■文章読本の終焉

      

1 文法の代替物だった「文章読本」

英語を書く場合、標準的な書き方があるようです。学術論文を書くときに、英文法のルールに沿った文章を書くのは、日本人であっても当然のことだと言われています。欧米言語はラテン語の文法が基礎にありますから、歴史があって安定しているようです。

日本語の場合、すべての学問を日本語の読み書きで行えますから、器としてはもはやグローバルな言語になっています。しかしまだ日本語文法が確立しているわけではありません。文法がない時代の代替物が「文章読本」だったと言ってもよいでしょう。

2000年頃までは、作家の文章読本の類がまだ幅を利かせていました。もはやそんな時代ではありません。20代の人にノーベル賞をとった大江健三郎という作家を知っているかと聞けば、大半が知らないと答えるでしょう。作家や文学への関心が急低下しています。

      

2 最期の文章読本『名文を書かない文章講座』

村田喜代子の『名文を書かない文章講座』は2000年に出された本です。芥川賞作家の文章講座ですから、いわゆる文章読本の範疇に入ります。「名文を書かない」という点が従来の「文章読本」との違いかもしれません。しかし最期の文章読本のように感じました。

文の構成を「起承転結」で確認した上で、「序破急」に言及して[私はこの「序破急」の形の方がいい得ている気がする](p.15)と記します。扱われる文章は、作家の専門分野にあたるものです。エッセイや小説などが多く扱われています。

良い事例として示されているものでも、不思議なほど関心がわきません。驚きます。さらに言えば、この講座での解説を読みながら、何だかズレたお話のように、説明するポイントが違うのではないかと感じました。文章に対する要求が違っているようです。

     

3 文法の軽視と文章読本の終焉

村田は「形容詞を多用しない」ようにと言い、「目に染みるような赤い皿のような、どす黒くさえ見える色をした大きな椿が…」との例文を示します。一方で「赤い椿」について[すべての形容詞を取り払ったのちに残る、たったこれだけの]と言うのです(p.64)。

形容詞という用語が正確に使われていません。修飾語をつけすぎないようにということでしょう。「文法より大事なもの」では、[どうでもよいところで文法の枝葉にこだわり](p.90)という言い方をしています。頼るべき文法がない状況を感じさせる言い方です。

作家だけに、感覚でおかしいのに気がついています。例文「兄の子供が、成績表が入ったランドセルを背負って帰ってきた」を、「成績表の入った」にしたいとのこと。理由はありません。[文章にとってこれらはあくまで部分である]と書いています(p.173)。

[初めに言葉があった。後から文法が生まれた](p.173)と村田は記しました。文法の軽視があります。「成績表の入った」にしたほうがよいのは、センテンスの主体が明確になるためです。21世紀とともに、文章読本は終焉を迎えたのかもしれません。

     

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『名文を書かない文章講座』村田喜代子

       

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■メモは実力を反映する:発見・思考の検証ツール

     

1 メモを再現可能にする方法

何か文章を書こうとする人に対して、しばしばメモを取ったほうがよいというアドバイスがなされます。たとえば宮家邦彦は『ハイブリッド外交官の仕事術』で、すべては[小さなヒントを丹念にメモすることから始まった](p.125)と記していました。

メモが再現不能にならないように、メモをした後、[文章として読めるようになるまで修正を加えていきます]とも書いています(pp..128-129)。こうしたメモがアイデアにつながるのです。宮家の場合、何かを生み出すヒントがメモであると言ってよいでしょう。

もっと直接的な使い方をするメモもあります。村田喜代子は『名文を書かない文章講座』の「急がばメモを」で、[しゃべりたい話が見つかると、そこらにある紙にとりあえず走り書きをする。これは要点だけメモ程度に簡単に記すだけでいい](p.17)とあります。

      

2 実力を反映するメモ

村田は芥川賞をとった作家です。こういう人が自分のエッセイを書いたときのメモを公開しています。メモは[頭の中であらかたまとめて、後で]書けばよいとのこと。「姉という世代」という原稿用紙一枚弱のエッセイを書いたときのメモが以下です(pp..17-18)。

