■明確な日本語の条件:現在形と過去形

1 「この本はおもしろい」の過去形

「この本はおもしろい」という例文があったとします。日本語としておかしくはありません。正しい文です。そして、この文は現在形だと考えられます。では過去形はどうなるでしょうか。「この本はおもしろかった」が過去形だと、ほぼすべての人が答えます。

現在形が「おもしろい」なら、過去形は「おもしろかった」で何がおかしいの…というのが、普通の感覚でしょう。ヘンなこと気にしちゃダメだと言う人もいましたが、やはりおかしく感じるのです。二つの文の主語(主役となる語句)はどうでしょうか。

「この本はおもしろい」という例文の主語(主役になる語句)は「この本」になります。この本に関して、おもしろいかつまらないかと言えば、おもしろいのです。一方、「この本はおもしろかった」の場合、おもしろかったのは本ではなくて、読んだ人でしょう。

「この本はおもしろい」の主語は「この本」であり、「この本はおもしろかった」の主語は「私」でしょう。「私はこの本がおもしろかった」という文の「私は」という語句が記述されずに欠落して、「この本」のほうに助詞「は」が接続した形だと考えられます。

 

2 現在形と過去形の対比

「この本はおもしろかった」という文の意味は、「私はこの本がおもしろかった」だとするのが自然でしょう。そうすると「私はリンゴが好きでした」と同類の「好き嫌い・良い悪い」を言うときの「主役は + ~が + どんなだ(好悪)」の構文なのでしょうか。

どうも気になるのは、この例文が明確な言い方ではないと感じる点です。「私はこの本がおもしろいと思った」ならば、ピタッと来ます。そして、現在形は何かといえば、「私はこの本がおもしろいと思う」でしょう。文末の「思った」と「思う」が反映されます。

もう一つの例文「この本はおもしろい」の場合も、「この本」と「おもしろい」の対応関係が少しずれている気がします。花がきれいというのと、ニュアンスが違うようです。「おもしろい」という感覚が人間的すぎます。どこかピタッとしていません。

「この本はおもしろい本です」ならば、明確な形式の文です。そして「この本はおもしろい本でした」が過去形といえるでしょう。「本です」と「本でした」の違いで、現在形と過去形が作られます。「この本はおもしろい」は、やや口語的な感じのする文です。

 

3 重要な対応関係:文末とその主役

「この本はおもしろい」という例文は、おそらく「こんにゃくは太らない」と同じ系統の文だろうと思います。文末に置かれたはずの属性を省略した文でしょう。「こんにゃくは太らない食べ物です」という文の「食べ物です」という属性が抜け落ちた形式です。

「こんにゃくは太らない」という文は日本語として間違っていません。しかし、明確性の点では気になります。「太らない」のは食べた人です。「こんにゃく」自体が太ったりはしません。「こんにゃく」と「太らない」に対応関係があるとは言えないでしょう。

明確な言い方というのは、文末とそれに対応した主役の語句がはっきりしている文だ…と言いたいのです。日本語の論理性の基礎を考える場合、文末とそれに対応した主役の存在が重要になります。この対応関係が明確であることが論理の基礎になるということです。

対応関係が明確な例文である「この本はおもしろい本です(本でした)」や、「私はこの本がおもしろいと思う(思った)」の場合、現在形と過去形が文末の変形だけで成立します。これらは、伝わりやすい文の形式を示唆している…と思えるのです。

【追記】
文末の語句を述語と呼ぶのには争いがなさそうですが、主語の概念には争いがあります。文章の苦手な学生に聞いてみると、文末とその主役のほうがわかるとのこと。文末の主役を主語と呼ぶのなら、「主役・文末」=「主語・述語」になります。

 

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