■王道を行く論証:吉川幸次郎の貝塚茂樹『論語』批判

    

1 忘れがたい吉川の論法

吉川幸次郎の『論語』注釈書は、日本での定番になりました。吉川論語とともに、もう一つの定番といってよい注釈書が貝塚茂樹の『論語』です。桑原武夫は自分の『論語』解説の中で、吉川・貝塚の二冊を基本に据えて読んで行ったと記していました。

吉川は貝塚の論語について批判しています。この批判は、私には王道を行くものだと思われました。吉川幸次郎全集第5巻にある<貝塚茂樹氏「孔子・孟子」>において、吉川は[学問のためには、友人の書物にも、批判を加えねばならない]と書きだしています。

問題は、その批判の論法です。論語の本文をどう読むべきかということについて、どちらが正しいなどと、私が評価することはできません。貝塚論語に対しての専門家の評価は現在も高いままです。しかし吉川の論法を一度読んでしまうと、忘れがたくなります。

     

2 基礎となる文体とリズム

論語「学而」篇のはじめの章「学而時習之、不亦説乎」を貝塚は[“学んで時(ココ)に習う、亦説(ヨロコ)ばしからずや”と読]みました。[孔子時代の古典教科書の『詩経』『書経』などでは、「時(コ)れ遇(ユ)く」と]読み、[助字として用いられていた]からです。

吉川は『詩経』『書経』で、「時」が[しばしば「是」の意味に用いられている]ことを確認しています。そのこと自体、貝塚の言う通りなのです。だからといって、こうした解釈を採るわけにいかないと、吉川は言います。どういうことでしょうか。

▼根本的な問題は、それは「書経」ないしは「詩経」の文例のなかの「時」の時であることである。「書経」の文体と「論語」の文体とは、根本的にことなる。リズムを根本的にことにする。彼を引いて此れに施すことはできない。 p.126 吉川幸次郎全集第5巻

吉川は『論語』に現れる「時」に注目します。[民を使うに時を以ってす]「時ならざるは食らわず」「時にして然る後に言う」というように、[みなしかるべき時間の意であ]る以上、「学而時習之も[それと同じ「時」であってよい]と論じているのです。

     

3 文章のリズムから行う論証

吉川は[さらに根本的な問題として]発音とリズムに注目します。[「学而時習之」の「時」が、助字であるとするならば]、[「論語」の文章のリズムでない]ことになります。[「書経」のリズムで、「論語」を推すことはできない]のです。

吉川の指摘は、論語の解釈に限らないと思います。[文章を読むには、何よりもその内的条件、つまりリズムから出発しなければならない]という解釈基準は簡単に否定できそうにありません。『論語』の中に現れた言葉の使い方が『論語』のリズムを作っています。

文脈を無視した解釈が無理であるのは当然のことですが、その前に、リズムという観点が必要だということです。貝塚が「有朋自遠方来」を「有朋(トモ)、遠きより方(ナラ)び来たる」と読むのも、[原文のリズムから行って、完全に妥当でない]と吉川は言います。

独立したセンテンスとして成立しているものを解釈するときに、文脈から離してしまったり、文章全体のリズムを無視して読んでも、適切な解釈にならないということです。吉川の論証の仕方は王道を行くものでしょう。解釈、論証の指針とすべきものだと思います。

    

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