■外国人に日本語を教えてきた人の発想:『日本のことばとこころ』

      

1 ことばの強弱感

山下英雄の『日本のことばとこころ』を読みました。外国人に日本語を教えてきた人だそうです。例えば、こんな質問があります…と紹介されています。「『は』と『が』と、どっちが強いですか。」という質問です(p.287)。なかなか興味深いものでしょう。

「強い」というのは、たしかに[曲者]でしょう。山下は[「どっちが強いか」という疑問は、外国語を学ぶ人の陥りやすい共通の誤りかも知れません]と書いています。この場合、[「どうちがうのか」と問うべき]だというのが山下の考えです(p.287)。

しかしこうした強弱の感覚を持つのは、外国語を学ぶ人に限りません。「私は酒が飲みたい」と「私は酒を飲みたい」の違いについて、「私は酒が飲みたい」の方が、酒を強調していると答える日本人はかなりの割合でいます。言葉の強弱感は否定できません。

       

2 「は」と「が」の違いの説明

では、「は」と「が」はどう違うのでしょうか。[「が」による表現は、写真に似ています][主語と述語との関係は、文として表現される以前にすでに話し手の脳裏で完成しています](p.119)とのこと。「一万円札が、風に舞っている」という例文を示します。

「一万円札が」と言うときには、すでに[「風に舞っている」という結びまで頭の中にできあがって]いるということでした。これに対して、「一万円札は」という場合、[つぎに言うべきことばを選択する間合いがあります]ということになります(p.119)。

しかし「あなた、一万円はどこに置いたの?」と聞かれて、「私は知りません」と答える場合、「私は」のあとに[ことばを選択する間合い]は生じません。[「は」による表現は、主語と述語との間にちょっと意識の切れ目が入る](p.119)とは言えないのです。

     

3 日本人向けとは違う発想

「太郎は…英語が分かる」「船便は…時間がかかる」「彼女は…子供ができた」「社長は…立場が異なる」「友達は…宝籤が当たった」と山下は例文を並べます。そして「は…」だけを主語だと仮定して、「が」はどういう性格を備えているか、を問います。

山下の考えは、[「が」は、見方によっては主語でもあり、客語に近い対象語でもあるという、二重性を帯びている](p.146)というものでした。詰めの甘さを感じます。例文が同じ構造だという前提なのでしょう。しかし、例文の構造には違いがありそうです。

(1)「太郎は…(英語が)分かる」、(2)「(船便では)…時間がかかる」、(3)「(彼女に)…子供ができた」、(4)「(社長の場合)…立場が異なる」、(5)「(友達の)…宝籤が当たった」のニュアンスが感じ取れるでしょう。(1)と(2)(3)(4)(5)では文構造が違います。

文末の主体を見れば、「分かる」のは誰か?【太郎】、「かかる」のは何か?【時間】 「できた」のは何か?【子供】、「異なる」のは何か?【立場】、「当たった」のは何か?【宝籤】…となります。日本人の日本語運用の発想との違いを感じる本でした。