▼仮題「弟よ」
・テレビの懐メロで内藤やす子の歌『弟よ』(橋本淳作詞)を聴く。
 一人暮らしのアパートで/薄い毛布にくるまって/ふと思い出す故郷の/ひとつちがいの弟を
・イガグリ頭の弟。あの頃は暗かった。世の中も、娘たちも暗かった。そんな時代の歌。友達のK子もこの歌が好きだと。弟もいないのに!
・「この歌聴いてると田舎に弟を置いてきたような気がする」。田舎もないのに! 弟って何だろう。
・高柳重信の現代俳句。「六つで死んで今も押し入れで泣く弟」
・弟は過去に住む。遠い姉の青春の日々。弟はその中にいる!

これだけで、何かを感じさせるメモです。村田は[メモが出来ると、エッセイは半分書き上がったのも同然だ](p.18)と言います。この水準のメモが出来る人なら、エッセイが書けるかどうかなど心配する必要もないでしょう。メモは実力を反映するようです。

    

3 メモは思考・発見の検証ツール

村田は「メモから実作へ」で、メモをもとにしたエッセイを引いて、[メモの文章が挿入されている箇所]を示します。もうメモの段階で半分どころか、ほとんどできていると感じさせるものです。ここまでが基本編に書かれています。これには参りました。

[実作を始めると誰でも委縮してしまいがちになる](p.22)とあります。朝日カルチャー教室でのことですから、そうなるでしょう。これだけのものを示されたら、誰でも委縮します。しかし、ぬるい文章を示すわけにもいきません。これでよいのでしょう。

[一つの文章をうまくまとめるのも大切だが、その前に発見や思考のある文章を書きたいものだ](p.23)と村田は言います。エッセイでも、発見や思考が必要です。当然、ビジネス文書にも必要でしょう。メモの水準が、文章の水準をほとんど決めてしまいます。

メモは素材です。素材の良し悪しで、文章の水準は決まるでしょう。同時にメモは検証ツールでもあります。メモは、言語によって思考を「見える化」したものですから、メモを見れば、その中にどのくらいの発見や思考があるか、確認できるということです。

     

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『ハイブリッド外交官の仕事術』宮家邦彦

      

『名文を書かない文章講座』村田喜代子

    

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■「ビジョン」とはどういうものか:セコム創業者飯田亮の考え方

      

1 「経営理念」と「ビジョン」

ビジョンという言葉がビジネスでは使われます。必ずしも明確な定義がなされていません。一般的な用語として使われています。「洞察力」とか「将来の構想」といった意味で使われているのでしょう。標準的な定義がなくとも、そこで語られることが重要です。

『プロの勉強法』に、セコムの創業者である飯田亮(イイダ・マコト)の「ビジョン構築」という文章があります。2004年9月13日号の「プレジデント」に載った記事です。すでに20年前のものですが、ビジョンを正面から扱ったものとして、大切にしています。

飯田もビジョンという用語を明確に定義しているわけではありません。しかし語られるところから、どういう意味の言葉として使っているのかが見えてきます。ここで「経営理念」と「ビジョン」を使い分けている点が大切です。両者が違うことを前提とします。

     

2 ビジョンは変更すべきもの

[経営理念は時代が変わっても変えてはいけないもの]です。一方、ビジョンは[時代や環境の変化に応じて変えていくべき]ものということになります(p.28)。ビジョンの変更は[ビジネス手法を破壊すること][創造的破壊]に該当するものです。

▼これからは経営者がどういうフィロソフィー(哲学)とビジネスデザインを持っているか。どういう考え方で経営をしているのか。そうした長期的な視野に立った見方が、より重要視されるようになる。 p.31

経営理念は「フィロソフィー(哲学)」にかかわり、ビジョンは「ビジネスデザイン」にかかわるものです。飯田は「ビジョンと信念」とも言っています(p.30)。不変の「経営理念、哲学、信念」、可変の「ビジョン、ビジネスデザイン」の2系統が必要です。

     

3 「安全安心を提供するための価値あるサービス」

飯田の言う「ビジネスデザイン」とは、「ビジネスモデル」にあたります。[私はヨーロッパに警備ビジネスがあると聞いて、セコムの創業を思い立った][セキュリティというそれまでの日本になかったビジネスを][デザインしていった](p.25)のでした。

