■俳句を事例にした日本語表現の教科書:『俳句 四合目からの出発』

1 紋切り型のパターン

自分で俳句を作って楽しむ人は、ごく少数になりました。もはや芭蕉の時代とは違います。芸術としてのピークは過ぎてしまったのでしょう。しかしそれでも俳句はなくなりそうにありません。短い言葉で、何事か伝える形式は日本語には向いているようです。

こうした短詩形の場合、なんだかよくわからないということがあります。あるいは陳腐なものが並びがちです。阿部ショウ人は『俳句 四合目からの出発』で、紋切り型というべきパターンを示します。どんな内容か、学術文庫版の案内を見れば、それがわかるでしょう。

▼カンナはいつも「燃え」、「一つ」だけ枝に残った柿はきまって「夕陽」に照らされ、妻は「若く」、母は「小さい」――だれでも初めて俳句に手を出すとまず口をついて出てくるのが、こうしたきまり文句。初心者はこの紋切型表現と手を切らなければ、「四合目」から上に登ることはできないと阿部しょう人は説く。

     

2 凝縮性の大切さ

俳句を作る気のない人も「第一節 川柳との違い」の項目に「主観的な俳句・傍観的な川柳」とあるのを見ると、何事か感じ取ります。俳句の形式で、主観を適切に表すのに、どんな表現が適切なのでしょうか。「俳句の道」で阿部は5つの切り口を示しています。

「凝縮性」「新しさと古さ」「深さと浅さ」「普遍性と独善」「具象性」です。俳句に限らない日本語の表現に関する重要な指標でしょう。このうち、一番の基礎に当たるのが「凝縮性」です。俳句を読むのに4、5秒しかかかりません。凝縮性は重要です。

[全体を「現在直下」に「一挙に把握する」のであって時間の流れとしてとらえないもの]であり、私たちは[全体を、一瞬に、視取ってしまいます](p.119)。そうなると、語法の適切さは基礎になるでしょう。この点ではビジネス文書と変わりません。

     

3 日本語表現に関する教科書

阿部の指摘は、きわめて常識的なものです。「放牛に霧笛のうなりふりかぶり」という俳句が例にあがっています。意味がよくわかりません。最後が「ふりかぶり」なので、作者が振りかぶったのかと思いました。阿部の指摘で、ああ…とわかってきます。

[何が振りかぶったかの、主語が行方不明。ふりかぶる主体が牛ならば「に」は誤りで、「放牛は」と断定すべきでした](p.197)。牛がふりかぶったらしいです。主観を表す短い言葉だとしたら、逆に「私はどうした」という形式にはなりにくいのでしょう。

「寒声や星瞬きて吸はれけり」の意味は分かる気がしました。しかしコメントを見ると、[句意は、星が…寒声に吸われたことになります。真意は「寒声が…瞬く星に…吸われた」はずです](pp..197-198)とあります。声が吸われたと思っていました。

俳句に対する興味はほとんどありませんし、俳句を作るための本として、どうなのかは、わかりません。しかし日本語の表現に関する教科書として、文章読本にあたるものよりも、こちらの方が王道を行きます。これはきわめて優れた日本語についての本です。