■成果を決める要因:画家との会話をきっかけに

     

1 画家との会話

先日、今後が期待される画家とお話をしました。国内での成功は、たびたびのことですが、まだ海外で個展をやっていないということでした。そろそろかなというお考えのようです。そう遠くないうちに、海外からのお話が来るかもしれません。

海外からお話が来るためには、情報発信をしなくてはならないでしょう。展覧会のたびに作品を撮影し、HPに載せることも必要になるかもしれません。それをしてくれる人がいない場合、自分でやらなくてはならないですから、あんがいハードルがあります。

HPもいいモノにする必要がありますし、検証が出来なくては、効果も上がらないでしょう。簡単に行くものではありません。画家の仕事に集中しないと、元も子もなくなるね、といった話になりました。活動を広げるには、プロデューサー的な人が必要なのです。

     

2 音楽と絵画の違い

音楽の世界ならば、世界的なコンクールがあって、それらに入賞したら世界的な演奏家に一気に近づきます。日本人が優勝したというニュースを聞くことも、めずらしくなくなってきました。しかし絵画の場合、音楽のようなコンクールがあるのでしょうか。

池田満寿夫がヴェネツィア・ビエンナーレ展で大賞をとって、版画で国際的になった例もありますが、どうも、音楽とは違うようです。音楽の場合、演奏家と作曲家が原則として分かれています。絵の場合、こういうことはありません。両者は一体化されています。

音楽ならば楽譜という標準的な記述法があり、そこに共通言語がありますし、音楽自体が時間的な流れなしでは存在することはできません。絵画は感性に沿って、画面を構成したもので勝負することになります。そこでは時間は流れていません。

      

3 芸術とビジネスとの相違

ある種の客観性や論理性が、音楽の演奏の場合、あるのでしょう。絵画の場合、共通言語で語ることが難しいのかもしれません。レベルの高い低いは、間違いなくありますし、それはある種の絶対的な基準になっています。しかし、これは苦労させられることです。

成果物たる絵が鑑賞者に、どのように受け取られるのか、画家本人は簡単にわかるものではないでしょう。知り合いや先輩、あるいは画商さんたちと話すうちに、少しずつ反応を感じ取れるのかもしれません。励みにはなっても、参考になるのかどうかは微妙です。

ビジネスならば「見える化」されれば、わかりやすくなりますが、絵画の場合、そう簡単なものではないでしょう。好き嫌いが正面に出がちです。それでも、たぶん見てくれる人たちのレベルに影響されながら、絵の水準は決まってくるのでしょう。

芸術の場合、創り出す人側と受け取る人側の2つの水準が、各個人というよりもその社会全体の水準をつくりだしているように思いました。これに比べれば、ビジネスの評価は定量化が容易ですからシンプルです。同時に芸術と同じ構造があることも確かでしょう。

       

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■現代語になって一番変わった文章構造:係り結びについて

     

1 古典文法の変容

現代語以前の日本語の文章で、いまと一番大きく違う文章構造は係り結びかもしれません。『日本語の歴史』の第3部「うつりゆく古代語-鎌倉・室町時代」で、山口仲美は係り結びについて書いています。平安時代の古代語がわれわれには典型的な古文でした。

▼武士の時代には、平安時代に出来上がった文の決まりも、相当姿を変えていきます。いわゆる「古典文法」が変容していく時代です。私たちが高校で学んだ「古典文法」は、平安時代の言葉の決まりだったのです。 p.88

山口は係り結びに注目します。[鎌倉・室町時代に、「係り結び」が姿を消していき]、[日本語の構造にまでかかわる大きな問題]になりました(p.89)。江戸時代になると、日本語は[現代の東京を中心とする言葉が形成されて](p.128)いくことになります。

    

2 係助詞「なむ・ぞ・こそ」の違い

代表的な係り結びである「なむ-連体形」「ぞ-連体形」「こそ-已然形」という結びつきを、何となく記憶しているかもしれません。これらの違いについて、古語辞典を見ても[三者の違いは、説明されていません](p.90)。山口は、違いを説明しています。