[安全・安心を提供するという本道の部分で本当に価値あるサービスを行うこと]が重要であり、このビジネスを成り立たせるためには「三カ月分の料金前払い制を貫いている」(p.26)のです。前者がビジョン、後者がビジネスデザインに該当するものになります。

同じように、セキュリティ機器をレンタルにしたのも、[セコムのビジネスは顧客に安全・安心を提供すること]だから[自社で責任を持って管理・メンテナンスしたほうが、きちんとしたセキュリティサービスを提供できる]という理由からでした(p.27)。

主力事業だった巡回警備を、機械警備へと切り替えたのは、[これからは機械警備だというビジョンがあったから、創造的破壊の決断が出来たのである](p.29)。「安全安心を提供するための価値あるサービス」を継続するには、機械警備が不可欠になったのです。

      

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『プロの勉強法』プレジデント

    

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■文書の標準化について:文章チェック講座を終えて

      

1 リーダーたちの3つの受講目的

19日に文章チェック講座を行ってきました。この時期におおぜいの方がご参加くださって、感謝しています。リーダーの人達がどうやって文章チェックをしていけばよいのか、何か参考になることがあったなら幸いです。講義をすると、毎回勉強になります。

最初に受講の目的を確認させていただきました。今回も従来と変わりません。3つの目的でした。(1)リーダー自らの実力アップのため、(2)標準的なチェック方法はどんなものかの確認のため、(3)部下たちの実力アップにつながるチェック方法の確認のため…です。

文章チェックをする人が一番実力をつけます。このとき当然ながら、リーダーが一番実力があることが前提です。自らの実力アップを意識するのは自然なことでしょう。さらに成果を上げる自分なりの文章チェックの方法を確立する必要があります。

       

2 文書の「方言」と標準化

実力をつけるためには、まず文書の形式的な標準化が必要です。各人がばらばらの形式の文書を作ってきたら、チェックをするのは困難でしょう。書く方も苦労します。その組織、その部門での文書スタイルは、ある程度決まっていなくてはなりません。

今回、他社とのやり取りの多いお仕事をしている方から、会社ごとに文書の形式が違っていて、コミュニケーションに支障が出ているとの問題点が示されました。文書の標準化が不可欠であることがわかります。ここでの標準化は、標準的な標準化です。

この問題を指摘くださったリーダーの人は、各社の文書に「方言」があってという表現をしていました。これまで「標準化がなされていない」という言い方をしていましたが、まさに「方言」というべきものでしょう。うまい表現があるものだと思いました。

     

3 起承転結の否定

ビジネス文書で「起承転結」の形式を使うことは、もはや標準的とは言えません。しかし、いまだに起承転結で書くようにという経営層の人がいるとの話がありました。実態は、その通りです。これは徐々に変わってきているというしかありません。

経営陣が起承転結で書くようにという組織で、リーダーがそれを否定するのは簡単なことではありません。実際のところ、ケースごとに効果的だという形式を決めていくしかないでしょう。このとき案出される形式は、おそらく起承転結の形式にはなりません。

「起承転結」というのは、「結論」が後ろに置かれている形式です。最初に結論がわかる方が効率的な形式でしょう。これが標準的なスタイルの基礎になっていくはずです。こうした標準化の形成とともに、文章チェックの方法も標準化されていくということです。

形式が各社ごとに違いがあるのは、当然のことですが、その違いによってコミュニケーションに支障が出てくるようでは困ります。共通基盤ともいうべきスタイルがあるということです。文書の標準化と文章チェックというのは、車の両輪と言うべきものでしょう。

      

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■要素の細分化と「見える化」

   

1 問題の要因発見に有効な細分化

物事を分析するときに、要素を細分化していくアプローチは、現在でもしばしば使われています。要素を細分化することの効果には、どんなものがあるでしょうか。おそらく一番基本的なものは、問題に対して関係ある対象であるか否かを決定する機能です。

