■日本語の基本パターン:「誰・何・どこ・いつ」と「は・が・を・に・で」

     

1 形式的パターンが内容に先立つ

私たちは言葉を話すとき、特別意識して話してはいません。ある種のパターンが身についてしまえば、そう苦労なく、形式に当てはめることが出来てしまっているようです。そうなってしまえば、あとは内容が問題になります。形式が内容に先だつということです。

形式、パターンが先だというのは、言葉を話し始めた子供たちを見ればわかると思います。小さな子供にしばしばみられる受け答えを聞いたことがあるかもしれません。「好きな動物は何ですか」と聞かれたとき、子供たちはその動物名だけを応えれば十分です。

答えの動物がキリンだったなら、「どうしてキリンさんが好きなの?」と聞き返すことがあると思います。そのとき、「だって私は、キリンさんが好きなんだもん」という答えを聞いたことがあるでしょう。「どうして」に対して「だって」で答えるパターンです。

内容を見れば、質問に対して十分に答えたことにはなっていません。しかしこのパターンで答えること自体に違和感はないはずです。心配になる受け答えではありません。徐々に、内容が伴ってきます。私たちは言葉をパターンで運用しているということです。

      

2 基本形「いつ、どこで、誰が、何を、どうした」

日本語にも当然のことながら、基本構文が存在します。誰もが知っているのは、「いつ、どこで、誰が、何を、どうした」というものです。これは日本語の特徴をよく表しています。日本語の構造がどうなっているのか、確認してみると、それがわかるはずです。

まず「どうした」という文末が日本語の文を束ねています。「いつ/どこで/誰が/何を」のそれぞれが、文末の「どうした」と対応しているということです。「いつ…どうした」「どこで…どうした」「誰が…どうした」「何を…どうした」となります。

日本語では、文末の言葉が、センテンスの骨組みになる言葉を束ねる形式をとっているのです。私たちは知らないうちに、このパターンでセンテンスを作っています。文末が来れば、センテンスが終わりです。終わりの時点で、意味が確定することになります。

日本語では文末が大切です。文末が、その前に置かれた骨組みの言葉を束ね、意味を確定し、センテンスを終えます。文末が「…ではない」となっていれば、それまでに記されていたことが否定されることになります。日本語では、最後に意味を確定するのです。

     

3 目印になる助詞「は・が・を・に・で」

また文末の前に置かれる言葉が「誰・何・どこ・いつ」である点も日本語の大切な決まりです。これらがセンテンスの骨組みを作っています。この際、「誰・何・どこ・いつ」が4つの要素に分類される点も重要です。主役と文末、さらに要点と条件が付加されます。

「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」で見てみましょう。「いつ・どこで」という条件が示され、「誰が」という主役が出され、「何を」という要点が付加され、文末で束ねられています。「主役」「主役以外の要点」「TPOの条件」「文末」の4要素です。

文末は最後ですからわかりますが、主役・要点・条件には目印が必要でしょう。その目印として、日本語では「は・が・を・に・で」という助詞が接続されます。主役には「は・が」、要点には「が・を・に」、条件には「に・で」が接続されることになるのです。

     

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■日本語の文法分析の基礎:助詞「は・が・を・に・で」

    

1 小学生が文法分析をするフランス

日本語を外国語のように扱うように主張したのは清水幾太郎でした。『論文の書き方』の中で、フランスの事例をあげています。フランスでは小学生の時に「フランス語」という授業があって、そこで[既に小学校で文章の文法的分析を教えている]のです。

清水自身は日本語で文法的分析を行ったわけではなくて、外国語との格闘の中で、センテンスを文法的に分析することを身につけていったということでした。外国語が一定レベルを超えた人なら、その外国語を手がかりに日本語の文法構造を感じ取れるのでしょう。

しかしそれが出来るのは、かなりの年齢になっていなくてはなりません。小学校のころから、センテンスを分析できるスキルを身につけておいた方が圧倒的に有利になることは間違いないように思います。日本語ではまだ、分析するときの文法が確立していません。