「なむ-連体形」は[念を押しつつ語る強調表現](p.91)であり、「ぞ-連体形」は[動作や状態が起きる]要因の[指し示しによる強調表現](p.92)です。「こそ-已然形」の場合、他ならぬものと[取り立てることによる強調]表現になります(p.93)。

違いは微妙です。たとえば「花なむ無き」「花ぞ無き」「花こそ無けれ」を、現代語ならどう表現するでしょうか。「花なのですね、ないのは」と念を押す、「花です、ないのは」と指し示す、「花こそ、ないね」と取り立てる、こんな感じかもしれません。

      

3 論理関係を明示する構造への変化

「なむ-連体形」は鎌倉時代になると急速に使われなくなります。[やわらかい語りの口調に限って出現する強調表現](p.104)のため、[武士の時代には柔らかさゆえに避けられ]て(p.105)、鎌倉時代末には[結びが終止形になって](p.106)、消滅するのです。

「ぞ-連体形」は[強調表現にしなければならない箇所ではない]ところにまで使われ、[実質的な強調表現の機能を失い]、慣用表現になってしまいます(p.108)。さらに室町時代末には、[終止形が連体形と同じ形になってしまったのです](p.117)。

生き延びた「こそ-已然形」も廃れてきます。[係助詞というのは、主語であるとか、目的語であるとかいう、文の構造用の役割を明確にしない文中でこそ、活躍できるもの]でした。鎌倉時代以降、[文の構造を助詞で明示するようになってきたのです](p.119)。

[鎌倉時代にはいると、主語を示す「が」が発達してきました](p.119)。日本語が[格助詞で論理関係を明示していく構造に変わった]、[論理的思考をとるようになった]のです。[係り結びの消滅は、日本語の構造にかかわる重要な出来事]でした(p.120)。

      

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■思考と執筆:『エマニュエル・トッドの思考地図』から

    

1 思考とは本能的な欲動

思考というのは、どういうものであるのか、明確に語ることは難しいことです。『エマニュエル・トッドの思考地図』で、トッドは[思考そのものはとっさの行為、自然発生的な行為です](p.30)と語っています。定義したのではなく、その現象を語っただけです。

▼私にとって「思考する」とはプラトンが考えていたようなことではありません。そもそも、私は哲学者などではありませんし、正直に言ってしまうと「思考とは何か」という問いほど、私にとって厄介なものはないのです。 p.23

しかし思考とは[本能的な欲動だと感じてきました](p.24)から、思考すべしなどという考えは出てきません。[だから思考とは何かということについて思い悩むこともありませんでした]。ただ本を読み、混沌から法則を見出すことに関心を持っただけだでした。

     

2 考えるのではなく学ぶ

トッドは[考えるのではなく、学ぶのです。最初に学ぶ。そして読む]のです。[何かを学んだとき、知らないことを知った時の感動こそが思考するということ]になります(p.27)。だからトッドの場合、[仕事の95%は読書です(残りの5%は執筆です)](p.45)。

読書の際に[よく直接本に書き込みます。こうするとなくしてしまう心配もないですから](p.49)。こうして[本を読み続け、さまざまな情報を収集し、自分の頭のなかにデータを蓄積していくと、ある時点で自分の脳がデータバンクのように](p.43)なります。

これが思考できる段階、つまり[データをまとめたり、そこから仮説を立てたり、解釈のために図式化したりする作業](p.44)の段階です。これができたら[仮のモデルの有効性を確認]し[知識が欠けている部分を埋める作業](p.67)をする検証の段階になります。

     

3 トッドの書き方

トッドの書き方はやや独特です。[書くという行為は私にとっては頭のなかでしっかりと構築されたモデルを放出するという作業です]。したがって[私は頭のなかで物事がしっかりと明白になってからでないと書き始めません](p.179)ということになります。

かつては[執筆をしながら思考を形にしていっていた時期もありました]。『新ヨーロッパ大全』の執筆では、[アイディアの形式化と執筆工程とがほぼ同時進行でした]が、[一章分を書き終えてから、それを丸ごと捨てた]とのことです(p.178)。

