■三上章のアプローチ:『日本語の構文』を読む(その1)

     

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1 分析的なアプローチ

『日本語の構文』の巻頭を見ると、「動詞のカテゴリー」という項目が置かれていて、ヴォイス・アスペクト・テンス・ムードで動詞の複合体を分析しています。「任せられておられませんでしたか」を例にして、以下のように分析的に示しているのです。

▼任せ -rare -te -or -are -mas -en -desi -ta -ra
原動詞・ヴォイス・アスペクト・尊敬・スタイル・否定・テンス・ムード

最近の本では、ここまでは書かれていないのかもしれません。実際、ここまでやると、いかに無駄なことかわかってしまいます。こうやって分析されたところで、読み書きには役に立ちません。ここまでやってくれると、かえってそれがよくわかるでしょう。

小西甚一が『古文の読解』(改訂版1981年)で[文法でいちばん大切でないのが、品詞分解](p.239)と書いていたことが思い出されます。三上の『日本語の構文』は、読み書きのための文法とは違うアプローチのものであると感じさせるのです。

現在の通説的な見解が、三上のアプローチの延長線上にあるらしいことは、入門書的な本を見れば感じとれます。これとは違うアプローチでないと、一般人は文法の必要性を感じないはずです。読み書きに役立たない文法では、何のための文法なのかと思います。

      

2 通説的見解の源流

『日本語の構文』の「Ⅳ 余論」に「主語は問題がありますので……」という項目が、やはりと言うべきかあるのです。「主語」と書かれていると、すぐに反応してしまうのでしょうか。当時著名だったらしい平井昌夫の文章に対して、痛烈な批判を加えています。

わきの甘い文章でしたので、三上は我慢がならなかったのかもしれません。[軽薄なわかったかぶりである]、平井の文章にある[ようなことを平気で書けるのなら、なまじっか“問題ガアリマスノデ”などと書かないほうが無邪気でよろしい](P.172)とあります。

興味深いことも書かれていますが、いまここで、平井を罵倒している部分に言及することはしません。しかし、その後に置かれた清水幾太郎の『論文の書き方』に対する三上の反応に注目しておきましょう。三上の考えを知るうえで参考になると思います。

      

3 「主語がハッキリしている」かどうか

三上は、清水幾太郎の『論文の書き方』に対して、慎重な言い方をしているのです。[評判通りの名著であり、その点について私などが一言も付け加えることはないだろうから、ここに取りあげるのは、同書としては枝葉かもしれない部分である](P.176)とのこと。

三上が取りあげたのは、[主語がハッキリしていること、肯定か否定かがハッキリしていることが大切である]とあったからでしょう。「主語」とあれば、何か言いたかったかもしれません。実際の文にそくして主語について語っていて、よいサンプルになります。

▼日本文法では、“主語がハッキリしている”という意味があまりハッキリしない(こともある)ことに注意を促したいのである。 P.177 『日本語の構文』

三上の言う「主語」の概念は、よくわかりません。ありがたいことに[左右両ページから主語なし文を拾ってみる](P.177)とありますので、ここから三上の言う主語が何を指しているのか、簡易の概念がわかるでしょう。以下、三上のあげた6例文を見ていきます。

     

4 三上章と清水幾太郎における主語概念の違い

①しかし、後になって、自分が彼[A.Comte]に加えた批判というものを読み返してみると、どうも、批判というよりは、犬の遠吠えに似たもので、オーギュスト・コントの傍らへは近寄らずに、遠くのほうから勝手なことを喚いているだけである。
②犬の遠吠えのような批判では、文章の勉強にはならない。
③まして、内容の勉強に貼らなない。
④これを足場に確保しておいて、それから、この時事的な話題の分析や批判を通して、次第にアクチュアルでない本題へ入って行くのである。
⑤社交ではなくて、認識である。
⑥どうにでも受け取れるような曖昧な表現は避けねばならない。

①から⑥は主語が記述されていないということから、主語なし文だということになりそうです。三上は主語という言葉をを否定し、主格と言うべきだとしていました。ここではしかし、それが記述されているか否かが問題とされています。

三上の厳格な定義を聞かされても、おそらくよくわからないでしょうから、ひとまずここでの「主語なし文」がどんなものかがわかれば十分です。例文を列挙して、三上は[これらも“主語がハッキリしている”文と言えるのだろうか]言います。

しかし清水が主語と書いているものは、三上のいう主語とは違うのです。清水が[主語がハッキリしている]というのは、記述されていようがいまいが、センテンスで述べていることの主体が何であるかがわかるということです。「は・が」での区別はありません。

おなじ「主語」という言葉を使っていながら、三上と清水のいう主語の概念は違います。清水の主語概念を勝手に否定して、違うというのは無理があるのです。一方的な主張ですが、しかし根本的な問題は、主語という概念自体が明確になっていない点にあります。

    

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