■日本語のルール:記述なしでも理解できる理由

      

1 体言・用言の判別法

日本語の文章を書くときに、私たちは品詞を意識していません。品詞分解など、ばかげたことです。品詞など分からなくても、何ら問題なく読み書きできます。問題は、体言と用言の区分の方です。活用のある言葉なのか、活用のない言葉なのかが問題になります。

品詞がすぐにわかる場合でも、品詞が大切なのではありません。たとえば「動く」ならば、動詞だとすぐにわかります。活用形のある用言です。しかし「動き」の場合、用言なのか体言なのか、それだけではわかりません。私たちは、どう判別しているでしょうか。

実際のところ、私たちは戸惑うことなく、文脈の中で「動き」という言葉の体言・用言の判別をしています。たいてい、文末の「です・ます・である(だ)」がどうつくかを見ているはずです。「動き・ます」なら用言、「動き・です」なら体言になります。

      

2 どんな系統の語句がつくのかが問題

「動き」という言葉だけでは、体言なのか用言なのかはわかりません。しかし、うしろにつく語句によって、活用の有無が判別できますから、何ら困らないということです。品詞分解をする必要はありません。どんな系統の語句がつくのかが問題ということです。

ただし、あとにつくはずの語句が記述されない場合がありますから、その点の注意が必要になります。例えば、「きれいはきたない、きたないはきれい」という言い方は、そう違和感もなく受け入れられます。読めば、すぐに意味が分かることでしょう。

「きれい」「きたない」は本来、「きれいなもの/きれいなこと」「きたないもの/きたないこと」になるのでしょう。ここでは「もの/こと」が記述されない形になっています。日本語の場合、記述されなくても、わかると判断されれば、記述されません。

      

3 ルールがあるから記述なしでもわかる

ここで問題になるのは、記述されなくても正確に意味が取れるかどうかです。正確な意味が取れるなら、文の効率からしても、あえて記述する必要はありません。誰に向けた文章であるかによって、記述するか否かの判断も変わってくるでしょう。

記述されないのにわかるのは、本来の形式が決まっているからです。言わなくても、書かなくてもわかるくらいの形ができています。先に上げた「です・ます・である」もそれにあたります。文末の主体も、文末から推定できますから、しばしば記述が不要です。

あるいはすっきりした形にするために、一部の言葉を記述しない場合も、当然出てきます。日本語がわかるのなら、「あのお寿司屋さんはおいしい」という例文の意味はわかるでしょう。「おいしい」の主体は、「あのお寿司屋さんのお寿司」に違いありません。

文末が「おいしい」ですから、「あのお寿司屋さん」が提示されていれば、そこの「お寿司」だとわかります。文末から主体を推定できる機能がありますから、ここでは記述する必要がありません。日本語には、折り目正しいルールがあるということになります。