■論語の読み方、孔子は聖人に非ず:石平『なぜ論語は「善」なのに、儒教は[悪」なのか』

    

1 孔子は聖人とは言えない

『論語』という書物は、多くの人に知られていながら、なかなか分かったという気にならない本です。間違いなく魅力的な本ですし、大切な本に違いありません。高校時代に宮崎市定の『論語の新研究』を読んだときに、宮崎の解釈に、あっと驚きました。

『論語』の場合、解釈によって、ずいぶん印象が違ってきます。その解釈の仕方が、その本の魅力だとも言えるでしょう。宮崎市定の本は、特に印象深いものでした。最近、また『論語』に関して、ああそうだった、その通りと思いながら読んだ本があります。

石平『なぜ論語は「善」なのに、儒教は[悪」なのか』です。孔子を聖人とは思っていたわけでなないはずですが、はっきり意識もしていませんでした。出された例を見ると、どうやら孔子は[理想的で完璧な人間]とは言えないところがあったようです。

たとえば陽貨第17にある「孺悲欲見孔子」。ジュヒが孔子に会いに来たのに、仮病を使って面会を断っています。さらに琴(瑟)を弾いて歌をうたっているのです。面会を断られた相手に対して[度の過ぎた嫌味]と言うのも、たしかにそうだという気がします。

     

2 仁術を身に着けるために『論語』を読まさされる

新聞・雑誌で著者の石平という人の文章を読んだことは何度かありましたが、一冊の本を読むのは初めてでした。著者は小学校4年のときに、[祖父の私に教える国語は、以前と全く違う奇妙な内容となった]と書いています。これが論語の文章だったとのことです。

文化大革命[当時の祖父が身の危険まで冒して私に『論語』を教えたかった]のは、孫を漢方医にするために[「仁術」を身に着けさせるため]でした。ただ[『論語』の文章と現代中国語の文章は][文法的にも全く組立の違う文章]だとのことです。

そういう文章を[意味を一切説明しないまま、ただ何百回も書き写させる]という[祖父の世代の教育法]を石平は受けています。日本に留学し、そのうち、[『論語』は、儒教ではない。『論語』はただの『論語』だ]と思うようになったということでした。

      

3 常識人で人生の達人である孔子

『論語』を見てみると、[キーコンセプトである「仁」の解釈もバラバラ]であり、[「仁とは何か」についてきちんと交通整理されていない]し、[大切な「天とは何か」も語らない]。[「普遍的なものに対する哲学的議論」の欠如]は明らかです。

『論語』は[体裁も内容も、本当の「思想家」のものではない]し、[孔子という人は哲学者ではない]と言うしかありません。聖人でもなさそうです。石平は[波乱万丈の孔子の生涯]をふりかえり、孔子を[人生の艱難を知り尽くした苦労人]と言います。

『論語』は[知恵者でありながら常識人、そして人生の達人という孔子]の書いた[聖典でもなければ経典でもなく、常識論の書だ]というのが石平の評価です。[偉大なる常識人・知恵者の人生体験と人間洞察から発した金言]を[絶対に読むべき]と記します。

      

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