1 後ろに重心のある言語
河野六郎は「日本語(特質)」(『日本列島の言語』)で、日本語をアルタイ型言語の一つとしています。その一番の特徴は、重要な語または単位がつねに後に置かれることだということでした。重要な語・単位を修飾する言葉は、それよりも前に置かれているのです。
たとえば「父の大臣(オトド)」の場合、実質は「父」=「大臣」と考えることが自然でしょう。本来ならば同格といってもおかしくないところです。しかし、この形式をとるとき「父」は従属する言葉となります。「父」<「大臣」という扱いになるのです。
このことはセンテンスの構造にも表れます。大野晋も『日本語練習帳』で指摘していました。[「意味」の上からセンテンスを見ると][そのセンテンスの肯定、推定(未来)、回想(過去)、疑問など一番重要な判断は日本語では文末で決定されます](p.69)。
2 日本語は「単肢言語」
日本語が後ろに重心のある言語だとしたら、文末が大切になるのは自然です。わかりあっている者どうしならば、文末だけでも話はほとんど通じます。「行ったの」「やめておいたよ」だけでも十分でしょう。誰のことか、どこのことか、前提が明らかだからです。
このように文末に重点が置かれる一方で、主体は必要に応じてしか記述されない言語のことを「単肢言語」と河野六郎は呼びました。文末の主体を記述しないのは主体の省略ではなくて、主体の記述をしない方が標準スタイルなのだということになります。
合理的に考えるならば、文脈の中で主体が了解されている場合に、わざわざ記述する必要はないのです。わかりきった主体が何度となく記述されたなら、私たちはかえってうるさく感じます。文章を添削する側の人は、おそらくそれらをカットすることでしょう。
3 主体がわかるのが必要条件
インド・ヨーロッパ語の場合、主語と述語動詞が人称・数を照応させています。センテンス内に、主語と述語動詞をつねに明示するルールがあるのです。このように主語(主体)と述語動詞の記述が不可欠な言語のことを、両肢言語と河野は呼びました。
両肢言語の場合、主体を記述しますから、主体が不明ということはありません。日本語の場合、主体の記述は必要ある場合に限られます。(1)文脈の中で主体が了解されていない場合、(2)主体が了解されていても、あえて記述して強調する場合の2パターンです。
文末の主体がわかっている場合、記述しようがしまいが主体は了解されています。一方、文末の主体がわからなければ、主体は記述されなくてはならないのです。つまり適切な日本語の文である限り、文末の主体がわからないケースはないということになります。
読む側にセンテンスの主体が伝わること、これでわからなかったらおかしいという文章であることが、適切な文章の不可欠な要件と言ってもよいでしょう。日本語の場合、主体を記述しないことがありますが、主体の概念が不要になったわけではないということです。