     

2 文を作るときに不可欠な助詞

現在日本では、脳にある言語野に障碍が起きて言葉が不自由になった人達の症状を「失語症」と呼んでいます。この人たちの症状でしばしば見られるのが、助詞を使うのが不自由になるケースです。日本語では助詞が使えないと、言葉がつなげていけません。

文を成立させるためには、モノ・コト(誰・何・どこ・いつ)を表す言葉があったうえに、その言葉がどんな役割を果たすのかを示す助詞が必要です。助詞が使えなくなると、文をつくるときに苦労します。これは小学1年生の場合も同様です。

日本語の場合、モノ・コトの名前を憶えて、語順を身につけただけでは、まだ適切な文になりません。会話なら「飛行機、見えた」と言ってもおかしくありませんが、文として記述する場合には、こうはいかなくなります。助詞をつけていかなくてはなりません。

逆に言うと、助詞の使い方が適切になると、文が作れるようになっていきます。失語症の人たちとのお付き合いが10年ありましたから、言語野の発達が未熟な小学生の場合にも適応できるだろうと思いました。これを利用して、作文の指導をしたことがあります。

     

3 文を構成する要素を示す目印「は・が・を・に・で」

小学生1年生に作文を教えるとき、絵を見てそれを文にするのは、しばしば行われていることです。図解にあるたくさんの絵を見て、そこから文の対象を選び出すことから始まります。並んでいる絵の中から、文の主役になるものを選択するということです。

文を作るときに最初にすることは、センテンスの主役の決定です。ゴリラの絵がいいとなったら、「これ!」と言うでしょう。こちらが「ゴリラ…」と言えば、「ゴリラが」と言うはずです。主役に選ばれたものを表す言葉には、助詞「が」が接続します。

ゴリラがバナナをもっていて、まさに食べようとしている様子が描かれていた絵だったならば、どうでしょうか。こちらが「ゴリラ…」と言えば「ゴリラが!」と言い、「バナナ…」と続けると、「わかった!」「ゴリラがバナナを食べている」と言うはずです。

適切な助詞を接続させることが文をつくるときの基礎になっています。文法的分析というのは、これを反対から行うことです。文を構成する要素を確認するとき、助詞がその手がかりを与えてくれます。中心となる助詞は「は・が・を・に・で」の5つです。

    

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■数字のセンスについて:新型コロナの感染者数を事例にして

     

1 理系は数字に強いのか

文系、理系という分け方に、ときどき戸惑いを覚えることがあります。文系だろうが理系だろうが、経済指標を見るのは当たり前ですし、企業の決算から始まって、ビジネスでは数字がわからなかったら、どうにもなりません。理科系の人が数字に強いでしょうか。

最近になって、どうやら文系理系とは別に、数字に対するセンスというべきものがあることに気がつきました。例えば、新型コロナの感染者数を毎日見ていると、そこから何らかのトレンドを見出してしまう人たちがいます。逆に全く気づかない人もいるようです。

ピークがいつで、今後の感染者がどうなるか、予測が次々当たる人たちがいます。当然のことですが、お互いに分析法など話しません。それでも結果は同じです。見ているところがたいてい同じになります。グラフを見ていると、モデルが見えてくるということです。

      

2 第5波のピークアウトが見えたか

新型コロナの例で言えば、一部の人たちの間で、8月23日に第5波のピークアウトがほぼ確認できたね…という話が出てきました。これなど、当たり前すぎる話ですが、「何で?」という人がいます。理科系であっても、わからない人はわからないのです。

毎週最多の日の感染者数をつなげて折れ線グラフにしていくこと、もう一つは、毎週最少の日の感染者数を折れ線グラフにすることで、ピークアウトが見えます。毎週最多のグラフと最少のグラフがともに下向きになったら、ピークアウトだと判断するのです。

第5波で確認できたのが8月23日でした。すでに最多のグラフが下向きトレンドになっていたのです。したがって月曜日の感染者数を見て、前週の最少の日(たいてい月曜日)よりも感染者が少なくなっていたら、最多と最少のグラフがともに下向きになります。

