■読み書きのために:必要とされる文の分析装置

       

1 読み間違いの連鎖

前回、三森ゆりか『外国語を身につけるための日本語レッスン』の「第二章 翻訳できる日本語へ」にあった川端康成『雪国』の冒頭文について書きました。主語の概念が違っています。日本語レッスンという言葉のある本でのことですから、まずいことです。

この部分で引用されていたのが、荒木博之『日本語が見えると英語も見える』でした。この人の間違いを三森は踏襲したようです。前に読んだ気がして確認してみました。やはり、おかしいという意味のメモをしていました。以下のように荒木は書いています。

▼川端の原文にあってはトンネルを抜けた主体が明らかにされていない。長いトンネルを抜けたのは主人公のようでもあるし、列車のようでもある。つまり主人公とも、列車ともいえる主客合一した何かがトンネルを抜けたのである。 p.49

      

2 思い入れたっぷりの特殊な解釈

荒木の場合、その先がありました。サイデンステッカーの英訳について、「国境の」が無視されていると指摘したうえで、こう言います。[元来、日本人にとって「境」][境界は「死」と「生」、「穢(エ)」と「清」とが分かれるところである](p.49)。

▼国境の長いトンネルは死と穢(エ)の空間である。そこが「黒」という色によってシンボル化されるとすれば、死と穢を抜けたところに展開する世界は、生と清浄、そして白の世界であった。 pp..49-50

こうした特殊な解釈をする必要はありません。明らかに自分に引き寄せすぎた行き過ぎた読み方です。[元来、日本人にとって]と強引に押し切るのは無理があります。小説の冒頭の文に、思い入れたっぷりの意味を付加するのはノイズになるだけでした。

      

3 文の分析装置が必要

文に即して、その文の意味を読み取っていく必要があります。日本語の取扱いが問題です。清水幾太郎は『論文の書き方』で[文章を書くときは、日本語も外国語として取り扱わねばいけない](p.82)と言いました。その点で、外国語の勉強は役に立つのです。

清水は[知的散文としての論文](p.83)を対象としていますから、小説との違いはあります。それでも、妙な意味づけを付加することなく、まずは文としての構造を正確に読み取ることが必要でしょう。日本語を外国語のように客観的に分析できないと困ります。

荒木の解釈を読んで、(1)文の主語が明確に意識されていないこと、(2)文構造をあれこれ言う前に、妙な意味づけをしていること…に、いささか驚きました。まさになすべきことは逆です。文末の主体を意識すること、文構造を読み取ることが必要になります。

清水が外国語を学んだ結果、[数式を組み立てるようなつもりで日本語の文章を書くこと](p.83)になり、[骨格の修行]になったのでした。書くのに先立って、読むときにも文の分析が必要になります。分析装置たる文法が必要だと改めて思いました。