▼すべては私の頭のなかで完成します。というのもモデル自体はたいてい非常にシンプルな要素から成り立っているものだからです。構想をメモやカードでまとめたりすることもしません。私の書き方は、それこそ高校で教わるようなオーソドックスな組み立てそのものですから。 pp..179-180

スタンダードな章立てのため[始める前にすでに構成も頭のなかに](p.181)あるのです。私は、こういう書き方をしていません。中核部分を記述して、それを検証するプロトタイプ・アプローチをとります。トッドの記述法も検討すべきかもしれません。

      

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■日本語が論理的でないと言われた時代:日本語の問題と記述する人の問題

     

1 日本語の論理性

最近、面白いことに気がつきました。むかし、日本語が論理的でないとか、主語がないとか言われたことがありましたが、もはや、そんなことは話題にもならないのです。「象は鼻が長い」という例文など、聞いたことがないということでした。

国語の時間に、現代文の文法について丁寧な講義があるわけでもないですし、主語の定義が明確に語られるわけでもありません。そうなると、主語という用語は知っていても、よくわからないということになります。もはや「若者」ではない人たちの話です。

日本語が論理的でないという言い方は、かつてはありました。いまは論理的でない文章を書くのは、その人の問題であるということになっています。日本語が悪いということではないということです。これが当たり前になっています。悪いことではありません。

     

2 谷崎潤一郎『文章読本』の前提

学術向けの記述をしようとすると、なかなか簡潔で明確な文章にならないということはあったようです。日本語では学術的な文章がうまく書けないというのは、谷崎潤一郎が『文章読本』に記していました。谷崎のこの本は1934年に出版されたものです。

谷崎は『文章読本』で扱う文章から、学術的な文章を除外しました。これでは仕事をする人が参考にするわけにはいきません。学術的な文章というのは簡潔で的確な文章です。谷崎は、これをもっと具体的に記しています。ビジネス文にも求められる文章です。

▼ここに困難を感ずるのは、西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述であります。これはその事柄の性質上、緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない。然るに日本語の文章では、どうしてもうまく行き届きかねる憾みがあります。 (中公文庫版:pp..68~69)

     

3 インターネットの影響

谷崎の言うような文章が日本語で書けないと思う人、あるいは「どうしてもうまく行き届きかねる憾みがあります」と考える人は、もはやほとんどいないでしょう。日本語が論理的かどうかという問いかけ自体が発せられなくなりました。

日本語で論理的に記述できるのは当然のことですし、論理的な文章にするのは、記述する側の責任ということです。これが共通認識になってから、どのくらいたつのでしょうか。手書きからキーボード入力が主力になった頃には、共通認識になっていたはずです。

日本語で論理的に記述できる事例が、まわりにあふれているようになれば、論理的に記述できるのが当たり前だということになります。ごく一部の人が、明確な文章を書いていただけでは、共通認識にはなりません。インターネットの影響が大きかったようです。

文章が多くの人にさらされて、ヘンな文章なら、意味が解らないと言われる状況に立てば、知らずに文章表現についても気をつけるようになるでしょう。さらにAIで文章が生成されるようになって、文章の分析がより必要になっているということだと思います。

     

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■高橋太郎『日本語の文法』について:現時点の印象

      

1 体言と用言の軽視

遅ればせながら高橋太郎『日本語の文法』を購入いたしました。日本語の文法書で評価されている本のようです。何となく、そんな話を聞いたことがありました。しかし関心がなかったのです。もはや日本語の文法の本はいらないなあという感じがありました。

書店の棚にたまたま並んでいたのです。実際に手にしてみると、説明が詳しくて持っていてもよい気がしました。参考になるところがあるかもしれません。まだごく一部しか読んでいませんから、アテにならない現時点での印象ですが、いくつか記しておきましょう。

まず「体言」と「用言」の説明を見てみました。これでこの本のありようがわかります。形容詞の項目の最後の149頁に「体言と用言」という小見出しがありました。説明が8行です。300頁の本ですから、ずいぶん後ろに置かれていて軽視されています。

       