そうしたことが見える人なら、ピークの日を中心にして感染者数のグラフの前後がほとんど対照的になるのにも気づくはずです。対称性を基準にすれば、波の前のボトムからピークまでの期間を見ることによって、ピークから波がおさまるまでの期間がわかります。

      

3 モデル化と図解の効果

もう少し長いトレンドを見ると、第4波までの波と第5波での違いにも気がつくかもしれません。波の前のボトムと波の後のボトムがどうなっていたかを確認してみると、どうでしょうか。第4波までは、波の前よりも波の後の感染者数が多かったはずです。

ところが第5波の場合、波の前の最少感染者数を、波の後が下回っています。長期トレンドで見れば、拡大期が過ぎて収束に向かっている可能性に気づくはずです。新型コロナに限らず他の事例からしても、この場合、トレンド変化の確率が高いと思われます。

これらは数学的な計算ではありませんが、数字の変化を見る感覚の問題です。最近になって、こんなこと当り前だと思っていましたが、気づかなかった人が多数派であることを知りました。どうしてわかるのかと聞かれるうちに、ああ…と思いました。

業務を見るときに標準化モデルをつくろうとすること、数字の変化を図で見ることがクセになっているのです。構造やモデルを見出そうとすれば、数量の推定が出来るようになってきますし、推定の検証も可能になります。観察の問題が関わるように思います。

      

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■文章チェックの基本とその方法:文章チェック講座を終えて

     

1 文章構成・センテンス・内容が問題

文章チェック講座を行ってきました。おおぜいの方に参加していただいて感謝しています。オンラインと会場とのハイブリッド講座になりました。会場での受講者は少数派です。現時点ではどの講座でもオンライン受講される人が圧倒的に多くなります。

文章をチェックするときに見ていく必要があるのは、おもに3つです。(1)どんな文章構成をしているのか、(2)各センテンスが適切な表現になっているか、(3)内容が適切であるか。これらをどうチェックしていけばよいのかということになります。

なんとなく面倒そうな話になりますが、評価される側が納得できるかどうかということがポイントになります。評価された人が納得できなくては、せっかくのチェックの効果がありません。あわせてどうすれば改善できるかという点も示していく必要があります。

同時に、現実的な問題として、リーダーはすべての部下の教育をするわけにはいきませんから、これから伸びるであろう人を選び出すことが必要です。ドラッカーは、普通の人を一流にすることは、一流を超一流にするよりも大変だと言っていました。

     

2 自説・記述形式・基本知識をチェック

文章チェックをする目的として考えられることは、チェックによって部下が改善していくようにすることと、リーダー候補を選抜するということになります。同時に、文章チェックをすることによって、チェックする側の実力がつくということも大切です。

では、何をチェックすべきでしょうか。まず第一に、ビジネス人が書く文章には、自分の考えがなくてはいけません。自説を明確に書くことが必要になります。これが最初のポイントです。自説を明確に示し、その理由を示していることが不可欠です。

第二に、文章が伝わる形式で記述されているかが問題になります。読む側に正確に伝わらなくては、内容がどんなにすばらしくても価値がありません。第三に、地位にふさわしいだけの基本知識があるか、妥当な判断が出来ているかをチェックすることが必要です。

      

3 日本語の問題と文章チェック

言うべきことが明確ならば、記述はかえってシンプルな構造の方が伝わります。自説の結論を簡潔に記述して冒頭におけば、それで問題ありません。逆に言えば、最初のブロックを読んだだけで、全体が評価できてしまいます。冒頭の文章はきわめて大切です。

さらに各センテンスごとに文末をチェックしていきます。「だ」と断定が続くものは、強引な論法になりがちです。また「だろう・かもしれない」の多い文章は、曖昧で明確性に問題があることが多いでしょう。文末に注目して見ていくことが必要です。

文末に注目したなら、その主体になる言葉が、何であるのかも押えておかなくてはなりません。センテンスの主役となる言葉(文末の主体となる言葉)が明確なものでない限り、その文章はダメなものです。各センテンスを見ると、全体が見えてくることがあります。

