■なぜ主語でなくて主体なのか:主語廃止論と単肢言語論
1 両肢言語と単肢言語
日本語に主語などないという主張が従来からなされていました。通説的な益岡隆志・田窪行則『基礎日本語文法』でも、文の要素は「述語・補足語・修飾語・主題」となっています。これらの4つを基準にすると、日本語の基礎構文を作るのは難しくなるでしょう。
河野六郎は「日本語(特質)」(『日本列島の言語』)で、英語のように[主語と述語を常に明示しなければならない言語を、仮に両肢言語とよぶ]一方、[日本語は、主語は必要に応じてしか表わさない。述語中心の単肢言語である](p.98)と書いています。
記述の原則を基準にして主語の存否が決まるという考えです。こうした河野の基準に従うと、日本語の場合、主語が常に記述される要素ではないから、主語がないことになります。日本語文法での主語概念には問題がありましたから、この方がすっきりします。
2 「誰について、誰に語っているかがわかる」前提
日本語の文に主語が記述されないというのは、「主語が省略されている」というのとは違うのです。千野栄一は『言語学への開かれた扉』で、[日本語はあくまでも述語だけの文が本来の姿](p.94)だと書いています。「主語の省略」ではないということです。
▼日本語で「あなたは学校に行きますか」、「はい、私は学校へ行きます」というのは正しい日本語で可能な文ではあるが、「あなたは」と「私は」が強調されている文で、「Do you go to school?」「Yes, I do.」の訳ではない。 p.93 『言語学への開かれた扉』
通常の形は、「学校に行きますか」「はい、行きます」という風になります。主語がないほうが本来の姿だということです。つまり日本語の場合、「誰について、誰に語っているかがわかる」という状況が前提となっている言語だということになります。
3 主体は不可欠な分析要素
伝達の効率から言えば、わかりきったことなら記述する必要がないのです。しかし文脈からわかるはずだったものが、時代とともにわかりにくくなってくることはあります。また語るべき相手が、不特定多数の人になる例も多くなってくることでしょう。
古文を読むとき、「誰が誰に語っているのか」が、わかりにくくて読むのに苦労するはずです。文脈を解釈していくと、誰が誰に語っているのかは判別できるとはいえ、もはや一般の人が、簡単にわかるものではありません。記述に工夫が必要になります。
学術的な文書やビジネス文書であるならば、語るべき相手は不特定多数を想定しておかなくてはなりません。ここでは「私」が「不特定多数」に語ることが原則になります。従来想定していた前提条件が大きく変わりました。よって日本語が変わらざるを得ません。
日本語では叙述部分が文末に置かれます。そして文末の言葉は記述されるのが原則です。文末を基礎にして、その主体が「誰・何・どこ・いつ」であるのかを明確に示すことが不可欠と言えます。つまり、文末の主体を不可欠の分析要素とすべきだということです。