■日本語文法の主題概念の曖昧さ:間違った前提

      

1 その気にさせるだけの主題概念

日本語文法では、助詞「は」が主題を提示する機能を持つということになっています。そういうつもりで見れば、たしかにそんな気がするでしょう。「は」がついて主題となった言葉の後には、解説・説明が来るということです。こちらも、そんな気になります。

ところが実例を見て、本当にこう思うか聞いてみると、そう思わないという人が多数派になるのです。もし例文が「石川さんは高校の先生です」ならば、「石川さん」が主題で、その説明は「高校の先生です」となります。そう言われれば、そんな気になるでしょう。

一方、「高校の先生だったのは石川さんです」の場合、「高校の先生だったのは」が主題であり、解説・説明が「石川さんです」になるはずです。そう思うかを聞いてみればわかります。そう思わないのです。例文が変わったら、違うと感じる人が多数派になります。

     

2 「は」「が」は対照的存在

日本語の文法では、何年もの間、助詞「は」と「が」の違いを強調してきました。違う助詞なのですから、機能が違うのは当たり前です。違いよりも、まったく別なものではなく、対照的な存在だと考えたほうが、納得が得られます。先の例文を見てみましょう。

「石川さんが高校の先生です」という例文の場合でも、「石川さんが」が主題で、その説明が「高校の先生です」だと言われれば、優秀な人でも、そうですねと言います。「は」がつくと主題になり、その後に解説(説明)が来るとの説明は、曖昧で不安定なのです。

ところが「は」と「が」の違いを対照的だと考えるならば安定してきます。(1)「石川さんは高校の先生です」と、(2)「石川さんが高校の先生です」ならば、前者は「問題?・解答!」構造、後者は「解答!・問題?」構造で、ともに主体は「石川さん」です。

     

3 主題概念の単独性・孤立性

問題と解答について、少し説明します。(1)「石川さんは高校の先生です」の場合、<(どんな人?)石川さんは><高校の先生です(!)>となり、(2)「石川さんが高校の先生です」の場合、<石川さんが(!)><(どんな人?)高校の先生です>となります。

(3)「高校の先生だったのは石川さんです」は、<(どなた?)高校の先生だったのは><石川さんです(!)>となり、(4)「高校の先生だったのが石川さんです」は、<高校の先生だったのが(!)><(どなた?)石川さんです>という構造になるということです。

「は」の「特定して限定する」機能が「問題」と連結し、「が」の「選定して決定する」機能が「解答」と連結し、両者が対照化されたために概念が安定しました。主題の場合、「主題-解説」の構造を「は」だけに当てはめたので、主題概念が曖昧になったのです。

「は」「が」は、ともに主体の目印になっています。実際には、「あの本は読みました」でも「あの本が好きでした」でも、「あの本」は主体でなく、「私は」が主体です。両者の共通性が、概念を明確にしています。主題概念の単独性・孤立性が問題なのです。