■法治と法の支配:周回遅れの「法治」-産経新聞「主張」をめぐって-

      

1 「法治中国」という言葉

産経新聞の10月24日の「主張 習体制が3期目に 独裁暴発の懸念が増した 台湾併?の野心に備えを急げ」に、「法治」と「法の支配」を対比した一節がありました。ここで指摘されていることは重要なことです。以下のように記されています。

▼注意すべきは、中国式発展モデルが中国共産党の指導を前提としている点だ。例えば政治報告で強調した「法治中国の建設推進」である。ここでいう法治は中国共産党が指導する法治であり、権力が法に拘束される民主主義国の「法の支配」とは概念が異なる。

「法治主義」と「法の支配」は本来別の概念です。しかし戦後民主化の進んだ先進国では同じ意味になったとみなしてよい概念になりました。その結果、法治主義と法の支配の違いが逆に不明確になってしまったかもしれません。両者の違いが重要になります。

産経の「主張」で言う通り、「権力が法に拘束される民主主義国」というのは「法の支配」の原則です。ここには「民主主義国」とありますから、そこで民主主義の確保ができているという含意があるでしょう。しかし本来の概念は、これでは不十分なものです。

      

2 「法治」概念のパロディ

「権力が法に拘束される」だけならば、法治主義でも同じなのです。中国共産党の体制はあまりにも民主主義とかけ離れた専制主義であるために、そこに「法治」という言葉が出てくると、概念のパロディのような、冗談のようなニュアンスがあります。

法治主義の問題点は、権力が法に拘束されるという点に重点があるわけではありません。形式的に正当な手続きで成立した法に権力が支配される形を取りながら、人権侵害をなすことがある点が重要です。手続きが正当でも、法の内容が妥当でなくてはなりません。

法の内容が民主主義・自由主義にかなうものでなくては、権力が法に拘束されたとしても、民主的で自由主義的な体制にならないのです。法の内容を問わずに、形式的に権力が法に拘束されていることを法治主義と言っていました。法の支配とは違います。

       

3 ナチス体制下の法治主義

芦部信喜は『憲法』で「法の支配」と「法治主義」の違いについて、明確に記していました。[「法の支配」に言う「法」は、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む観念であり、ひいては人権の観念とも固く結びつく]ということです。

これに対して[「法治国家」に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることができる容器のような)形式的な法律にすぎな]いのです。法の内容が問われています。その内容について、審査ができる体制が必要です。

▼戦後のドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるにいたった。 芦部信喜『憲法』

ナチス体制下でも、選挙を行い、議会で法律を制定していましたから、形式的には法治主義の国家だったのです。現在の中国共産党の場合、それよりもさらに周回遅れの体制ですから、法治という言葉を使うのさえ無理があります。これが憲法の基本的な考え方です。