■日本語文法における「主語」と「主題」:河野六郎「日本語(特質)」

1 単肢言語と両肢言語

日本語のルールについて書かれたものの中で、一番すぐれた一筆書きは河野六郎の「日本語(特質)」かもしれません。『言語学大辞典』の中の一項目ですから、簡潔でやや専門的な内容です。完全に理解できていないと思いますが、とても勉強になりました。

ここで述べられたことは、河野の独自の考えとともに通説や有力説の説明にもなっているはずです。ただ、どこまでが通説なのか微妙なところです。用語の概念がどこまで統一されているのか不安になることがあります。以下、河野の用語にそったものです。

河野は日本語の特質として「単肢言語」であると記しています。単肢言語という用語は河野が仮に名づけた用語です。英語の場合、主語と述語が対等に並列されるのに対して、日本語は述語に重心が置かれているので、文の中核が一つであるということです。

単肢に対して「両肢言語」というべき用語があります。印欧語の場合、[主語と述語を常に明示しなければならない言語]ですが、日本語の場合、[主語は必要に応じてしか表さない、述語中心の単肢言語]です。日本語で主語を記述しない文はいくらでもあります。

 

2 主語のガ・主題のハ

主語を記述しなくてもすむ言語だからといって、その文が何についてのことであるのかがわからない文は的確ではありません。そのため日本語であっても[主体が明らかでないときは、私ガ行クとか、彼ガ行クとか、助詞ガを添えて言う]ことになります。

その一方で、[文脈の中で行ク主体が了解されている場合]には、主語が記述されなくても問題ありません。[行クという表現は、日本語としては、これだけで立派に一文をなしうる]のです。主語の記述の有無は、主体がわかるかどうかという点にあります。

ここでいう主語とは、「主体を明示する語句のこと」になるのでしょう。しかし困るのは、「助詞ガ」のみが主語を表すと説明されていることです。「ガ」と「ハ」を別の概念で説明しています。通説なのか有力説なのかわかりませんが、よく見られることです。

▼日本語は上述のように単肢言語であるから、主語は不可欠の要素ではない。そして、必要があれば、補語として助詞ガによって主語を示すことができる。しかし、日本語といえども、文は、ある主題について述べられることがふつうであり、その主題を示す必要がある。その主題を示すのが助詞ハであるが、ハは、主語を示すのではない。 p.106:『日本列島の言語』

「この本は、もう読んだ」という文の「この本」は主語ではなく主題だというのです。主体を示す主語には「ガ」が接続し、主題には「ハ」が接続する。[日本語の特徴の一つとされるハとガの違いは、このように、主題と主語の違い]ということになるようです。

 

3 簡潔で明確な河野の論考

河野の論考で示された考えは、「ハ」と「ガ」の違いを意識しすぎているように思います。主題と主語を対比させる場合、当然のことですが、主語・述語の体系と別の体系が必要になります。それが[主題(thema)とその説明(rhema)]というものです。

▼何かを言おうとするとき、まず念頭に浮かぶ観念を主題として、これを言葉にしたものがthemaであり、それについて論理的関係の如何を問わず述べたものがrhemaであって、言ってみれば、言葉の自然の発露に従った文の構成である。その点、日本語という言語は、論理的構成よりも心理的叙述に適した言語であると言える。 p.106:『日本列島の言語』

「象は鼻が長い」という文の「象は」が主題であり、象に関わることならば、論理的なつながりでなくても接続されるということです。象はどんな動物なのかと言ったら、「鼻が長い」という特徴が示されるだけであっても、これで問題ないということになります。

日本語の文法を構築するには、文の重要な要素となる主語や主題に該当する概念を明確にすることが基礎になるはずです。私の知る限り、河野の論考が一番簡潔で明確でした。内容を批判するにしても、その基礎がすでに提示されているということです。

 

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