■ズレの発見:文章と石膏デッサン

     

1 文章が書けるということ

文章が書けるとは、どういうことでしょうか。いきなりピタっといく文章が書けることは素晴らしいことですが、そのことが「文章が書ける」ということに直結しないように思います。推敲して、よい文章にできるのなら、その人は文章が書ける人です。

自分で自分の文章が適切に修正できる人なら、文章が書ける人だといってよいでしょう。この考えは二つの要件から成り立っています。第一に、ヘンだと思うところ、ズレているところが発見できること、第二に、該当箇所を適切なものに修正できることです。

こう考えると、いろいろ思いつくことになります。文章に限らず使えるものだと気がつくことでしょう。「おかしい、ズレてる、ヘンだ」を発見する方法はどういうものか、そこが適切に直せるようになる方法はどんなものか、この点が問われることになります。

     

2 石膏デッサンの意義

例えば絵の場合、しばしばデッサンを描くことが基礎的な訓練として採用されてきました。美大の受験生が石膏デッサンを描いています。人体の石膏像は、表情も変わりませんし、ポーズの途中で揺れたりしません。動かない人体が、まさに物体になっています。

描いてみると、そう簡単にはいきません。正確に描けていなければ、すぐにおかしいことに気がつきます。石膏の顔を描いたデッサンを見れば、違いにすぐ気がつくはずです。似てないとか、それ以前にいかにも不自然で不格好だったりします。

おそらく石膏デッサン、それも人体の石膏を描く意味・効能として、自分で「おかしい、ズレてる、ヘンだ」が発見できるという点があげられることでしょう。まずは自分の描いたものがおかしいと気がつくことが大切です。それを修正することに先立ちます。

     

3 適切さの判定方法

ズレの発見が物事の基礎になるはずです。自分で「おかしい、ズレてる、ヘンだ」が発見できる方法が、基礎訓練として優れているとみることもできます。ズレているのがわかるならば、すぐに適切にならなくても、自分なりに直してみればよいはずです。

自分で自分の作り出したものがズレていると気がつくのであれば、自分の修正が十分に適切なものであったかどうかも評価できます。したがって、上手くすれば、時間をかけて何度も修正していくうちに、自分で適切さを探りあてることができるのです。

自分でズレの評価ができる領域ならば、指導者の評価までできます。その指導者についていけばよいのかどうか、指導が適切かどうか、自分の作った成果物の出来具合に基づいて判断することが可能になるでしょう。ズレが発見できることは大切です。

当然ここでは「自分にとって」という条件つきになります。自分にとってよい指導者を見つけ、適切な訓練法が選択できることが大切です。訓練法を考えるときに、この分野における石膏デッサンにあたるものは何かと、意識して考えることが重要になるでしょう。

     

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