■日本人の美意識と西欧人の美意識:高階秀爾『日本美術を見る眼』から

      

1 日本人の美意識の特質

高階秀爾(タカシナ・シュウジ)は『日本美術を見る眼』の「日本美の個性」で、何を美しいと感じてきたのかを論じます。日本語の「うつくし」はもともと小さなもの、かわいいものに対して使われたものでした。大野晋の『日本語の年輪』から高階は引用します。

▼…してみると、美を表す言葉は、クハシ(細)、キヨラ(細)、キヨラ(清)、ウツクシ(細小)、キレイ(清潔)、と入れ代わってきており、日本人の美の意識は、善なるもの、豊かなるものに対してよりも、清なるもの、潔なるもの、細やかなるものと同調する傾向が強いように思われる…

高階は、美意識が[きわめて情緒的、心情的であること]、[日本人は、「大きなもの」「力強いもの」「豊かなもの」よりも、むしろ「小さなもの」「愛らしいもの」「清浄なもの」にいっそう強く「美」を感じていたということ](pp..4-5)であると記します。

      

2 西欧の美意識との対比

日本人の美意識は、西欧の美意識とは違うようです。[西欧の美意識の根となったギリシャにおいて、「美」が「力強いもの」や「豊かなもの」と結びついていたのと、対照的](p.5)と言うべきでしょう。さらにここでは情緒的、心情的なものでもありません。

[ギリシャ人たちにとっては、美は、真や善と同じように理想化された価値であり、人間よりも上位の存在である神に属するものであった]のです。[「美」への憧れがそのまま「力」への憧れと自然に重ね合わされていた]ということになります(p.5)。

日本人の方が例外的なのかもしれません。[漢字の「美」はもともと「羊」の「大」なるものを表しており、「麗」は、「鹿」の角の大きなものを示す文字]らしいのです(pp..5-6)。優しく、愛らしいものとは違っています。根本が違うということです。

      

3 見事な美の基礎原論

美へのアプローチが違っていました。[西欧においては、少なくとも近代になってロマン派の美学が登場するまで、「美」はまた、数学や幾何学や力学など、合理的なものと結びついていた](p.6)のです。[客観的、合理的原理](p.7)が働いていたと言えます。

[ギリシャ人たちは、人間の身体の美しさを数学的な比例関係によって基礎づけようとしたし、ルネサンス期には、美を幾何学的原理に還元しようとする試みが繰り返し行われた](p.6)のです。[「美」を合理的な原理に還元しようとする試み](p.7)でした。

[日本人の美意識の歴史において][「美」とは、そのような対象に属する性格ではなく、あくまでもそれを感する人の心のなかに存在するものだった]、つまり[「心情の美学」とでも呼ぶべきものが重要な役割を演ずるようになる]のです(p.7)。

[「美」が対象のある特殊な性質ではなくて、対象に触発された心の世界の問題、感じ方の問題]ならば、対象は[第一義的には問題にならない]、[完全無欠なものでなくてもよ]くて[あらゆるものが美の対象]となります(pp..7-8)。見事な美の基礎原論です。

(以上は1996年版 同時代ライブラリー288 に基づきます。)