文章チェックをしようとすると、私たちは日本語の問題に直面します。文書を作成するときに構成をあまり重視していませんし、日本語文法ではセンテンスの分析方法が確立していません。文章をチェックことは、こうした問題を意識するよい機会になります。

    

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■プロフェッショナル人材育成の参考書:イェフディ・メニューイン著『ヴァイオリンを愛する友へ』

    

1 ヴァイオリンの天才:メニューヒン

ヴァイオリニストのメニューヒンをご存知の人がいると思います。クラシック音楽が好きな人なら、この人の演奏録音を聞いているでしょう。天才的なヴァイオリニストの一人です。ありがたいことに、この人には自分の演奏メソッドを記した本があります。

『ヴァイオリンを愛する友へ』という本は、知る人ぞ知るものでした。しかし、いまではもはや知らない人がほとんどになってしまったことでしょう。ヴァイオリンの練習法について書かれていながら、それだけにとどまらない内容になっています。貴重な本です。

この本の著者名は「イェフディ・メニューイン」となっています。一般には、ユーディ・メニューインと記されることが多いようです。なぜかはもう忘れてしまいましたが、何かのときに感じた愛着のために、「メニューヒン」という呼び方をしたくなります。

      

2 練習に必要な「かるみ」

この本には、魅力的な言葉がいくつもあります。[進歩のない真理はいつか滅びる。真理は絶えず、実地に検証され応用されて鍛えられ、改良されなければならない。音楽の真理も人生の真理もそれと同様である]。検証に鍛えられて真理になるというのでしょう。

こんな言葉もあります。[エネルギーと熱意を練習に注ぐのは無論悪いことではない。しかし、ありあまるほどの意志、野心、勇気を10時間にもわたって注ぎ込めば、切迫感のあまりせっかくの練習を台無しにしてしまうし、正しい勉強の方向を見失ってしまう]。

一見意外ですが、自ら検証した結果の言葉でしょう。ではどうすればよいのか…。[練習には軽い気持ちで気楽に取り組まねばならない。そしてひたむきな集中力で取り組まねばならないのだが、これはやみくもな決意などより、はるかに難しいことなのである]。

芭蕉のいう「かるみ」にあたるものかもしれません。必要なのは[継続する意思、粘り強さ、信念]であり、力が抜けているものがよいのです。不必要なのは[独善的な考え方、押しつけられた解釈、成功への野心-これらはすべて演奏の質を損なうものだ]…と。

      

3 最初から自分で勉強する姿勢が必要

『ヴァイオリンを愛する友へ』のはじめにおかれた「刊行にあたって」で、[学習には次の三つの段階がある]と記しています。3つとは、(1)お手本による模倣、(2)正規のレッスンを受けること、(3)自分で勉強すること…です。めずらしい分類ではありません。

これらに続いて、以下の言葉が語られます。[この三つの段階は別々のモノではなく、常に並行して行われるものである]。3つをステップ式で駆け上がる発想では限界があります。やはりこの本はプロフェッショナル人材を育成するための本なのです。

最初から、自分で勉強していく必要があります。自分での勉強にコメントがつけられています。[さまざまなヒント、お手本、機会、仲間・巨匠との出会い、個人研究など、ありとあらゆるものを利用する]。これあってこそ、模倣やレッスンがうまくいきます。

自分流の訓練法を考えるとき、この本は大いなるヒントになり、お手本になるはずです。原題は「Life Class」、人物画の授業という意味だとのこと。自ら実践して検証するならば、この本はとても役立つはずです。メソッドづくりの参考書というべきでしょう。

      

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■日本語の構造を決める「意味概念」:品詞よりも優先すべきもの

     

1 一言で表現できない概念

私たちは文章を読み書きするときに、意識せずに案外めんどうなことを自然に処理しているようです。「ある」と「いる」の使い分けを聞いてみると、たいていの人はどういう言い方にしたらよいかと戸惑いながら、使い分けできていることがわかります。

