■論文・レポートの「質」:梅棹忠夫『情報管理論』から

    

1 論文の質を決める内容と形式

いまから50年ほど前に梅棹忠夫が「学術論文の質の向上のために」という文章を書いています。1972年2月16日に講習会で話したものを原稿にしたものでした。『情報管理論』の巻頭にあります。50年経った今でも、たぶん状況は劇的には変わっていません。

学術論文の量は多くなったが、質は低いままだということです。[欠陥論文とでもいわなければならないものも、すくなからずふくまれている]とのこと。ここでいう「質」とは[論文の「内容」の学術的価値がどうこうということではない](p.3)のです。

[論文の質というときには、内容とともに、その形式が問題にされているのである]から[形式のととのっていない論文]では失格でしょう。ところが[信じられないほどお粗末なものが][幼稚で拙劣なものが少なからず発見される](p.4)のです。

学術論文に関しては、現状がどうなのかわかりません。ビジネス人のリーダーたちの場合なら、これがかなり当てはまります。執筆者たちは[内容さえよければ形式などどうでもいいではないか、とかんがえているひとがすくなくない]という考えが消えていません。

     

2 論理性とわかりやすい日本語

具体的によろしくない点を梅棹は上げています。[第一にあげなければならないのは、論理的でない、ということだろう]とのこと。[文章の、叙述の、非論理性をいっている]のです(p.7)。これでは読んでも、わからないでしょう。問題は「叙述」です。

さらに[日本語の拙劣さ]があげられます。[日本語の作文のトレーニングをほとんど受けないままで大学を卒業する、というケースもそんざいするようだ](p.8)というのですが、これはいまでも続いているはずです。これでは[わかりやすい文章]は書けません。

わかりやすくと言うと、[「である」調を「です・ます」調にかきなおすことかと誤解したりする]という指摘など、現在でもありがちな話です。[わかりやすくするということは、一言でいえば、論理的にかくということなのだ](p.14)ということになります。

      

3 論文を書くのに適した日本語が必要

[文科系の論文はながい]上、しばしば[無形式](p.15)で、[著者の独自の見解は何なのかがよくわからない場合がすくなくない。結論も明示されていないことさえしばしばある](p.16)と梅棹は指摘します。理科系の論文ならば、[標準的な形式]があります。

▼第一に、問題設定がある。第二に、その問題をとくために著者がとった方法がのべられる。第三に、その方法をじっさいに適用してみた結果がつづく。第四に、その結果についての考察がおかれる。五番目は結論である。そして賛辞が来る。その後は引用文献のリストである。 p.15 『情報管理論』

[日本の文科系の学問は、国際的な競争の場に身をさらしていないから、のんきなことが通用する](p.17)のでしょう。[迅速さ、明晰さ、簡潔さ]が必要です。ビジネス文書も同様でしょう。ただ[日本語そのものに内在する問題点](p.21)もあるかもしれません。

[学術論文をかくのに適した、平明で、簡潔で、論理的な日本語の創造と育成につとめなければなるまい](p.21)と梅棹は言います。そうした日本語が成熟したと、司馬遼太郎は指摘しました【*】。日本語文法の標準化の遅れが問題だと言うべきでしょう。

【*】「共通の日本語」「文章日本語」の成立時期:司馬遼太郎の見解

      

This entry was posted in 日本語. Bookmark the permalink.