1 芸術的ではない知的散文
正確な記述のできる文章が、日本語には必要になってきています。それができることが「日本語上達の術」であると大野晋は言いました。文学用の文章よりも、学術的な論文を書くときにも使える文章、ビジネスでも使える文章が主な対象になります。
文学的な文章中心の「文章読本」を読んで、文章が上達すると考える人は、もはやほとんどいなくなったことでしょう。対象とする文章が違う以上、別の指針が必要となります。幸いなことに日本では、すでにそれに応える本が1959年に出版されていました。
清水幾太郎の『論文の書き方』のことです。清水が対象とした文章は「知的散文」というべき[内容及び形式が知的であるような文章]であり、それを「論文」と呼びました。[芸術的効果を狙ったもの、即ち、小説や随筆とは区別される]文章のことです。
2 日本語を外国語と扱うために
清水は『論文の書き方』の第4章で「日本語を外国語として取り扱おう」と主張しています。[私たちは日本語に慣れ、日本語というものを意識していない]のですが、[文章を書くと言う段になると、日本語をはっきり客体として意識しなければ]いけません。
文章を明確で論理的なものにするには、それに必要な要素を盛り込んだ上で文章にする必要があります。日本語を道具として使いこなさなくてはいけません。[日本語を自分の外の客体として意識せねば、これを道具として文章を書くことは出来ない]のです。
外の客体として日本語を取り扱うために、[日本語を外国語として取り扱わなければいけない]と清水は言います。実際のところ[外国語の勉強を]することによって、[日本語を一種の外国語のように取り扱う地点に立つことが出来る]とまで言うのです。
3 数式を解くように分析することが必要
清水は外国語を読むとき、[辞典と文法とを頼りにして、私は全く理詰めの方法で外国語の文章を読んで行かねばならぬ。事実、私はこのような方法で読んで来た]と言います。これは[外国語の文章という数式を解く努力を重ねて]来たのと変わりません。
その結果、清水は[数式を組み立てるようなつもりで日本語の文章を書くことになってしまった]ということです。そして[知的散文としての論文である以上は、数式が骨格にならねばならない]と記しています。まさに文章読本とは全く違うプローチです。
▼フランスでは、すでに小学校で文章の文法的分析を教えている。私の聞き違いでないなら、この文法的分析は「フランス語」という科目の主要な内容になっている。日本でも、日本語を「国語」として自明のもののように取扱わず、「日本語」として客観化し意識化するのが本当だと思う。そして、そういう名称の問題と一緒に、日本文の文法的分析が子供の頃から行われる必要がある。 Ⅳ 「日本語を外国語として取り扱おう」 :清水幾太郎『論文の書き方』
しかし文法的分析をするための日本語文法がないので、清水の場合、[一語一語からなる文章の組み立てというもの、つまり、定義および文法]を[外国書を読むことを通じて知り]、[日本語で文章を書く「手仕事のルール」を学]ぶことになったのでした。