■文章読本の終焉

      

1 文法の代替物だった「文章読本」

英語を書く場合、標準的な書き方があるようです。学術論文を書くときに、英文法のルールに沿った文章を書くのは、日本人であっても当然のことだと言われています。欧米言語はラテン語の文法が基礎にありますから、歴史があって安定しているようです。

日本語の場合、すべての学問を日本語の読み書きで行えますから、器としてはもはやグローバルな言語になっています。しかしまだ日本語文法が確立しているわけではありません。文法がない時代の代替物が「文章読本」だったと言ってもよいでしょう。

2000年頃までは、作家の文章読本の類がまだ幅を利かせていました。もはやそんな時代ではありません。20代の人にノーベル賞をとった大江健三郎という作家を知っているかと聞けば、大半が知らないと答えるでしょう。作家や文学への関心が急低下しています。

      

2 最期の文章読本『名文を書かない文章講座』

村田喜代子の『名文を書かない文章講座』は2000年に出された本です。芥川賞作家の文章講座ですから、いわゆる文章読本の範疇に入ります。「名文を書かない」という点が従来の「文章読本」との違いかもしれません。しかし最期の文章読本のように感じました。

文の構成を「起承転結」で確認した上で、「序破急」に言及して[私はこの「序破急」の形の方がいい得ている気がする](p.15)と記します。扱われる文章は、作家の専門分野にあたるものです。エッセイや小説などが多く扱われています。

良い事例として示されているものでも、不思議なほど関心がわきません。驚きます。さらに言えば、この講座での解説を読みながら、何だかズレたお話のように、説明するポイントが違うのではないかと感じました。文章に対する要求が違っているようです。

     

3 文法の軽視と文章読本の終焉

村田は「形容詞を多用しない」ようにと言い、「目に染みるような赤い皿のような、どす黒くさえ見える色をした大きな椿が…」との例文を示します。一方で「赤い椿」について[すべての形容詞を取り払ったのちに残る、たったこれだけの]と言うのです(p.64)。

形容詞という用語が正確に使われていません。修飾語をつけすぎないようにということでしょう。「文法より大事なもの」では、[どうでもよいところで文法の枝葉にこだわり](p.90)という言い方をしています。頼るべき文法がない状況を感じさせる言い方です。

作家だけに、感覚でおかしいのに気がついています。例文「兄の子供が、成績表が入ったランドセルを背負って帰ってきた」を、「成績表の入った」にしたいとのこと。理由はありません。[文章にとってこれらはあくまで部分である]と書いています(p.173)。

[初めに言葉があった。後から文法が生まれた](p.173)と村田は記しました。文法の軽視があります。「成績表の入った」にしたほうがよいのは、センテンスの主体が明確になるためです。21世紀とともに、文章読本は終焉を迎えたのかもしれません。

     

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