■私たちが「誰・何・どこ・いつ」を意識する根拠

      

1 脳についての研究

脳について、まだまだ解らないことがたくさんあります。かつての通説が、否定されることもありますから、脳の研究に依存しすぎないようにしないとリスクがあるでしょう。言葉の不自由な人たちとのかかわりから、そんな感じを持っています。

脳の研究をもとに具体的な事例について考えるとき、少なくとも私たち専門家でない人間は、一つの仮説として考えるしかありません。仮説から導き出したものが実感と合わなかったら、ひとまず却下するということです。当然、ぴたっといくこともあります。

そんな経験からすると、脳の研究で役に立つのは、研究者からすると当たり前だと扱われているものです。きわめてシンプルなことが研究結果からわかっている場合、それは別分野のことを考えるときに使える可能性が高いということになります。

     

2 「何か」と「どこか」に関する脳の認識

かつては少し背伸びをして、研究者が一般向けよりもやや専門的な本を読んだりしました。塚原仲晃『脳の可塑性と記憶』はその種の本の中で、一番大切にしています。しかし、この本は例外です。もっと一般向けの本に、ヒントが多くあります。

『脳がわかれば世の中がわかる』は、一般向けの講演録を本にしたものです。こういう本にある一節が別の分野について考えるときに役立ちます。知っている人にとっては当たり前のことでしょう。例えば、澤口俊之が以下のように語っています。

▼脳に損傷を負ったある女性患者がいまして、彼女は「そこにあるものは何か」はわかるのですが、「どこにあるのか」はわからないというのです。
「何か」という形態把握の知能と「どこに」という場所把握の知能が、脳の中で分離していることがこの症例からわかります。 p.26

     

3 対象の把握に必要な基準

「何か」という形態把握と、「どこか」という場所把握をする脳の場所が違うということです。これだけで、「何」と「どこ」の認識は別になるのだとわかります。当たり前と言えば当たり前ですが、それでは、この二つ意外に、どんな把握の系統があるでしょうか。

ここでいう「何」というのは、ずいぶん大きな概念です。もしかしたら、「そこにあるものは何か」だけでなくて、「そこにいるのは誰か」も含んでいるかもしれません。とはいえ私たちは「何」とは別に、「誰」を認識します。だからこそ、言い方が変わります。

何ならば「ある」、誰ならば「いる」と自然に使い分けしています。対象を見るときに、何なのか、誰なのかは前提となる区分だと言えるでしょう。さらに「どこか」という場所把握、空間把握とは別の基準を私たちが持っていることにも気がつきます。

「いつか」という時間把握が不可欠でしょう。空間軸と時間軸は物事を把握するときの、基礎的な客観基準になっています。だから私たちは対象を把握するとき、「誰・何・どこ・いつ」を、知らないうちに意識することになるのでしょう。