2 一般向けではない本

では解説はどうでしょうか。まず[名詞を体言、動詞と形容詞を用言、副詞を副用言とする性格づけが以前からおこなわれてきた]と経緯を記しています。さらに[体言は、ものをあらわし][曲用して、主語や補語になる単語]という説明になっていました。

曲用という用語がありますから、一般向けの本ではありません。「語形変化のうち名詞などが性・数・格といった文法カテゴリーに対応して変化するもの」を曲用と言うようです。日本語の名詞の解説をするときに、ぴたっといく言葉なのか微妙な感じがします。

[用言は、体言の表すものの属性を表し、活用して、述語になる単語]とのこと。活用の有無での判別法は明示されていません。形容詞とは[名詞でしめされるものやことがらの、性質や状態などを表す単語の種類]とのこと。各概念の意味を重視した解説です。

     

3 参考書となる本

この本では、形容動詞は形容詞に含まれると考えています。[品詞を性格づける基準である、①語彙的な意味、②文論的・連語論的な働き、③形態論的なカテゴリー(語形変化のわくぐみ)が共通]だからとのことです。動詞の活用形の違いと同じ様に扱われます。

「語彙的な意味」が共通といわれても、明快な感じがしません。文論的とはシンタックスのことのようですが、「文論的・連語論的」も概念がわかりにくい言葉です。形態論的も、何となくわかるといった程度。3つが共通と言われても戸惑います。

明確な解説をしようとすれば、何らかの判別式を示す必要があるはずです。しかし、そうした意識を持った解説があるようには思えません。一般人が、読み書きに役立てようとして読む本とは別の種類の本のようです。専門家や業界向きの本という感じがします。

一言で言えば、シンプルではないということです。全体が統合されていて、中核部分を明確な基準で示すという構成ではありません。どう説明されているのかを調べるための参考書という感じの本です。そちらの用途で、これからも使っていけると思っています。

       

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■小澤征爾の時代:「斎藤メソッド」とオペラの壁

    

1 小澤征爾と「斎藤メソッド」

小澤征爾氏が2024年2月6日に88歳で亡くなりました。最近の若者のなかには、この世界的な指揮者の名前を知らない人もいます。クラシック音楽の演奏家で、世界的に活躍する人がいても、もはやそうめずらしいことではありませんから、それでもよいでしょう。

以前、小澤征爾の話を書いたことがありました。『阿川佐和子の世界一受けたい授業』という文春ムックの本に登場した小澤は、斎藤秀雄のメソッドについて語っています。斎藤は「言葉に文法があるように、音楽にも文法がある」と考えました。

▼十人のピアニストがいれば、十通りのベートーベンのソナタを弾くけれど、その十通りの中に、聴いている人が納得する共通点が必ずある、それが文法だと言うんです。それを分析して証明したんですよ。 p.19 『阿川佐和子の世界一受けたい授業』

     

2 世界に通用した「斎藤メソッド」

共通点は[手の動きと速度ですね]と小沢は答えています。斎藤メソッドは、いわば「楷書」のようなきっちりした文法であり、これが世界に通用したということでした。[最初からカラヤン先生についてたら、こんなに指揮がわからなかった]と小澤は言います。

師事したのが、帝王ともよばれたカラヤン、そのライバルとも言われたバーンスタインですから、ただならぬことです。作曲家で指揮者でもある伊東乾が2月13日のJBpressで、<苦境をチームワークで乗り切った「世界のオザワ」>という追悼文を書いています。

「世界のオザワ」が学んだ「斎藤メソッド」の問題点を指摘した追悼文です。斎藤メソッドは、[焼け跡から日本を再建して文化国家として世界に冠たるキャリアを得る方法としては実に有効]でした。しかし限界もあったということです。

     

3 チームで成果を上げるシステム

伊東は斎藤メソッドを、[英文法学者斎藤秀三郎(1866‐1929)英文翻訳をモデルに]したものであり、[楽譜を詳細に分析し、それに合った「振付け」を決め指揮台で再現する、世界に類例を見ないユニークな方法]であると記しています。

