■日本語の運用から考える:主体と文末との関係

    

1 日本語には文法がないとの指摘

日本語について、英語を学んだうえで日本語を学んだ留学生から、日本語には文法がないですねと言われたことがとても印象に残っています。英語なら、英文法があるのです。当然、日本語にも日本語文法があります。しかしそれがきちんと説明されていません。

文法嫌いを表明する人たちは、読み書きに役立たない文法とのつき合いを拒否しています。日本語には文のルールがあるからこそ、多くの人が読み書きできているのです。実質的な文法がない言語など、ありません。しかし使える文法書がないのです。

厳しい評価ではあります。形容動詞や副詞という品詞がピタっといってないことは確かです。一般用語からもう一度再構築を考えてみたいと思うようになりました。日本語の運用がどうなされているのか、それを反映した用語を使うことが必要でしょう。

      

2 日本語から「主語」が消えた

通説の日本語文法書から「主語」がなくなり、中核は「主題」となっています。もはや「主語-述語」で考えることがないということです。欧米語の主語と日本語の主語の概念が違うことは確かですし、同様に述語の概念も違います。しかし同一性もあるのです。

本来の主語概念は主体を表すものでした。何の主体であるかと言えば、述語の主体です。それが主語でした。日本語の場合、こうした主語と述語の結びつきの関係が欧米言語と違っていることは間違いありません。主語は記述されないこともあります。

それでは、記述されないということは、省略されているということでしょうか。どうやら違います。日本語では、主語の記述された形式が標準スタイルで、それが省略されているとは言えません。記述されないほうが自然な場合があります。面倒なことです。

      

3 「文末の主体」を感じ取る

日本語を運用する側の視点で考えてみると、どうでしょうか。ひとまずゆっくり、以下の文章を読んでみてください。「ノーベル賞をとったというので、まだ読んだことのなかった作家を読んで面白かったことといえば、エリアス・カネッティの『眩暈』である」。

この例文を読んで、何かが違うと感じる人がいます。しかしどうすればよいのかとお聞きしてみると、案外直せません。このとき文末の主体を意識する必要があります。文末の「エリアス・カネッティの『眩暈』である」の主体は「面白かったこと」でしょう。

「面白かったこと」⇔「エリアス・カネッティの『眩暈』である」の対応になっています。おそらく自然なのは「面白かったもの」でしょう。「こと」でなくて「もの」だと言われれば、わかるのです。知らずに感じ取っていたということになります。

主体が記述される場合でも記述されない場合でも、日本語を読むときには、文末の主体を感じ取っているのです。主体が誰でもわかる場合、文末の主体は記述されません。わかりきったことを言われるとうるさく感じますから、記述されないほうが標準なのです。