■現代の文章:日本語文法講義 第21回概要つづき 「マテジウスの理論と日本語」
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4 マテジウスの理論の2原則
河野六郎は「日本語(特質)」で[主題の提示は、主語-述語の論理的関係とは別の関係]といい、これをマテジウスの「現実的文分節」(FSP)の問題であると指摘していました。この点、千野栄一が『言語学への開かれた扉』と『外国語上達法』で解説しています。
河野が指摘するのは、千野が『外国語上達法』で示した[「文の基礎と核の理論」と呼ばれる理論]に該当するようです。[今日の術語では「コメント」と「トピック」、あるいは、「テーマ」と「レーマ」と呼ばれている問題](『言語学への開かれた扉』)です。
マテジウスは[発話の基礎(既知のもの)と発話の核(未知のもの)の違いが]どういう形で示されているのかを問題とし、[文を分析する場合に][文法的分析のほかに、基礎と核による分析があり、この二つの分析方法の間の関係についても考察を重ね]ました。
この理論の原則は、(1)文は【主題(thema)=テーマ=題目】と【その説明(rhema)=レーマ=解説】からなり、(2)思考の流れは、【すでに知られているもの(発話の基礎=既知)】から【まだ知られていないもの(発話の核=未知)】へと流れるというものです。
5 「文の基礎と核の理論」と日本語のハとガ
これは日本語に限った話ではなく、[人間の思考方法のユニバーサルな特質]ですから、この理論と日本語との関わりが問題になります。千野は『外国語上達法』で[日本語の「は」と「が」]という項目を立てて、以下のように記しました。
▼この「文の基礎と核の理論」がわれわれにとって特に興味をひくのは、日本語でこの区別をする手段は、チェコ語のように語順でもなければ、英語のように冠詞や受身構文によるのでもなく、「は」と「が」の区別が似たような区別を担っていることである。 p.77 『外国語上達法』
文の「基礎」と「格」の区別が[日本語の特徴の一つとされるハとガの違い]になるようです。(1)助詞「は」は主題を導き、「既知」の情報である言葉に接続し、(2)助詞「が」は主語を導き、「未知」の情報である言葉に接続するということになります。
「昔あるところに一人の王様がいました」という例文の「王様」は、昔話のはじめにくる未知の情報であるので「が」が接続するのです。「その王様には三人の娘がいました」では、既知となった王様に「は」が接続し、未知の三人の娘には「が」が接続しています。
6 「既知にハ、未知にガ」の間違い
千野の出した例文では既知と「は」、未知と「が」が対応していました。しかし対応しない例もあります。以下の例文を見てください。理論が当てはまらない事例がいくらでもあるのです。理論の間違いか、理論へのあてはめの間違いになるでしょう。
① 1904年3月、その王様はパリ郊外のお城に住んでいました。
② この王様が、あの三人娘の父親でした。
③ 王様にとって三人娘が生きがいのすべてだったのです。
①に初出の「その王様」は未知の新情報ですが、「は」が接続しています。②で既知になった王様に接続するのは「が」です。②で登場した「三人娘」が③にも登場しますから既知の情報になりました。しかし「三人娘が」と、「が」の接続になっているのです。
既知の情報に「は」、未知の情報に「が」が接続するというルールは日本語には存在しません。日本語は、こんな原理で「は」と「が」を使い分けてはいないということです。ナンセンスな説明というしかありません。日本語には、別の原理があるということです。