[楽譜に対して唯一の正しい指揮法という、西欧に存在しない方法を創作し、日本国内に普及]させました。このメソッドを使って[小澤さんは20代半ばから「コンサート指揮者」としての成功に全身全霊を傾けて]いきます。しかしオペラには通用しません。

舞台上ではアクシデントがつねに起こっています。[決して音楽を止めず、ミスは最小限の被害で復旧させる]ことが必要です。これが斎藤メソッドではできません。[欧州のオペラ制作現場では全く通じなかった]のでした。どうしたらよいのでしょうか。

後年、小澤の指揮には舞台で歌手に指示を出す「歌手のための指揮者」がつきました。[チームでプロダクションを作り公演全体を成功させるシステム]を構築して、2002年から2010年までウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めます。小澤征爾の時代でした。

      

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■「漢委奴國王」の金印は本物か?:「全体としての適切さ」からの判定

      

1 金印は怪しい

「漢委奴國王」の金印は本物であるらしいという話を聞いたことがあると思います。教科書でも本物を前提にしたお話になっていました。参考書でも本物だという扱いです。ところが、たぶん偽物でしょうという声がだんだん強くなってきています。

いまさらの感じもしないではありません。宮﨑市定の読者なら、とうの昔に偽物説に傾いているはずです。『古代大和朝廷』の序で、金印について[私はどうもこれは怪しいと思う]と記しています。これより前の『謎の七支刀』の序でも、疑問を呈していました。

[一世紀中葉に後漢の天子が、倭人の国の朝貢使に与えた金印が、その後千七百二十七年たって、都城があったとも思えぬ筑前の国の海岸から、ほとんど無傷のままで発見された]としたら[真に歴史上の一大奇蹟といわなければならない]と言うのです。

      

2 印文に不要な「漢」の文字

宮﨑は上記のように、発見の状況が明らかにおかしいという指摘をしています。しかしそれだけで「怪しい」と言ったのではありません。1960年の「世界史から見た日本の夜明け」(『古代大和朝廷』所収)に、その理由を記しています。

問題は「漢委奴國王」という[印文の示す意味]です。まず「漢」という字が問題になります。[中国の皇帝は、宇宙にただ一人存在し全人類の主権者たるべきものなので][漢皇帝というような表現を取]りません。「漢」の字があるのはおかしいでしょう。

[外夷の君長が、漢の辺臣、郡太守から印綬を受ける]のではなくて、[委奴国王の場合は、自ら大夫と称する使者が、洛陽に赴いて光武帝に朝賀した上で印綬を賜ったのであるから、そこに漢とあるのは、やはりおかしい]のです(『宮﨑市定全集21』p.226)。

      

3 判断基準となる「全体としての適切さ」

金印の「漢委奴國王」という印文には他の問題もあります。[問題は國という字で、国王という呼び方は後世になって普遍化したとなえ方で、漢代には、「委奴王」とよぶのが当然である]のです。ところがこの印文は後世の言い方の形式を取っています。

さらに[金印は国王でおわっているが、漢代の印の制度では、この下に章とか印とかの字が加わるはずである]。ところが「章」も「印」もついていません。「漢」が付き、「國王」とある点も含めて、[漢代印章の規格に合わない]のです(『全集21』p.227)。

最近の偽物説では、印の彫り痕の特徴が漢代のものと明らかに違っているなど、科学的な「考古学的方法」に基づく主張がなされています。しかし本物であるならば、印文が「漢代印章の規格に」合致しなくてはなりません。そうでなかったら偽物です。

宮﨑市定は「考古学的方法」に対して「文献学的方法」を提唱して、こちらを重視すべしと主張しました。これは七支刀の銘文を分析する際にも圧倒的な成果をあげました。全体が適切な文字・文と意味になるように構成されているか否かが判断基準になるのです。

      

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■ビジネスでも使える全体最適の方法:宮崎市定の「文献学的方法」

      

1 論争で黒白をつけた方法

論争というものは、必ずしも生産的ではありません。それによって成果を上げるのは、相当難しいという印象があります。宮﨑市定も[立派な論争もあると同時に][鼻持ちならぬ醜論争も行われた]と記していました(『宮﨑市定全集24』p.319)。

