■現代の文章:日本語文法講義 第21回概要 「マテジウスの理論と日本語」

*連載はこちら  ⇒ 【第21回】

    

1 日本語の散文の確立

日本語で論理的な文章を書くのは簡単なことではありません。谷崎潤一郎が『文章読本』で[西洋から輸入された][学問に関する記述]をしようにも[日本語の文章では、どうしてもうまく行き届きかねる]と記していました。この本は1934年に出版されています。

しかし佐藤優は『悪魔の勉強術』で[英語のテクニカルタームや概念を、中国語のマンダリン(北京語)に訳せない]が、しかし日本語では可能だと指摘しました。[日本語で情報を伝達できる力というのは、日本が誇れる資産であり、長年の努力の成果]です。

論理的な文章であるならば、学問に関する記述が可能になります。谷崎の言葉で言えば[緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書く]ことができる文章です。たんに伝達可能な文章でなく、もっと絞り込まれた条件をクリアする文章だということになります。

日本語は、言文一致の文体も獲得していました。『日本語の歴史6』(平凡社ライブラリー)で指摘されていたように、言文一致というのは[論理的であるとかないとかという以上の、あまりにも大きなもの](p.188)です。日本語の散文は確立されたと言えます。

      

2 河野六郎「日本語(特質)」

論理性を問題にする場合、どういうアプローチで日本語を取り扱うべきか問題になります。論理的な文章を記せるようにと苦労してきて、それが達成されたのですから、ルール作りの前提にするのは当然のことです。日本語の文法を構築する前提といえます。

それでは、「主題と解説」という考えで日本語を見ていくと、どうなるでしょうか。この点、日本を代表する言語学者である河野六郎が書いた論文を見ていきたいと思います。『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』に所収された「日本語(特質)」です。

千野栄一は『言語学への開かれた扉』の「近代言語学を築いた人々」の章で、世界の言語学者を10人選び、その一人に河野六郎をあげています。[世界の言語学界に日本の言語学者と胸をはっていえる数少ない学者の一人である](p.266)と評価しました。

河野は「日本語(特質)」で[主題の提示は、主語-述語の論理的関係とは別の関係である](『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』:p.106)といい、これをマテジウスの「現実的文分節」(FSP)の問題であると指摘しています。

      

3 論理的関係でなく心理的な秩序

河野は「主題と説明(解説)」について、[それは、論理的関係ではなく、主題(thema)とその説明(rhema)による、心理的な、表現の秩序である](p.106)と指摘しました。論理的な文章を分析するものではないということになります。以下のように記しました。

▼何かを言おうとするとき、まず念頭に浮かぶ観念を主題として、これを言葉にしたものがthemaであり、それについて論理的関係の如何を問わず述べたものがrhemaであって、言ってみれば、この場の自然の発露に従った文の構成である。その点、日本語という言語は、論理的構成よりも心理的叙述に適した言語であると言える。 『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』:p.106

ここでの河野の言い方からアプローチが見えてきます。日本語の構成を見ると[論理的構成よりも心理的叙述に適した言語]であるから、「主語-述語」に焦点を当てるよりも、「主題(thema)とその説明(rhema)」を基本にしてみていくのがよいということです。

河野の立場は、[主語は不可欠の要素ではない。そして、必要があれば、補語として助詞ガによって主語を示すことができる]という言い方でも明らかでしょう。この立場から、日本語の論理性を問うことには無理があるかもしれません。この点、確認が必要です。

*この項、続きます。

     

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