■読むという行為:例文で失敗した『脳を創る読書』

      

1 想像力で補わなくてはならない情報量

活字と音声と映像の情報量を見ると、活字が一番情報量が少なくて、映像が一番情報量が多いということになります。ファイルのサイズを見れば、明らかでしょう。こんなことは常識ですが、しかし別の側面からこれを見ると新鮮な感じがするかもしれません。

酒井邦嘉は『脳を創る読書』で、[想像力で補わなくてはならない情報量]に言及しています。この情報量は反対の順番です。活字を読むためには、想像力を働かせることが不可欠になります。これがうまく働かないと、読めない状況になるということでしょう。

そこから「読む」という行為を定義することができます。[単に視覚的にそれを脳に入力するというのではなく、足りない情報を想像力で補い、あいまいなところを解決しながら「自分の言葉」に置き換えていくプロセス](p.27)というのが酒井の定義です。

         

2 「みにくいあひるの子」の事例

酒井は「文の構造を見抜く脳のすごい能力」という見出しを立てて、「みにくいあひるの子」を例に挙げています。(A)≪みにくい「あひるの子」≫なのか、(B)≪「みにくいあひる」の子≫なのかというのです。私たちは(A)のように受け取ることでしょう。

酒井は、Bの場合、親はみにくくても、子供は[実はとてもかわいい子なのかもしれない]と言い、[こうした構造に基づく曖昧性は、日本語に限らずどの言語にも等しくある]としています(p.28)。ここまでは良いでしょう。しかし以下は妙なはなしです。

▼(B)のように、「みにくい」という形容詞が直後にある言葉「あひる」を修飾するほうが自然なはずだが、実際はそうではないのである。これは、「みにくいあひるの子」が本当は白鳥の子であるという知識が原因かもしれないし、文脈(コンテクスト)から意味を判断したためかもしれない。 pp..28-30

         

3 的確な読み取りと日本語文法

日本語では後ろの言葉に重心が置かれます。核になる言葉が後ろに置かれるのがルールですから、「みにくい」子であり、かつ「あひるの」子だということになるのです。後ろに置かれた「子」が要になります。予備知識があるとか、文脈の問題ではありません。

「眠れる森の美女」がどう受け取られるのか考えてみればわかるでしょう。最後の「美女」が要になっていますから、「眠れる美女」であり、かつ「森の美女」だということになります。これが日本語のルールです。「眠れる森」と受け取るのは間違っています。

塚原仲晃記念賞を受賞した東京大学の教授が、[予備知識がほとんど使えない「みにくいがちょうの子」のような例で考えてみるとよい](p.30)と書いているのは驚きです。「みにくい子」であり、かつ「がちょうの子」と読む以外、不自然な読み方と言えます。

日本語の文法が確立していないことの影響が、こんなところにも出ているようです。構造を読み取る場合、その言語におけるルールが適応されるのは当然のことでしょう。そのルールを知らないと、読解が適切にできませんし、おかしな解説をすることになります。

     

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