■『論語』が体系化されていない理由:陳舜臣『儒教三千年』から

      

1 君子とはリーダーとなるべき人

陳舜臣の『儒教三千年』はよい本です。[NHK教育テレビで放映された][私の「講義」]に[手を入れてみると、元の形からずいぶんはなれたものになっていったが、けっきょくペンの流れに従うことにした](p.249:単行本)とのこと。

[儒は「君子」とは何かということを説いた思想体系と考えられないことはありません](p.182)。そうなると「君子」とはどんな人かが問題になります。[伊藤仁斎は君子を為政者、小人は他人に影響を及ぼすことのできない「被統治者」とし]ました(p.175)。

安井息軒は[天下を善くしようとするのが君子の儒であり、自分の身を一人善くしようとするのが小人の儒](p.176)と述べたそうです。俗な言い方をすれば、君子というのはリーダーとなるべき人と言っても、そう大きく違っていないでしょう。

      

2 中国的そのものの論じ方

『論語』の場合、[理想の統治者として「君子」が考えられていた](p.183)ようです。ただ、[『論語』には、「君子」ということばは、きわめて頻繁に出て]いるにもかかわらず、[あまり体系もなく出てくる]ので[歯痒いおもいが]します(p.183)。

[近代的思考になれた私たちは、「君子」が一章を設けて、君子を徹底的に論じてほしいという気になります](p.183)。ところが[『論語』のやり方こそ、中国的そのものといえるとおもいます。それは中国の芸術にも通じる考え方](p.184)だと陳は言います。

[オーソドックスな中国の絵画には、陰影法も遠近法もありません。なぜなら一つの対象を、決まった視点から見ないからです]。巻物なら[人物はまず左手にあらわれ、次第に自分の正面にまいります][正面に来た人物は、やがて右の方に去ります](p.184)。

     

3 魅力的な講義スタイル

陳の説明を聞いて、『論語』の書き方が[中国的そのもの]なのがわかりました。こんなときに君子はどうだ、こんな場合、君子はどうだと言うばかりで、全体を体系化していないのです。たしかに時間と空間を定めて、ある断面だけを見せても全体にはなりません。

しかし分かりやすいのは、ある状態で対象を捉えることです。少なくとも私たちは、それに慣れています。ある瞬間を切り取って、その適切さを問題にするのです。このとき、適切なある瞬間が複数あるならば、私たちはとたんに分かり始めます。

陳舜臣は『儒教三千年』で、『論語』のあれこれを上手にピックアップして、説明を加えていきます。[儒の説き方、少なくとも孔子の説き方は、具体的経験主義というべきでしょう。それぞれのケースに当てはめて説くのです](p.190)と、見事にまとめました。

NHK側で講義形式を作っていたことも幸いしています。[たいていレンズに向かっての一人しゃべり][ときどき担当の人が質問し、それに答え]て、[あとで適当に編集](p.249)したのです。自由な書き足しによって、魅力的なスタイルが出来上がりました。

    

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