■山崎正和と司馬遼太郎による「日本宰相論」:政治家を評価する視点
1 1973年の対談「日本宰相論」
論文と比べて対談は気楽なものですから、ときに一筆書きで、一番の基本を語ったものになることがあります。そうした対談を見つけました。『歴史を考える』にある司馬遼太郎と山崎正和の対談です。1973年の対談ですから、50年以上前の話のものになります。
司馬遼太郎が1923年生まれで、ちょうど50歳くらい、山崎正和が1934年生まれで、まだ30代でした。後に大家となった二人が、まだ圧倒的な存在となる前の対談です。日本自体が先進国といえるかどうかといった頃の対談ですから、いま読むとどうでしょうか。
メインとなる対談が「日本宰相論」です。はじめに「宰相」という概念を、司馬が[大政治家]、山崎が[政治技術を持って生きた人]という程度の意味と考えようと話し始めます。山崎は[摂関政治の終りの信西(シンゼイ)](1106-1159)をはじめにあげました(p.72)。
2 信西と北条泰時
山崎は[摂関政治というのは、いわば常識の政治]ですが、この時期に[天皇親政という一つのイデオロギーを持って登場した]のが信西だといいます。[名門の人ではありませんでしたが、学問もあり、陰謀家でもあり、しかもかなりの実務家でした](p.72)。
しかし[彼の不幸は歴史の流れを見通していなかったというか、結局、侍というものをつかみきれなかった]ことと[稀代のマキャベリストたる後白河法皇がいたこと](p.74)でした。白河法皇型の宰相の[一番最初の形は、おそらく北条泰時](p.79)のようです。
[信西のいう道理とは、論理]であり、[泰時のは常識なんですね。英語でいえば、コモン・センス]です。[常識を軸として、法体系をつくる][イギリス法的な体系をつくりあげた][泰時はそれを非常に意識してやった人]という評価になります(p.82)。
3 宰相の評価基準
山崎は[いまでこそ政府は機能であり、宰相は機関(ファンクション)だということは誰でも知っていますが、当時としては大変なこと]だと北条泰時を評価するのです。信西も自分を機関だと思っていた様子ですが、[いかにもやり方が下手で、滅び]ました(p.83)。
司馬も[北条氏はえらくもなく害もないんだ、ファンクションにすぎないんだよ、と世間にいい続けている。これは自己保存のためでもある。好悪は別として名人芸]、[義時、泰時の代になって、はじめて「いざ鎌倉」という言葉が出来る]と語ります(p.84)。
ただ、泰時には[宰相としてどこか欠けていると思うのは、かわい気がないこと]だと山崎は指摘するのです。[北条家は、歴代そういう意味の愛嬌、色気というもの][そういうものも宰相の資格の一つ]なのに、[それが欠けていた]ということです(p.85)。
そのことが[後に東国武士たちが北条をひっくり返して足利についた原因]だろう(p.85)と山崎は言い、司馬は[泰時というのも渋い政治家で、これをほめるのは勝海舟のような玄人ばかり](p.86)と語ります。いまの政治家を見るときの視点にもなりそうです。