非生物のときには「ある」が接続し、生物のときには「いる」が接続するといえば、それは違うと気づくことでしょう。たとえば樹には「ある」が接続しますが、非生物ではありません。一言で表現できる用語がなかなか思いつかなくて、戸惑うはずです。

しかし自ら動かないものには「ある」が接続し、自ら動くものには「いる」が接続するということは、当然わかっているのです。日本語で「誰」を使うとき、人に限らず自ら動くものを意識していることもわかってきます。案外めんどうだとも言えるでしょう。

      

2 「ある」と「いる」の品詞の違い

「ある・いる」の場合、その否定形も問題になります。「ある」の否定は「ない」ですし、「いる」の否定は「いない」であることは問題になりません。だから「公園に砂場がある」の否定が「公園に砂場がない」となることは当然のこととされます。

「公園に砂場がある」と「公園に砂場がない」とは、同じ構造の文といえるでしょう。「公園に砂場が」までは同じですし、そのあと肯定と否定の文末が来ているところが違うだけです。同じ構造と考えるのが素直なのですが、問題がないわけではありません。

「ある」は存在を表します。「ない」は非存在を表します。意味上の対比はクリアです。しかし品詞になると両者に違いがでてきます。「ある」は動詞、「ない」は形容詞です。
したがって例文の文末が「ある」なら動詞文、「ない」なら形容詞文になります。

存在が持続しているのですから、「ある」は動詞なのでしょう。ヘンではありません。「ない」の場合、存在しない状態を示している点で静的です。したがって、「ない」が形容詞であることも問題ないでしょう。そうなると、何が問題なのでしょうか。

      

3 品詞よりも上位概念とすべき「意味内容」

私たちが文の構造を把握するときの自然な思考と比べて、文末部分にある述語の品詞をもとに、日本語の文構造を3つに大別する発想がおかしいのです。述語の品詞を見て、名詞文、動詞文、形容詞文という分類をしたところで、文の構造は見えてきません。

品詞に基づいた構文の分類はナンセンスなものです。「ある」の品詞が動詞だから「公園に砂場がある」は動詞文、「ない」の品詞が形容詞だから「公園に砂場がない」は形容詞文です。だから両者は文構造が違います…。こんな説明では、役に立たないのです。

日本語は文末が大切な言語です。文末が「…ではない」と結ばれていたら、それまでの記述がひっくり返ります。ただ、そこで大切なのは意味概念の方です。他の言語でも同様でしょうが、日本語の場合も、品詞に基づいて体系が作られているわけではありません。

日本語の場合、とくに品詞の概念に頼れません。意味内容を表す概念から、2つの例文は自ら動かないものの存在を表す文と、非存在を表す文であって、同じ構造の文だと言うべきでしょう。品詞よりも「存在」という意味内容が上位概念になるということです。

     

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■少数にすると精鋭になるということ:少子化に期待する理由

     

1 少数になって精鋭化した事例

少数精鋭という言葉があります。少人数の精鋭たちを集めたということです。これが少数にすると、精鋭になるという意味をも持つようになっています。再建王と言われた坪内寿夫が1980年代に提唱したことによって、この概念が定着したのかもしれません。

おそらく多くの人が、その通りだと思う事例に出会うことでしょう。じつのところここ数年、妙なことが気になっています。留学生の人数のことです。新型コロナが拡がる前、ある種の異変が起こっていました。とくに顕著だったのは、韓国からの留学生でした。

かつての韓国からの留学生たちは、穏やかないい感じの若者たちが多かったのです。ところがその後、韓国からの留学生の人数が増えだしてから変わりました。量が質に変ったのでしょうか。ある時から、唖然とするような若者たちが目立ちはじめるようになります。

人数がそのまま質の低下につながったわけではないでしょう。しかしその後、韓国ではボイコットジャパンが拡がります。その影響からか韓国からの留学生の人数が減りました。そうなるとまた、逆に戻ったのです。明らかに精鋭になったという感じがしました。

