■『日本語の世界 第6巻 日本語の文法』を読む 第9回
1 「うなぎ文」
北原保雄『日本語の文法』第八章は「うなぎ文の構造」です。[「ぼくはうなぎだ。」という文に代表させて、こういう表現になる文を、「うなぎ文」と呼ぶ]、「うなぎ文」は、日本語の構造の基本にかかわるような重要な構文である](p.284)と記しています。
北原はまず、奥津敬一郎『「ボクハ ウナギダ」の文法』と奥津の論文「ウナギ文はどこから来たか」を取り上げました。奥津の見解は「述語代用説」であり、北原は「分裂文説」です。奥津は分裂文説に対して複数項目の批判をしていました。
第八章で、北原は「分裂文説」に立って奥津の批判に対して反論をしています。北原の分裂文説によると、「僕(が食べるの)は・ウナギだ」のカッコに入っている「が食べるの」部分が消去されて「僕はウナギだ」になったというものでした。
2 不自然な説明
奥津から、北原の見解に基づく[変形は不自然である]、「が食べるの」という[消去される部分がまとまりの悪い成分である]との批判がなされています。対する北原は、奥津の[述語代用説の変形の方にこそ、むしろ無理がある](p.295)と反論しました。
たしかに北原の変形のさせ方は不自然です。分裂文説は、「僕はウナギだ」⇒「僕がウナギが食べたい」⇒「僕が食べたいのはウナギだ」⇒「僕ののはウナギだ」⇒「僕のはウナギだ」⇒「僕はウナギだ」…「のようにして成立する」(p.292)とのことでした。
自然か不自然かで評価するなら、「僕はウナギだ」という言い方自体が自然とは思えません。「僕が食べるのはウナギだ」も不自然な言い方です。「ウナギが食べたい」なら自然です。奥津の「述語代用説」は論外ですが、北原の説明も不自然なものです。
3 「僕」を強調した強調文
北原は第七章で「主題をめぐる問題」を論じました。北原の採用した「主題-説明(topic-comment)」で言えば、「僕は-ウナギだ」です。両者に論理的対応関係は必要なく、関連性があれば足ります。よって両者に関連性があるから問題なしで十分なはずでした。
しかし部分消去を考えないと、北原は不自然だと考えたようです。そもそも北原は述語概念に疑問を表明していました(p.103)。これこそまさに自然な感覚でしょう。そこを詰めなかったために、説明(comment)と述語との関係が明確になっていません。
文末とその主体を考えれば、このあたりは自然な解決ができたでしょう。文末はカテゴリーを消去する以外、原則として部分消去はありません。したがって「ウナギだ」はこのままです。「ウナギだ」の主体は「僕は」ではありません。では何になるのでしょうか。
自分に向けて「どれを選ぶのか/何が良いのか」との質問に対して、「僕が欲しいのは・ウナギだ」という趣旨です。わかる主体は明示しません。ここは「僕」に限定し、「僕」を特定して強調する強調文になっています。強調の目印が「は」ということです。