全体を見るのではなくて、全体の一部分を選択して、その対象を分析するアプローチをとるため、対象の「選択と集中」が可能になります。その結果、この要素は関係がある、これは関係がないと区分できるため、問題の要因が見出しやすくなるということです。

関係のあるものと関係のないものの線引きをするときに、正確な線引きをするためには、細分化を進めていくことになります。関係の有無を判定するためには、対象を「〇×」で決められるところまで細分化すれば、関係の領域が明確になってくるはずです。

      

2 細分化の弱点

一方で、細分化していくアプローチには弱点もあります。全体が見えにくくなるという点です。半分の赤ん坊というのはあり得ないというドラッカーの言葉もありました。組み合わせによる影響も無視できません。細分化すると、見えなくなることがあるのです。

部分を磨き上げれば、全体も磨きがかかると期待するのは当然ではあります。ところが合成の誤謬という言葉で示されるように、個々の期待が積み重なっていくと、かえって全体として別方向に行くことがあるはずです。皮肉な結果が生じることはありえます。

良かれと思って始めたものが、全体として悪い結果を生むことなど、ないと思いたいところです。しかし例えば、個々人の節約が健全であっても、それが拡がり過ぎれば、生産者も販売者も困ります。だから結果から考えていくアプローチも必要になるのです。

     

3 コンセプトからのアプローチ

期待する成果を明確にして、そこからどうすべきかを考えるアプローチは、要素を細分化して分析するアプローチとは大きく違います。こうなりたいという状況を「見える化」することからスタートするのです。存在しないものの姿を、明確にすることになります。

このように現実に先立って、あるべき姿を創造する行為がコンセプト作りの段階です。ここでは分析は出来ません。代わりに統合がなされます。ここはこうだ、この点についてはこうなるように…と、部分が全体に統合され、簡潔で明確な姿が描かれていくのです。

堺屋太一は沖縄返還に際して、沖縄の人口が減らない施策をとるようにと命じられて、沖縄に産業を興すことが必要だと考えました。条件に合う産業は観光業だとターゲットを絞り、「海洋リゾート沖縄」というコンセプトを作ります。そこからスタートしました。

現状を変えるために行動を起こすとき、中核になるのはコンセプトです。ゴールを「見える化」したら、今度は到達までのプロセスを明らかにしていきます。その過程で検証が必要になれば、分析の登場です。分析は行動における補助機能というべきものでしょう。

     

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■業務マニュアルを作成するために:必要となる新たな入門用プログラム

      

1 コロナ以前と様変わりした受講者

新型コロナのまん延によって、ずいぶんビジネスリーダー向けの講座参加者に変化がありました。一番大きな変化があったのは、業務マニュアル講座です。コロナ前には、なぜかベテランの方がたくさんいらっしゃって、驚くべき高水準を要求されました。

10年以上前にスタートしたときには、入門講座がよいということでしたので、講座名も「業務マニュアル入門講座」といったものだったのです。当然のように初級講座という認定でした。5年すぎた頃に、講座名から「入門」が外れたように記憶しています。

講座のレベルも中級講座となりました。しかしコロナ前の2018年から19年頃には、中級以上のベテランがかなり参加くださっていましたから、あれは上級と言ってよかったのではないかと思います。ところが今は、若手中心の入門講座に戻りつつあるようです。

     

2 若手の抜擢と経営側の不安

直接相談を受けるケースを見ても、会社のトップの方がご自分でマニュアルを作りながら、ご相談くださることもありますが、それよりも若手抜擢の話になりがちです。若い優秀な人がいたら、ひとまずリーダーにしてみるという組織がかなり出てきています。

そうして抜擢された方の中には、業務マニュアルのことなど、よくわからないという人が多いことでしょう。業務マニュアルを作った経験があるという人でも、経営にかかわることではなくて、新人向けの業務の手順を書いただけということになりがちです。

若手の抜擢がかなりの会社で見られますが、経営にかかわることを若手に丸投げもできず、困っている様子が見られます。数名の経営側の人とのお話にすぎませんので、雰囲気だけだと思っていただきたいのですが、ひと言で言えば「参ったよ!」です。

     