     

2 少数が全体に与える影響

韓国国内の事情もあったようです。国内の就職難から日本留学を決めるケースがかなりあって、反日的な態度の学生がいました。日本の会社に就職したら、なるべく早くやめて韓国に帰ると言うのです。日本企業に就職すると、韓国での就職が有利なようでした。

この種の人たちがやってくれば、全体に影響を与えます。少数が全体に影響を与える場合、よくないことの方が拡がりがちです。一部の日本企業から、気をつけろという話を聞いたのはそのころでしょうか。これではお互いに不幸な結果を生みます。

新型コロナの影響で、2022年から、留学生が激減することでしょう。その直前の2021年現在、留学生の数がほぼ半減しています。驚くべきことに、留学生全体の授業態度が激変しているのです。明らかにまじめになって、教師側の丁寧な対応も可能になっています。

      

3 少子化に期待できる理由

もしかしたら、急に留学生を拡大しすぎたのかもしれません。突然やってきたたくさんの留学生に、学校側が対応しきれなくなっていたはずです。学校経営からすると、いまは厳しい時期かもしれませんが、個別の対応がかなりできるようになっています。

少数にしたから精鋭になったとは一概に言えませんが、手間のかかるあれこれに対して、人数という絶対的な基準が影響を与えないはずはありません。さらに人数の変動を起こした要因が当事者に心理的な影響を与えています。ラッキーという意識があるようです。

圧倒的多数を占める中国からの留学生には、たいてい手を焼くことになりますし、いまもそうでしょう。しかしその手間が半減したと感じるくらい、明らかに様子が違います。結果だけで見るならば、少数になって精鋭になったと言ってもおかしくないのです。

日本では少子化が心配されています。しかし悪いことではないのかもしれません。少数にすれば精鋭になるという期待があるのです。実際、優しい偏見のない学生たちが増えているように思います。障碍者の会で活動していましたから、このことは身に染みています。

      

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■宮崎市定と横光利一の『旅愁』:歴史の発想について

    

1 大戦の中間期に特有な煩悶

おそらく横光利一の『旅愁』という小説を読む人は、もうほとんどいないでしょう。この小説を読んで大切にしている人間にとって、宮崎市定の支持は心強いものです。絶賛といっていいほどの褒め方をしています。これには、ちょっとした因縁があるのです。

宮崎は昭和11年2月20日、フランス行きの箱根丸に乗り込みます。台湾海峡を過ぎた頃、東京で二・二六事件が起こったのを聞いて船内でも大きな衝撃をもって受け止められました。この船に横光利一も乗っていて、宮崎市定は横光と知り合いになります。

▼小説『旅愁』の発端が箱根丸の航海を借景としていることを知ったのはつい最近のことであり、読み始めてみると不思議な魅力にぐんぐん引かれて、最後まで読み通した。単に小説としてではない、ここには二度の大戦の中間期に特有な在留邦人の煩悶が取り上げられていることで、私は横光さんの歴史に対する鋭敏な感受性を知って改めて感心したのである。 「東と西との交錯」:1976年10月

『旅愁』には、箱根丸の船客らしき人物が登場します。ところで[主人公の矢代は、大学講師級で、歴史の実習のため半年間ほど、叔父の金で渡欧し、著作に心がけている]のですが[箱根丸船中を見渡して、私自身の他に歴史屋というものは居なかった]のです。

      

2 宮崎市定による『旅愁』への絶賛

宮崎は知らないうちに小説の主人公になっていたようでした。ただ主人公だと言われたら[私は真っ平御免だ、と抵抗するだろう。それは矢代青年は歴史屋でありながら、少しも歴史屋の体臭を発散させぬからである]と記します。同時に小説を絶賛するのです。

▼『旅愁』は文章の良さは言うまでもないが、女の対話がことに美しく、しみじみとしたストーリーの運びは何だかモーロワの小説でも読んでいるような面白さを感じさせる。ひょっとしたらこれは日本人放れのした、世界文芸上の大傑作なのではあるまいか。

