■主体が何であるかがわかる記述:形式的な読み取りを助長する主題概念

1 主題中心の日本語文法

現在の通説的な日本語文法から「主語」という用語がほぼ消えてなくなり、かわりに「主題」という用語が中心にすえられるようになっています。この結果、学校教育への変化が起きました。これはおそらく1980年代から起こってきた変化です。

1982年に出された『日本語教育事典』では、「主語」を重要項目として取り扱っていました。主語とは一般的には主体概念をいうとのまっとうな説明がついていたのです。2005年の新版では、主語の項目が消えました。ずいぶん強引でズレたことをやっています。

先日、若いビジネス人に、日本語の読解に関するいくつかのドリルをやってもらいました。業界でも最難関のところで仕事をしている人たちです。ドリルをする前から、私はこういうのが苦手ですと言いま す。残念ながらあまり出来がよくありませんでした。

     

2 学校での文法教育が激減

今回お話をした人たちは、学校で現代の日本語に関する文法教育をほとんど受けていません。主語、述語についても、ほとんど授業で扱われなくなったようです。以前なら、主語、述語がわからないという人達がいましたが、それは習ったあとでの疑問でした。

主語が主体だと教えてくれる先生は、もはや少数派ではなくて、皆無と言ってよいのかもしれません。もはや記述された日本語の文章を、その形式から判読するアプローチしかなくなってきたようです。私たちはそんな単純な読み方をしていませんでした。

語られていることの主体が誰であるのかということを意識しなくては、文の意味が取れません。古文を読むときに、誰の言葉なのかがわからなくて、意味が取れないことがあったはずです。現代の日本語でも、誰の言葉かわからなかったら意味が取れないでしょう。

      

3 形式的な読み取りを助長する主題概念

アミラーゼ問題というのがありました。聞いたことないという人がまだたくさんいるため、いまだにドリル問題にいれておいて検証しています。ポイントとなるのは「アミラーゼはデンプンを分解するが、形が違うセルロースは分解できない」の意味です。

一部の人たちは、まったく疑いなく「アミラーゼは…分解する」と「セルロースは…分解できない」とを並べて、分解できるのはアミラーゼで、分解できないのはセルロースだと解釈します。両方とも「は」がついていますから、間違いだという発想がありません。

形式的なアプローチだけで読解しようとするのは無謀です。おなじく「は」がついたら主題だという発想も無謀でしょう。形式的に説明しようとして、無理な概念をつくり上げたのが主題概念だったと言いたくなります。この弊害が大きくなってきました。

叙述の内容には主体があるという意識が必要です。主体を的確に表記するには、主体でない「は」を減らした記述が必要になります。先の文も「アミラーゼはデンプンを分解するが、形の違うセルロースを分解することができない」に変えると、正解になるのです。