのですから、本来深刻なことです。しかしそうした危機意識は持ちにくいのは自然なことかもしれません。

友人との会話もできますし、お店に行って話が通じないということもあり得ないでしょう。日常生活に困っているわけではありませんから、あえて日本語の読み書きをやろうという気にはならないでしょう。計算は無理だと、放り投げることになりがちです。

小学1年生に作文を教えていると、その段階ですでにかなりの能力差があるのに気がつきます。同時に、わずかな期間の練習でも、能力が伸びうることも間違いありません。その意味からも、かなり早い時期からのトレーニングが必要だろうと思います。

      

3 国語の授業中に算数の文章問題

芳沢光雄は『ぼくも算数が苦手だった』で、[現在、世界の趨勢は「考えて記述する」教育を重視する方向にあるにもかかわらず]、日本では[小学生から大学生に至るまで、考えて記述する力、特に推論力が弱くなっています](p.144)と指摘しています。

ではどうすればよいでしょうか。芳沢は、[国語の学習でも、情緒的な小説や詩などで作者の意図や気持ちを読み取るばかりではなく、論理的な文章を読み、書く学習が必要なのではないでしょうか](p.146)とポイントを上げて、以下のように書いています。

▼フィンランドでは、国語の授業中に算数の文章問題もおこなうそうです。また、When(いつ)、Where(どこで)、Who(誰が)、What(何を)、Why(なぜ)、How(どのように)の「5W1H」を大切にした教育を徹底して行っています。 p.146

ビジネス人でも、ふと日本語の能力に不安を感じることがあるようです。たいてい心配するくらいの人なら、訓練をすれば何とかなります。ずいぶん前に【文章読解がまったくダメ、苦手だと言う人に:基礎力のつけ方】を書きました。いまはもう少し深刻です。

       

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1 解釈が品詞分類に先立つ

日本語の場合、英語ほど品詞という概念がぴたっと来ません。漢文の場合、もっと微妙な感じがします。漢文では、同じ漢字の形のままに、言葉の働きが違うのですから、あえて品詞を言えば何である、といった感じでしょう。文の解釈が先に来ています。

さらに漢文の解釈が必ずしも明確にいかなくて、多数の解釈が提示されるケースがめずらしくありません。古い時代の漢文になると、解釈に困ることがしばしば出てくるようです。『論語』の注釈書がたくさんあるのも、こうしたことの反映でしょう。

杜甫の詩に「國破山河在 城春草木深(国破れて山河在り 城春にして草木深し)」という対があります。「破れて」は動詞で間違いないでしょう。そうなると対句ですから、「春にして」の「春」は名詞ではなくて、「春になる」という動詞と考えるしかありません。

     

2 漢文の品詞概念

一海知義『漢詩入門』に、この対句の説明があります。「山河在」「草木深」の「在」と「深」の場合、[日本語文法で言えば、たしかに動詞と形容詞です]が、[ともに物の状態、状況を表す言葉として、共通性を持]つので対にできると説明しています(p.182)。

あるいは「春風」ならば、「春」が「風」という体言を修飾しているので、[広い意味で形容詞]だというのです。日本語に比べても、漢文の場合、かなり品詞の概念がぼんやりしています。漢文では、品詞よりも解釈による文意の把握が優先されると言えそうです。

岡田英弘は『歴史とは何か』で漢文には品詞がないという言い方をしていました。この点、日本語のほうが品詞概念が明確です。しかし、英語と同じように品詞分解が出来るようにはなっていません。漢文と英語の中間的な役割を持つといったところでしょう。

     

3 品詞の理解こそ印欧語の真髄

英語における品詞の重要性について、『アングロ・サクソン文明落穂集12:伝統文法の「伝統」とは何か』で、渡部昇一が記しています。英語をはじめとする印欧語における品詞の重要性を知ると、日本語とずいぶん違っていると感じざるを得ません。

渡部は[品詞分類に基づいて正確に理解できることこそが、印欧系諸語の本当の特質なのである]と言い、[8品詞(その相当語)の理解こそ、印欧語の真髄を理解することに通ずるのだ](p.111)とコラム(伝統文法の「伝統」とは何か)を締めくくっています。

印欧系諸語においては、正確な理解のために品詞分類が不可欠だということです。この点、日本語の正確な理解のために不可欠なのは、品詞分類ではありません。接続する助詞や助動詞などの検証のほうが、品詞分類よりも正確な理解のためには必要です。

日本語文法において、品詞を前面に出すのは実際的ではありません。しかし印欧系諸語における品詞に該当するものがあるかどうか、確認すべきでしょう。助詞や「です・ます・である」などの語句が、品詞とどう関連づけられるのか、検証が必要となります。

     

     

1 助詞の使い方がわからない学生

日本語教育という用語は、外国人向けの本に使われることがよくあるようです。日本人向けの日本語教育の本があるかと、少し探してみましたが、ぴたっと来るものが見つかっていません。自分の経験から考えていくほうがよいかなという気がしています。

日本人と留学生に向けて後期の講義が始まりました。試しに、「鳥が空【 】飛んでいる」「夏休みに海【 】泳いだ」という例文の【 】に助詞を入れる問題を出してみました。いつものことながら、日本人だからといって安心してはいられません。

日本人のクラスで、たまたま指された学生が【中】を入れたので、爆笑になりました。助詞という言葉も知らなかったようです。なぜか、こういうことが起こるようになってきています。「空に飛んで」「海に泳いだ」という答えも出てきました。いやはやです。

      

2 正解の正しさは認識可能

日本人の中にも、助詞の使い方がおかしい学生がめずらしくなくなりました。一方、間違いようのないことです…という学生もいて、差が大きくなってきています。このあたりは、留学生のクラスでも似た感じです。個人差が大きい点で共通しています。

「空を飛んでいる」「海で泳いだ」が正解だと言われれば、ほぼ全員が、その正しさを理解しました。こういう練習をしていくうちに、多くの場合、正解率が高くなってくるのです。感覚だけで答えていた学生も、不安なときには、理屈で確認してから答えます。

日本人の若者や留学生の様子を見ると、意識して理解する過程が必要だと感じないわけにはいきません。教育が必要だということです。正解が示された後、なぜ空のときには「を」がつき、海のときには「で」がつくのでしょうか…という問題になります。

     

3 全体概念と区切られた領域

助詞「を」は行動の対象となるものに接続します。このとき対象となるものの全体像を指している点がポイントです。「空」というものを、全体としてとらえています。縦横にという感じです。一部でなくて全体を行動の対象としているので、「空を」になります。

助詞「で」のほうは、全体を対象とするものではありません。区切られた領域を表しています。海を縦横に泳ぐわけではなく、自分の泳ぐ範囲、つまり海の一部の領域を指すものです。「海で」という場合、「海の中のある区切られた領域」を表しています。

「公園を散歩した」と「公園で散歩した」の違いも、上記のことを反映していることがわかるでしょう。公園を全体的に歩いたニュアンスがあるのは「公園を」の方です。「公園で」ならば、公園の中でも散歩した領域を表すニュアンスでしょう。

留学生は日常会話に不自由しません。簡単な作文ならば書けます。日本語のテキストをかなり見てきた人たちですが、しかし、こうした説明を聞いたことがないと言います。一方、日本人学生は、全く文法書と縁がありません。教育が必要だと言いえるでしょう。