■「です・ます」と「である」の使い分け

     

1 「です」の思考

最近の文章は、「です・ます」で書かれるものが多くなってきています。このブログでも、「です・ます」が原則です。読む人を意識して、話しかけるようにという場合、「です・ます」になります。「です・ます」と「である」は使い分けが必要です。

内田義彦が『経済学史講義』の「あとがき」で記しています。講義テープをもとに原稿を作ったので、「です」が基調になったのです。このとき「です」を[「ある」になおすと発想全体が変わり、構文をすっかり改めねばならぬことがある](p.402)のでした。

▼「です」調は、思想を外から説明するには有効であっても、思想を内からとらえるには全くもって有効でないということも同時に気がついた。「です」が重なることによって全体がだらだらして結局わからなくなったり、逆に、「です」という説明体の挿入で思想がぶち切られて、思考過程の全体がつたわらない。 p.403 内田義彦『経済学史講義』

       

2 論文と講義・社内と社外・探求とプレゼン

内田は、「である」と「です」を混在させた形式で本を作りました。[思想家(ないしは私)の推論過程を追うことの方が、推論の結果をつたえるよりも重要だとおもうときには、「だ」または「ある」を用いることにした]とのことです(p.403)。

結論がもう出ていて、それを上手に説明して伝えようとするなら、講義のときのように「です・ます」でよいことになります。しかし、真実に到達しようとして、思考の「推論過程」を正確に記録しようとする場合、「である」になるということです。

学術論文なら「である」、講義調なら「です・ます」、社内で議論するときの文書は「である」、社外へのアピール、いわゆるプレゼン形式の文章は「です・ます」という違いが生じます。物事を探究・追及する場合、「である」の思考になるということです。

     

3 論理的に断定する「である」

佐々木健一は『論文ゼミナール』で、[「である」調が、論文を論文にしている](p.156)と書いています。[「です・ますの基調は語りかけ」]であり(p.157)、[「である」調で書く、ということは一人称的=二人称的な姿勢を捨てる]ことです(p.158)。

つまり[「である」調で書くということは、断定する、ということ]になります(p.158)。それも[論理的に断定]するということです(p.159)。議論を積み上げて結論を提示するためには、明確に断定していくことが不可欠だということになります。

寺村秀夫は『日本語と日本語教育 13』で、「普通体」と「丁寧体」という言い方で、どちらを「基本」にすればよいのかが問題である旨、指摘していました。しかし以上を見れば明らかなように、両者は適切に使い分けがなされるものだということになります。

主体を表すときに、「は」のつく場合と、「が」のつく場合とで、両者に違いがあるのと同じことです。どちらかを標準にするという択一的な問題ではありません。多様な使い分けが可能であり、その中から適切な選択がなされているかが問われるということです。