宮﨑は[コッホ博士のコレラ菌論争の場合のように、論争それ自体からは何も生まれませんでした。其後の実験と治療の積み重ねが最終的に黒白を決定したのです](p.319)と例を出しています。ここで大切だったのは、「実験と治療の積み重ね」でした。

パースが言う信念の確立法のうちの「科学の方法」という、実験を行ってその結果を確認する方法によって、「最終的に黒白を決定したのです」。パースのいう科学の方法がビジネスでは大きく取り入れられてきました。成果を検証して、適切性を判断したのです。

     

2 「考古学的方法」と「文献学的方法」

科学の方法はビジネスには適応する点が多くありましたが、万能ではありません。歴史に関して、こうした科学の方法はうまく機能しないことがあります。このときどういう方法によって適切性を判断したらよいのか、宮﨑市定の方法が参考になるかもしれません。

宮﨑は『宮﨑市定全集21』の自跋で[本巻の自跋は従来とは趣向を変えて、もっぱら私が抱いている日本古代史の学界に対する不平不満、苦情反論を吐き出す態度をとった]と記し、[多くの論文執筆者の不満を合わせて代弁する役をつとめ]ようとしたのです。

宮﨑は歴史において、「考古学的方法」と「文献学的方法」があると『謎の七支刀』で示しました(『宮﨑市定全集21』pp..45-47)。[摩滅した銘文を読もうと]して[一字一字の字形の復元に全力を注ぐ]としても限界がありますから、文献学的方法が必要です。

     

3 ビジネスでも使える「全体最適の方法」

宮﨑の言う「考古学的方法」は、パースの言う「科学的方法」に含まれる方法でしょう。一方「文献学的方法」は、[文章の中に用いられた文字は][周辺の他の文字から影響をうけてもちいられることをまぬがれない]点を利用して、分析を進める方法といえます。

[文字は単独に孤立して存在するものではなく、かならず他の文字と組み合わせれ、相互依存の関係においてはじめて文字としての効用を存分に発揮できるもの]です。[文字と文字との間には、最も親密な関係のある場合と、めったに共存しない場合があり]ます。

[すなわち銘文は単なる文字の無機的な集積ではなくして、ある構成を持った文章であるという点に着眼する]のです。「復元すべき対象は個々の文字ではなくして、その文章が構成している文章の復元である」ということになります(『全集21』pp..46-47)。

個々の関係を見て、全体を組み立て、その全体構造を検証するという方法です。個々の部分において適切であるものを前提にして、構築された全体が適切であるならば、正しさの検証になるでしょう。ビジネスでも使える「全体最適の方法」ともいうべき方法です。

      

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■ビジネスで大切なのは演繹よりも帰納的なアプローチ:業務の記述が基礎

      

1 演繹的なアプローチは特別な方法

ある理論をそのまま受け入れて、ビジネスを行うというのは、高度なことです。星野リゾートでは、ビジネス書の言う通りに経営するというお話も聞きましたが、特別な事例だと思います。こうした演繹的なアプローチは、標準的な方法だとは思いません。

一般的には、現実を記述することから始めるべきだと思います。業務を記述するということです。現在の業務実体を、そのまま書いていくことから始めるべきでしょう。記述することによって、改善点が見えてきます。記述するだけで成果が上がるのです。

業務を記述するということは、業務を「見える化」するということになります。業務を遂行しているだけでは、業務を客観化できません。業務の記述によって、客観的に業務が見えてきます。当然、現実の業務実体が完璧な仕組みになっているはずはありません。

      

2 業務を記述して改善点を見出すこと

業務が記述できるのなら、まず100%改善につながります。こういっても、嘘にはなりません。書きながら、次々こうしたほうがよいというアイデアが出てくるのを、何度も見てきました。実際の業務を正確に記述していくことは、実力養成にもなります。

そこから改善点を見出すうちに、効果的な仕組みがどんなものであるかが、わかってくるはずです。現在行われている業務の仕組みが叩き台になって、よりよい仕組みに作り替えていくことが出来ます。新しい仕組みを説明する場合に、記述が不可欠です。

