■日本語文法の作り直し:文法用語の問題点
1 日本語の確立に100年
日本語の散文が19世紀に入ってから形成されてきたことは、知られています。しかし簡単に確立したわけではありません。言葉ですから、時間がかかります。何十年どころか100年以上かかっても不思議ではありません。日本語に限らない話です。
シェークスピア(1564-1616)の英語はいまの英文法からすると、ルール違反がたくさんあるとのこと。そののちに英語の散文が確立していったようです。英語の文法が確立したのが18世紀の末ですから、その少し前に散文が確立したということでしょう。
ヒュームの『イングランド史』が完結したのが1759年でした。英文法を確立したマーレーの英文法は、この本から例文をずいぶん採ったようです。マーレーの英文法が出たのが、1795年ですから、18世紀の半ばに英語の散文が確立したのでしょう。
日本語の場合、司馬遼太郎の考えでは1980年代頃に文章日本語がほぼ成熟したとのことでした。メッケル少佐が来日して「軍隊のやりとりの文章は簡潔で的確でなければならない。日本語はそういう文章なのか」と指摘したのが1883年です。100年かかりました。
2 今後消えていく国文法の用語
日本語の散文が確立したあと、日本語の文法ができるはずでしたが、いまだに混乱しています。小松英雄は2014年に出した『日本語を動的にとらえる』で「翻訳不能な国語学の用語」という見出しを立てて、国文法の用語が不適切であると指摘しています。
▼何よりも問題なのは用語の意味を説明されても理解できないことである。動詞の活用形の名称で、説明なしに意味が分かるのは、終止形と命令形ぐらいであろうが、それらに後接する助動詞があったりするので、わけがわからなくなる。 p.41 『日本語を動的にとらえる』
まったく指摘の通りです。たとえば[「行か=ない」の「行か」の部分が否定形ならわかるが、未然形だと教えられても、「未然」の意味が解らない。「已然形」の「已然」はさらに難解である]と小松は書いています。こうした用語は、今後消えていくはずです。
小松も[国文法の有用性を疑問視する声が大きくなって、いずれ退場する日が来れば、これらの用語も姿を消す運命にある](p.42)と記していました。文法を読み書きに役立てようと思った人ならば、これは使えないとなりますから、疑問視することになるはずです。
3 中核の概念は決着済み
用語の概念を巡って、ブレすぎた場合、その用語がもう使えなくなってしまいます。日本語の文法で言えば、主語という言葉が使いにくくなってしまいました。日本語に主語がない、英語などの主語の概念と違うからというのは、バカバカしい話でしょう。
インドヨーロッパ語とも言われる言語と、それと別系統の日本語で、主語概念が違うのは当然のことです。違いを強調するなら、別の用語を使うしかありません。同一性を強調するなら、同じ用語を使って概念を定義する必要があります。この辺は混乱しています。
日本語の述語が、英語などの述語と大きな違いがあるのは当然のことですが、そのまま述語と称しているのですから、いい気なものです。「主語-述語」でなくて「主題-解説」で説明しようとしても、ここでもまた日本語文法の独自の説明になっています。
渡部昇一が『学問こそが教養である』で[「主語-述語」の関係こそが、文の本質であるということは、プラトンの『クラテュロス』以来の一番の基本でね。だから、何について何を記述するかと言うことなんですね]と言う通りでしょう。前回申し上げた通りです。