■私たちに必要なのはどんな文法なのか?:森岡健二の指摘

     

1 独立の意識が生んだ英文法

日本語に関心を持つ人はおおぜいいます。しかし国語教育とか文法の話になると、わからない、ついていけないということになりがちです。【国語教育が成功しない理由】がわからないと言われました。渡部昇一・森岡健二対談の説明が必要かもしれません。

対談ですので本来は、わかりやすい話です。上智大学の季刊誌である「ソフィア」に載った対談でした。宗教改革の影響で、欧米の国が独立意識が強くなり、ラテン語離れが起きます。独立の意識が働いて、ラテン語に対抗して自国の言語の文法ができたのでした。

何らかの意識が働かないと、なかなか文法が成立しないのかもしれません。英文法も最初は[人為的に学者が作り出した](『さまざまな現代』p.97)のでした。では日本語はどうでしょうか。日本語には文法があってしかるべきだと、両者は言っているようです。

     

2 系統的・体系的とはどういうことか?

渡部は[自国語が弱い国では、自国語のシンタックスの中に外来語を入れるというプロセスができない]と指摘した上で、[日本語の場合は、漢文を読む下すやり方が確立しているので、外来語がいくら入ってきても恐くない](p.114)と、日本語の強さを言います。

戦前から様々な学者が日本語の文法を構築しようとしていましたが、それが受け入れられていません。森岡は[系統的、体系的]な国語教育を目指したものの、[文法自体がそれに対応できるように体系化されていない](p.125)のでダメだったと指摘するのです。

[系統的、体系的]とはどういうことか、森岡は別の言い方をしています。[文字とか単語とかもっとも基本的なことを分解的に教える]ことです。「分解的」というのは「文を分析できるように」というほどの意味でしょう。それができる文法がないのです。

       

3 文を分析するツールの欠如

文を分析するツールとしての文法が日本語にないため、それをごまかすように、[文章の主題をつかむ、構成を考える、段落を踏まえる、といった国語教育になったのです]。[無駄の多い教育が戦後の国語教育だと](p.125)いうのが森岡の評価でした。

国語教育が成功しない理由は、文を分析するツールとしての文法が日本語にはないからだということになります。これは1976年の対談でした。その後、日本語用の文の分析ツールが構築されたわけではないようです。この点、森岡の指摘が検証に役立つでしょう。

あいかわらず国語教育では[文章の主題をつかむ、構成を考える、段落を踏まえる]という発想が強くあります。本来なすべき「文を分析するための文法」がないからだということになりそうです。文法に求められる役割が、森岡によって示されたのでした。

日本語の文法があるのかないのか、どうでもいいことです。私たちが必要とする文法は、文章を分析するツールとして使えるものでなくてはなりません。それがないと、文章の読み書きに役立たないのです。森岡の指摘はいまも重要だということになります。

      

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