業務というものは、実践する限りにおいてはダイナミックに動いています。それを記述してみると、業務の静的な仕組みが見えてくるのです。動いていたものが止まって見えるならば、気がつくことが出てくるでしょう。それが記述の効果です。

      

3 業務マニュアル作成による業務改革の方法

自分で気がついたものは、個々の断片にしかすぎませんが、その断片の部分を変更していくことが改善ということになります。部分の改変が効率化につながるかどうか、その場である程度はわかるでしょう。それを実践して、実際の成果を見ていく必要があります。

記述の段階での改善案が、実際の成果を生むようになると、だんだん改善の仕方というか、コツがわかってくるはずです。それだけでなくて、改善を進めていく先に、新しいモデルまで見えてくるかもしれません。これが帰納的なアプローチの効果です。

現実を見て、具体的な部分を改善していき、今度は新しい仕組みが作られていくということになります。新たな仕組みを定着させるためには、どういう風にしたらよいのかを書いておかなくてはなりません。ここでも記述が基礎にあります。

記述によって新しい仕組みを作り上げるというのは、いわばプロトタイプを作成した段階です。実践しての検証により、新しい仕組みの採用の可否が決まります。成果が上がって快適になるなら成功です。これが業務マニュアルによる業務改革の方法になります。

     

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■閾値の発想:飛躍のために必要な仕掛けについて

     

1 反応がおこるのに必要な水準

閾値(イキチ/シキイチ)という用語があります。反応が起こるのに必要な水準のことです。障碍者の会にいたときに、薬の効き方に、これほど個人差があるのかと思ったことがあります。わずかな薬で十分なほど反応がある人がいる一方、反応がない場合がありました。

ある人にとって、ある薬がとても効果的だったからといって、別の人に同じ条件で効果が表れるとは言えません。反応が悪いときに、薬の量を増やせばよいのか、別の薬にするのがよいのか、どちらを選べばよいかについて標準化するのは、簡単ではないでしょう。

業務についても、同じことが言えるのではないかと思います。一定以上のエネルギーの集中がないと、効果がなかなか現れてこないことがあります。もっとエネルギーを投入すべきなのか、別のアプローチをとるべきなのか、簡単には決めかねることがあるはずです。

     

2 どんな項目に・どんな水準が必要か

業務について考えるとき、閾値の発想を持つことが大切なことになります。実際のところ、重々わかっていますという人がたくさんいるはずなのです。ところが、何かのときに、ああそうでしたねということになります。あまり意識していないのです。

ある地点を超えてから急速に効果が出てくることがあることを知っておけば、成果が出るまでの過程で失望しなくて済みます。なんらかの調整が可能かもしれないという発想に立つならば、何がどのくらいになれば、成果が出てくるのかが見えてくるかもしれません。

検証の際に閾値を意識して、「どんな項目に関して」「どんな水準まで達しないといけないのか」を問うことが、次の手を考えるときの重要な手掛かりになるはずです。このときの指標が正しければ、そのまま現状把握のための評価基準にもなります。

     

3 成果を感じ取ること

閾値という発想を活かすためには、やはり日々の状況をいかに正確に評価できるかということが問題になってくるでしょう。これには訓練が必要かもしれません。優れた療法士の人達は、リハビリテーションの成果に対して敏感で、かなり正確に評価します。

リハビリテーションというのは、成果が出るまでに長時間かかるとみられがちです。たしかに大きな成果になるまでには、長い期間が必要かもしれません。しかし適切な訓練ならば、1日行えば1日分の成果が表れます。それを感じ取れるかどうかが問題です。

適切な訓練を積み重ねていくと、ある一定のところまで行くと質的な転換が起こり、新しい訓練が可能になって、さらなる効果を上げていくことができます。わずかな変化を感じ取って、その先に起こる転換を読み取れたなら、間違いなく成果を上げるでしょう。

おそらく業務も同じです。一日一日の成果を積み重ねていくこととともに、飛躍を起こす仕掛けを見出すことが必要になります。飛躍するということは、あるところで質的な転換が起こるということです。飛躍をもたらすには、閾値の発想が不可欠といえるでしょう。

      

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