■日本語の文法の問題点:思考形式の構造と乖離する通説的文法

    

1 思考形式の構造と言語形式の構造

いま少しずつ日本語文法についてまとめています。通説的な日本語文法の本とは、ずいぶん違った内容になりそうです。講義をした経験からいっても、通説的な日本語文法は、ほとんど受け入れられていません。小学校で習った文法は、それとは違ったものです。

『日本語の歴史 7』(平凡社ライブラリー)で、思考形式の構造と言語形式の構造の違いを指摘しています。思考形式に従うなら、学校文法の[文にはかならず<主語>と<述語>の部分がある、という命題]は正しいが、言語形式の構造とは違うというのです。

日本語の言語形式の構造について、[日本語の文の要は、その述語の部分にある](p.57)ということになります。これは通説的な日本語文法でも基礎にしているところです。ここまでなら違和感を持たれません。問題は、主語(主辞)の扱いということになります。

      

2 日本語と英語の重心の置かれ方

「彼女は医者です」の要は「医者です」だと言われれば、ああそうですかと、あえて反対はしないでしょう。しかし、この文では「医者です」だけでは意味が通じません。「彼女は」が必須です。要であるということは、そこに重心があるということにすぎません。

英語なら「She is a doctor」ですから、Sは「She」で、Vが「is」となります。要となるは「She」でしょう。Sheが、どんな存在かといえば、doctorですよというのが思考形式の構造になっています。Sheに対して情報が付加されて、意味が定まるということです。

この点、日本語では「医者です」に対して「彼女は」という情報が付加されて、意味が定まるといえます。主体が記述しない「医者ですよ」の場合、主体が「私」になるのが日本語のルールです。こうしたことから日本語の場合、文末に重心が置かれると言えます。

     

3 思考形式と乖離する通説文法

『日本語の歴史 7』でも言う通り、[私たちは、判断をする場合に、かならずある物(主辞)についてなにかをのべる(述辞)。その思考形式はどこへ行っても変わらない](p.58)のです。主辞の記述がなされない場合がある点で、英語などとは大きく違います。

しかし記述されないことと、重要性の問題は別です。大切だからこそ記述しなくてもわかる言語形式の構造になっています。文末の述辞には主体を推定する機能があって、主体が「誰、何、どこ、いつ」なのかがわかる機能を持っているということです。

たとえば新聞を読んでいたのが佐藤さんだと文脈から明らかな場合、「佐藤さんは新聞を読んでいた」と書かずに、「新聞を読んでいた」と書きます。「佐藤さんは」を書かないほうが標準的で、書けばうるさく感じるか、強調のニュアンスが出てくるはずです。

ここには「ある物(主辞)について」を意識する思考形式が反映されています。「佐藤さんは」の方を「新聞を」よりも意識しているのです。通説は両者を「補足語」と一括して、同列に扱っています。思考形式と乖離する構造は、受け入れられるはずないのです。