3 業務の「見える化」からスタート

古い業務マニュアルが役に立たなくなれば、それを使うわけにはいかないでしょう。しかし、いきなり成果の上がる良質の業務マニュアルを新規に作ることなどできない、ということです。まずは基本を知り、実際にマニュアルを作ってみるしかないでしょう。

受講者の中には、会社から行ってきてと言われたという人が、毎回、数名いらっしゃいます。コロナ以降、もはや参加される方々の中心は、初心者レベルと言ってもおかしくありません。そんなことで、講座がまた初期の頃の「入門講座」に戻ることになります。

業務内容はここ数年で、ずいぶん変わってきました。業務形態の変化を反映させるのは当然のことです。同時に業務マニュアルを初めて作る人向けに、あまりぐらつかない作り方を確立できたらと思います。ささやかな数ですが、個別指導では成功例があるのです。

まずは作成領域を選定して、次にその領域で、現在どのように業務を行っているのかを記述することになります。いわゆる業務の「見える化」からスタートするしかありません。叩き台があれば、それを改善していくことは可能です。基本はこういうことになります。

     

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■類推・アナロジーの利用:マネジメントを考えるアプローチ

      

1 マネジメントの勉強

少し前から、マネジメントの勉強をする人が何人か出てきています。マネジメントの本を読みだしているわけではありません。責任のある地位についていて、そのなかで実際に何かを始め、その検証をしながら、マネジメント向き合っているのです。

何かを始めないと、どうやらまずいことになりそうだと考える状況にある方々ですから、ある種の危機感があります。そういうとき、本を読んで勉強するという発想にはなりません。とにかく何かを始めるしかないということになります。

こうして自分でどうしたらよいかを考えて、その効果がいかにないかを身に染みているのです。何でだろうということになります。まずは検証が必要です。成果を上げるために、修正が必要ですから、アイデアも必要になります。勉強するしかないでしょう。

      

2 演繹的な手法は現実的でない

どうやって勉強したらよいのか、苦労しています。マネジメントの本を読んでいては間に合わないという感じがあるのでしょう。それに、いま自分がやろうと思うこととは、ズレがあるように思うという言い方をしていました。役に立たないだろうということです。

何冊か手に取ったのでしょう。実感として、何か違うと感じたようです。たぶん、それは正しいだろうと思います。理論的な話を読んで、そこから何かを考えることは、かなり無理なことです。いわゆる演繹をしようとすることになります。

理論をもとに、自分の問題を考えてみても、そう簡単にはいきません。「これだ!」という考えに到達するのに、役立ちそうにないという判断は現実的なものです。確率的な感覚からすると、厳しいと感じるでしょう。どうすりゃいいの、ということになります。

     

3 類似のケースを見出す手法

自分の問題に対して、これは使えるというケースを見つけてみたらいかがでしょうか。実際にあったケースを探す方が、勉強になりますよということです。そんなお話をしただけですが、わかったという顔つきになります。アプローチが違うのです。

こちらは演繹の手法ではありません。理論をもとに、当てはめるというアプローチは、ある種の客観性のある、一見王道を行く方法に見えます。しかしマネジメントの理論というのは、様々な条件を前提としているはずです。その条件が明確なわけではありません。

類似のケース見つけて、それを活かそうというのは、類推の手法です。アナロジーと言われています。「こういうとき、こうして打開した」というケースを、自分の問題に当てはめて考えるということです。補助線を見つけるということかもしれません。

類似のケースを見つけることに集中していると、一見似ていないケースに、類似のケースを見出すことがしばしば起こります。類推の方法は、実際的です。具体的に成果の上がる考えが出て来るなら、それが正しいということになります。成果に直結しているのです。

    

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■ドラッカーの文章の書き方:『知の巨人 ドラッカー自伝』から

      

1 参考になるドラッカーの執筆方法

何とか締め切りまでにテキストを提出しました。毎回、かなりの改定をするので、それなりに苦労しています。今回は、全面的な見直しですので、一度完全に作り直してから、前のものとのすり合わせをすることになりました。全体的な統一性を持たせるためです。

新たなテキストに、いままでのテキストの内容を組み込んでいく作業になりました。今回は、まずまずの出来かなという気持ちもありますが、講義をやってみないことにはわかりません。それにしても、効率的とは到底言えない方法でテキストを作りました。