宮崎は『旅愁』の中の東野の言葉を引いています。[外国から来た抽象名詞というやつは、分析用には使うけれども、人間の生活心理を測る場合には、極力使わない用心をしているんだ]。宮崎は、[これは歴史家の用心と共通する]と記しました。

歴史家に限らないことでしょう。宮崎は身にしみる言い方で、大切なことを語っています。[横光利一は、だから東西文化を比較するに、その本質とやらを探るような発想法を用いない]。まさに発想自体の問題です。ではどうしたらよいのでしょうか。

      

3 歴史学の発想

宮崎は横光の言葉を引いて、歴史の方法を示します。[パリなんて所は、僕等の生きている時代は、これ以上の文化が絶対に二つと出ることのない都市です]という言葉は、[現代という時点でのパリだと、ちゃんと押えている]、その点を評価しているのです。

また[日本にパリだけの美しい通りのできるまでには、まだ二百年はかかるよ]という言葉を褒めます。[相違を、何よりも先ず時代の落差で押えようとしている。本当に二百年でよいかは別問題として、はっきり数量で押えたために、ぐっと実感が沸く]のです。

▼抽象語の議論の中には、具体的な数量はめったに出てこないものだ。実感と明晰、これは正しく私の考えている歴史学の立場そのままである。小説家、横光利一は歴史がわかるのだ! その頭の良さは抜群である。

この歴史の方法は、実務を行う人間が持つべき発想法として、必要不可欠なものでしょう。以上の文章が所収されているのは『宮崎市定全集』20巻です。抜粋が文庫化されました。宮崎の書いたものを読むと、「頭の良さは抜群である」と感じさせられます。

      

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■文章チェックという方法:判断の素材としての文章

      

1 文章チェック講座の定番化

本音がどこにあるのかを確認するときに、文章による確認は、かなり有効な方法であることが知られています。本当に言いたいのは、何であるのか、そのあたりを探ることが王道でしょう。同時に、かえって思わぬところに、真実が出てしまうこともあるはずです。

以前、文章の研修を依頼されたときに、実際のところリーダーの選抜に使いたいというお話をいただいたことがあります。それはなかなかクレバーな方法ですね…とお答えしました。実際の文章講座を行い、そのあと上司にチェック方法を説明したのでした。

それから何年かして、セミナーの担当者との雑談のときに、こんなことを話したことがあったようです。しばらくして別件でお会いしたときに、あれを講座にしたいということになりました。文章チェック講座が成立して、ありがたいことに定番化しています。

      

2 文章という素材を使っての検証

文章というのは、書かれたものを何度も反復して確認できるものです。たいていの人は、何となく感じていることがあっても、明確な根拠がなくて、なかなかこうだと言えなくなることがあります。それは当然のことです。しかし文章ならば、痕跡が残ります。

文章という固定化されて、見える化されている素材を使って、感じたことを根拠づけていくことが可能になるかもしれません。いつでも、それが正しいわけではないでしょうが、かなりのことを文章は語ってくれます。それを客観的に指摘できることがあるはずです。

このことは、書く側にも教訓となるはずことでしょう。自分の言いたいことがこれで伝わるのかどうか、文章にしておけば自分で検証することが可能になります。自分の思いを自分でつかみ取るためには、書いておくことが有利に働くのは間違いありません。

そして思うのです。文章が書けるということはどんな状態を言うのでしょうか。こうした問題には、おそらく…という答えしかできませんが、文章が書けるというのは、自分で自分の文章が適切に修正できることを言う…と言いたいのです。今はそう思います。

      

3 文章重視の傾向が強まるのは当然

今回の講座を企画してくださった人の考えでは、部下の文章をチェックするというのが趣旨だったはずです。あいかわらずその点が主な目的でしょうが、それに加えて、自己チェックをしましょう、その方法を提示します…ということも意識した講座にしました。

すでにかなり多数のお申し込みをいただいているとお聞きしましたが、残席僅少とのことですので、まだお申込み可能だろうと思います。もしご興味ある方がいらしたら、ぜひお聞きください。一番ベーシックな講座として、この講座を育てていきたいと思うのです。

