■『日本語の世界 第6巻 日本語の文法』を読む 第10回

     

1 形容詞の表現区分

北原保雄『日本語の文法』第九章「客体的表現と主体的表現」は、[単語についての章]です。[目的のない品詞分解]や[助動詞の活用や文法用語名の丸暗記などが文法嫌いを増やしていた]、「文法的に考える」ことが必要だと記しています(p.309)。

北原は[形容詞には、「白い」「高い」のような客観的表現のものと「懐かしい」「欲しい」のような主観的表現のものとがある](p.320)との見解を紹介したうえで、自分流の整理の仕方として、表現を「客体的表現」と「主体的表現」に分けました。

北原は、以下のように整理しています。
[1] 客体的表現: (1)客観的表現、(2)主観的表現、(3)主観客観の総合的表現
[2] 主観的表現: (1)客体的表現、(2)主体的表現

     

2 一般人に使えない概念

北原の整理は、一般人を基準にした場合、明確に区分されるものとは思えません。客体的表現の客観的表現に「高い」が入っています。しかし「高い」と感じるのは主観的な場合もあるでしょう。「特売の品を、彼は高いと感じた」における「高い」は主観的です。

北原は[単語を客体的表現と主体的表現とに区別することは、重要なこと](p.321)だと記しています。しかし客体的表現と主観的表現を区別して、前者を3系統、後者を2系統に分けられるということを前提にするのは、かなりの無理があると言うべきでしょう。

表現のあり方について、こうした区別をすることに意味があるとは思えないのです。もっと客観的な区分がシンプルな形でなされなくては、実際には使えません。そうなると、体言と用言の区分、さらには品詞分類が問題になります。北原も言及しているところです。

     

3 「形容動詞」vs「体言+助動詞」

北原は「形容動詞をめぐる問題」を論じています。まずは時枝誠記が[形容動詞という品詞を認めず、これを、体言(語幹の部分)と助動詞との二語に分ける]考えであることを北原は紹介するのです(p.325)。それに対して批判を加えていくことになります。

北原は[「美しい」と「綺麗だ」との表現性を比較してみると、両者はどうしても同じものだとみなさざるをえない]と言うのです。[大野晋も永野賢(マモル)も両者を同じものと見ている](p.326)と補強しています。しかし多数決で決まるわけではないでしょう。

「この花は美しい」は「この花は美しいです」とは言えますが、「この花は美しいである」とは言えません。「この花は綺麗だ」は「この花は綺麗です」と言え、さらに「この花は綺麗である」とも言えます。「美しい」と「綺麗」には違いがあるのです。

文末の表現が変わるということは、「美しい」と「綺麗」では、言葉の種類が違うのだという推定が働きます。体言で調べてみれば、すべて「である」がつけられるのです。時枝の考えが正しいということになります。北原の主張は空振りしたようです。