そういえば、と思い出します。『知の巨人 ドラッカー自伝』にドラッカーの執筆方法が書かれていたはずです。確認してみると、最初の部分にありました。ドラッカーの方法をそのまま採用することは無理だと思います。しかし参考になりそうです。

     

2 手書きで全体像を描くのが始まり

ドラッカーは亡くなる2005年2月に、日経新聞の「私の履歴書」に登場しています。6回の「合計十時間以上」のインタビューをもとに、訳者の牧野洋が「インタビューでのこぼれ話や背景説明などを盛り込んだ解説を加え」て本になりました(pp..12-15)。

ドラッカーは[長年の経験からかなりのスピードで原稿を仕上げる技術を身につけている]と語っています。[まず手書きで全体像を描き、それをもとに口述で考えをテープに録音する。次にタイプライターで初稿を書く]という方法です(p.24)。

[通常は初稿と第二稿は捨て、第三稿で完成。要は、第三稿まで手書き、口述、タイプの繰り返しだ。これが一番速い]とのこと(p.24)。解説に[口述で自分の考えを詳細にテープに録音]し、アシスタントに[タイプで打ち出してもら]うとあります(p.33)。

      

3 書き直すうちに結論が変わる

ドラッカーの執筆法で注目すべきことは、最初に全体像を作ること、それをもとに「手書き・口述・タイプ」と、執筆の手段を変えながら、何度も書き直すことです。解説者が言うように[何度も書き直すことで自分の考えの完成度が高まる](p.33)ように見えます。

ドラッカーの語るところによると、[私の場合、原稿を書き直すにつれて、結論がいつも当初とは違ったものになる]とのこと(p.33)。全体の構想があって、そこにいくつもの思いつきが加わっていき、その後、やっと初稿で考えが「見える化」されます。

自分の考えが見えるようになると、それを基礎にして考えが洗練されていく…ということなのかもしれません。その結果、結論が違ったものになる可能性はあるでしょう。しかし、いつも初稿と違ったものになるというのは、かなり異色な感じがします。

ドラッカーの執筆法は、結論が見えるまで書かないというエマニュエル・トッドの方法とは対照的なものです。私たちは、たいていドラッカーとトッドの間のどこかに位置していて、どっちか寄りになります。私は、ドラッカー寄りだと改めて思いました。

      

◆参考ブログ: 思考と執筆:『エマニュエル・トッドの思考地図』から

  

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■日本語の言葉についての判別方法:三上章『現代語法序説』を参考に

     

1 接尾辞「サ」で形容詞を判別

三上章の『現代語法序説』はもはや歴史的な本といってよいかもしれません。刺激的な日本語文法の本です。三上は「九品詞表」を掲げ、「主要語」と「副用語」を区分し、さらに活用の有無により「名詞・代名詞」「動詞・形容詞」を区分しています(p.6)。

ここに[形容動詞はもはや形容詞である]と注記されていました。第一章「私の品詞分け」には[語幹に当たる部分に接尾辞「サ」がつけられるもの]を形容詞とするとあります(p.42)。「黒い⇒黒さ」「静か⇒静かさ」のように、「さ」をつけることは可能です。

しかし「黒い」は形容詞であり、「黒さ」は名詞でしょう。「静か」は「静か・です/静か・だ」と言えますから、体言です。「静かさ」は名詞相当語でしょう。これは「きれい」の場合も同様です。「きれい」は体言、「きれいさ」は名詞相当語になります。

     

2 実態とのズレ

「黒い」も「美しい」もある帯域の状態を示した言葉です。程度を表す「とても/すこし/かなり」などの言葉を、前につけることが出来ます。「黒さ」「静かさ」の場合、帯域ではなくて、ある固定された状態を示しますから、程度を加えることはできません。

小松英雄は『日本語はなぜ変化するか』で、「静か」から生み出された2つの言葉である「静かに(副詞)」と「静かな(連体詞)」をセットとしていました。このことからすると「静かさ」の場合、名詞相当語というよりも名詞と言ってよいのかもしれません。