いままで講座でやり取りした方から、たくさんのことを学ぶことが出来ました。講座の内容が徐々に受講される方々の目的意識に影響されて、修正されていきます。このことがテキストでも確認できるのです。強い組織での文章重視の傾向が、年々強くなっています。

アマゾンでの会議では、プレゼンをやめてA4一枚の文書が渡されて、それを読んでから会議が始まるとも聞きました。なかなか優れた方法だと思います。この方が過不足のない情報が盛り込めますし、効率がよいはずです。文章を重視するのは当前のことでしょう。

      

文章チェック講座 : 2021年10月12日(火) 10:00-17:00

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■梅棹忠夫『文明の生態史観』とモンゴル帝国

     

1 衝撃的だった「文明の生態史観」

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は重要な書物と扱われているようです。『新・現代歴史学の名著』にも取り上げられています。樺山紘一は、最初の論文が1957年に[掲載されたとき、日本の論題には大きな衝撃がはしった]と解説に書いています。

この論文で梅棹は[世界史についての総括的な理論を提示した]のでした。[高度の文明を建築できた地帯と、そうでない地帯]に分けて、両者を第一地域、第二地域に区分しています。[封建制を十全に経験した]かどうかが、両者を分けているとの主張です。

樺山は、以下のように予測した正確さを指摘しています。[第二地域は、将来四つの巨大なグループの併立状態にはいる可能性がかなりおおいとおもう。中国ブロック、ソ連ブロック、インド・ブロック、イスラーム・ブロックである]。

     

2 組織の遷移を考えるヒント

梅棹の理論は生態史観と名づけられました。梅棹自身の言葉で言えば、[主体と環境との相互作用の結果がつもりつもって][サクセション(遷移)という現象がおこる][条件がちがうところでは、運動法則がちがうのは当然]という考えです。

しかしこの部分の詰めが出来ていませんでした。そのため樺山は[のちの展開がおおいに期待されるところであった]と記すことになります。遷移を起こした要因となる[主体と環境との相互作用]をもっと詰めない限り、安定した理論にならないのです。

ビジネス人にとっては梅棹の仮説が詰められていくと、組織の遷移を考えるヒントとなるはずでした。遷移を起こした主要因は何かということです。この点、岡田英弘は『現代中国と日本』で[十三世紀にモンゴル帝国が出現し]たことに焦点を当てました。

[中国も、ロシアも、インドも、みんなモンゴル帝国が生み出した国家であり国民です]から、[現代のユーラシア大陸の国民国家のほとんど全部が、その起源をさかのぼると、モンゴル帝国から分かれてできたもの]という視点を提示したのです。

     

3 モンゴル帝国の特徴

岡田は、モンゴル帝国の支配が[治安の維持に熱心で、商業を保護したために、ユーラシア大陸の東西を結ぶ陸上貿易が大発展した]と指摘しています。欧州と日本は[陸上貿易の利権から締め出され]たため[海上活動がはじまる]ことになったのです。

ではモンゴル帝国の特徴はどこにあったのでしょうか。宮崎市定が『西アジア遊記』に一筆書きしています。[十字軍の時代、西アジア、ヨーロッパの人民は、何等かの宗教を信奉し][宗教のない人間というものは考えることさえ出来なかった]のでした。

[そこへ突然無色透明な人類]であるモンゴル人がやってきます。[彼等は他人の信仰内容に立ち入らんとせず、また立ち入らんとする興味もなく、ただ政治的に彼らの前に屈状叩頭すべきことのみを要求して満足した][宗教上にはもっとも寛大なる征服者]です。

[蒙古大帝国の出現は西アジアとヨーロッパの宗教的対立を解消せしめた。ヨーロッパ人は自由に蒙古帝国内を往来して通商貿易に従事しうるようになった]、その結果、イタリア諸国は再び繁栄してルネサンスに繋がった…と。もう少し詰めてみたいところです。

       

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