■文末の主体を見出すこと:三上章『日本語の構文』を読む(その2)

     

1 標準的な一般用語である「主体」

主語という言葉が、一般に知られている言葉になったにもかかわらず、その実態がどんな概念であるかがわからないということは問題です。この点、三上章の受け取り方を垣間見ることが出来る文章が、『日本語の構文』中の引用部分にあります。

▼動詞の終止形は、むしろ未来に対する主体の一つの態度を表現する形である。「生あるものは必ず滅する」などは一般的な心理の表現と言われるが終止形として表す意味は、断定的な予言に他ならない。(亀井孝『国語学辞典』)  P.18 『日本語の構文』

亀井孝の使っている[未来に対する主体の一つの態度]という言い方に対して、三上は[あるいは次のような見方もできよう](P.18『日本語の構文』)と素直に反応しています。「主体」という言葉は、標準的な一般用語として使える言葉です。

「主体」が文法用語でないことが有利に働きます。三上も受け入れたように、一般的な用法で、伝えたいことが伝わる用語です。定義が錯綜して、無駄なエネルギーを使う用語は適切ではありません。清水が主語としている概念は、文末の主体と言ってよいでしょう。

     

2 6つの例文の主体

三上があげた6つの例文には、文末の主体が記述されていません。それが主語なし文だということです。こういう文であっても、文末の主体が「ハッキリして」いれば問題ありません。少なくとも、清水幾太郎はそういう意味で書いていたはずです。

もう一度、6つの例文をあげておきます。これらのセンテンスの主体が「ハッキリしている」かどうかを確認しましょう。ここだけを抜き出すとわからないのですが、前後の文脈を見ると、さすがに清水幾太郎なのです。ハッキリしています。以下をご覧ください。

①しかし、後になって、自分が彼[A.Comte]に加えた批判というものを読み返してみると、どうも、批判というよりは、犬の遠吠えに似たもので、オーギュスト・コントの傍らへは近寄らずに、遠くのほうから勝手なことを喚いているだけである。
⇒【私の書いたものは】【勝手なことを喚いているだけである】

②犬の遠吠えのような批判では、文章の勉強にはならない。
⇒【書くことが】【文章の勉強にはならない】

③まして、内容の勉強にはならない。
⇒【書くことが】【内容の勉強にはならない】

④これを足場に確保しておいて、それから、この時事的な話題の分析や批判を通して、次第にアクチュアルでない本題へ入って行くのである。
⇒【私は】【入って行くのである】

⑤社交ではなくて、認識である。
⇒【文章は】【認識である】

⑥どうにでも受け取れるような曖昧な表現は避けねばならない。
⇒【われわれは】【避けねばならない】

      

3 【「Aは/が」+「Bになる」】の形式

6つの文のうち、②と③は同じ主体だとわかります。②③の主体がどうなるのか、少しわかりにくいかもしれません。文末が「~になる/ならない」の場合、【「Aは/が」+「Bになる」】の形を取るのです。このとき、AとBには一定の関係が成立します。

「A」になるのは、「誰・何・どこ・いつ」を表す言葉であり、「B」になるのは、Aで示された言葉に対応する言葉です。Aが「誰」なら、Bは「どんな人・立場」になります。Aが「何」なら、Bは「どんなモノ・コト」でなくてはなりません。

主体+「【文章の勉強】にはならない」という形式になるということです。「文章の勉強」はコトに該当しますから、主体は「何」ななるでしょう。②の場合、モノでなくてコトですから「~すること」になります。②の主体は、「書くこと」になるのです。

「犬の遠吠えのような批判では、【書くことが】文章の勉強にはならない」となります。同様に③「まして、内容の勉強にはならない」も、「まして、【書くことが】内容の勉強にはならない」です。日本語の形式から、こう考えることができます。

     

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