「走る」は動詞、「走り」を名詞とするのと同様です。ここでは主体になれる言葉を名詞と呼んでいます。「走りが・違う」とか、「黒さが・目立つ」、「静かさが・際立ちます」と言える言葉です。三上の形容詞概念には、実体とのズレがあるように思います。

     

3 文末・主体との関連付けが必要

言葉をセットで考えるとすると、「静か」に対して「静かさ」「静かな」「静かに」がセットになるでしょう。一方、「黒い」「黒さ」、あるいは「美しい」「美しさ」が対になり、「走る」「走り」、あるいは「動く」「動き」が対になっていると言えます。

「幸せ」や「平和」の場合、「幸せな/幸せに」「平和な/平和に」というセットが考えられるでしょう。一方、「幸せさ」「平和さ」という言い方は、あまりしません。「幸せが・大切」「平和が・大切」のように名詞という意識があるからだろうと思います。

「さ」という言葉がつくのか、つかないのかで、形容詞であることを判別するのは、個別で見ると無理があるのです。さらに三上の場合、活用の有無の判別法も明確にしていません。文末や主体と関連付けた判別法でないと、安定性の点で問題を生むことになります。

文末の形式「です・ます・である」のつき方で判別するか、主体となる言葉に「は・が」を付けられるか否かで判別するのが王道ということです。あるいは言葉のセットを見つけることがポイントになります。三上のいう形容詞概念は、実際には使えないのです。

   

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■生成AIの技術進歩と人間の役割:自分の頭を使うことが求められる時代

      

1 生成AIの利用が前提の時代

読売新聞オンラインに面白い記事(3月6日付)がありました。「中学1年生250人の半数超、理科の課題で同じ間違い」というものです。課題に対して、生成AIの「誤答」を書き写したとのことでした。すでに起こった未来と言えるかもしれません。

20歳前後の教え子たちは、課題やレポートに生成AIを利用することは、あまりないように思います。チャットGPTが公開され利用できるようになったのが2022年の11月とのことです。リーダーの方々から質問をいただくようになったのは昨年8月頃からでした。

報道にあった中学生たちは、スマートフォンを利用するようになって、まっ先に生成AIを利用してみたのかもしれません。多くの生徒が当然のように利用しています。このまま急速な進歩が続いていけば、生成AIの利用が前提の時代になることでしょう。

      

2 機械化に匹敵するインパクト

AIの技術が進歩すれば、文章で答えを出してくれるようになるのですから、画期的なことです。それまで人間が手足を使って働いていたものが、機械を使ってより高度な作業が出来るようになったことと比べても、決して小さくないインパクトになります。

歴史的に見ると、人間は機械をずっと良きものと認識してきたわけではありません。しかし上手に利用することを考えることによって、経済成長がはじまります。機械を味方につけたということです。生成AIに対しても味方につける方法が必要になるでしょう。

機械を使いこなすために、機械を使うスキルの習得が必要になりました。さらに機械を利用してもらうためにはニーズを探って、使いやすい機械を開発することが求められるようになります。生成AIも、その方向に進んでいく可能性が高いでしょう。

      

3 創造性・哲学が求められる時代

生成AIを使う場合に、機械を使うスキルに該当するものとは、どんなものになるのか、まだよくはわかりません。しかし基礎になるものは人間の読解力、文章の分析能力になることは間違いないでしょう。人間が生成したAIの文章を検証できなくては困ります。

先の記事で専門家が、「医学的な情報についてAIを妄信することは、現時点では非常に危険」と指摘していました。生命や健康にかかわることは、まだリスクがありすぎます。その点では、中学生が課題に使って失敗するのは、まだましなことでした。

生成AIは、定型的なこと、正解があること、それが検証できること、こうした条件に適った分野から優先的に利用されていくようになるはずです。これとは逆に、創造性があって、価値観が絡んで評価が分かれるものの利用は限定されるものとみられます。

どうやら現在主張されていることと、あまり変わらないのかもしれません。AIが広く利用される時代でも、創造性を発揮せよ、哲学をもて…ということになるということです。いっそう自分の頭を使うことが求められる時代になるだろう、という予感がします。

       

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