■『日本語の世界 第6巻 日本語の文法』を読む 第6回

     

1 アリストテレス論理学の「主辞」

北原保雄の『日本語の文法』第六章は「日本語の主語」です。現行の教科書では、ほぼすべてで主語という成分を立てているだろうと書きだしています。現在も同様でしょう。では主語というのは、どういう概念なのかと北原は問うています。

▼Subject および Predicate の語源は、アリストテレス論理学で用いられたギリシャ語の hupokeimenon(主辞)・kategoroumenon(賓辞)がラテン語で、subjectum(=thrown down)・pradictum(=declared)と訳されたものに由来し、それぞれ、「述べられる主題として投げ出されたもの」、「それについて何かを述べるもの」という意である。こういうアリストテレス論理学でいう主辞は、「主題 = 説明」の主題に相当するもので、主格であるとは限らない。 p.215 北原保雄『日本語の文法』

北原は「パンは、朝食に食べる。/今は 朝食時である。/故に 今は パンを食べている。」という推論をあげます。この場合、[主辞は、「パン」と「今」とであるが、これらはいずれも主格ではない]のです。主辞は「何について」を表すことになります。

     

2 日本語の「主語廃止論」

北原は、時枝誠記『日本文法 口語篇』で、例文「私は六時に友人を駅に迎へた」では「私/六時/友人/駅」が「迎へる」に対して[同じ関係に立ってゐる]、[日本語の主語が、述語と特別の関係を構成するものでない]との指摘を明記するのです(p.223)。

さらに三上章の「主語廃止論」をあげ、[西洋の言語における主語 = 述語関係(Subject-Predicate relation)に当たるようなものが日本語にはないのかというと、それは題述関係(Topic-Comment relation)である](p.230)という三上の見解を肯定的に紹介します。

主題が[述部の言い切り(文末)と呼応して一文を完成する]日本語は、[文末と呼応して一文を完成させるものであるという点で、英語などの主語と共通する](p.231)のです。北原は章の最後に[主語は日本語の文法論にとっては無用のもの]だと記しました。

     

3 文末と呼応しない「題述関係」

北原は日本語の文法に主語は無用であり、「主題 = 説明」の関係を日本語の中核とする見解に従います。「パンは、朝食に食べる」ならば、主題「パンは」、説明「朝食に食べる」、「今は 朝食時である」ならば、主題「今は」、説明「朝食時である」です。

主語を廃止して、主題を中核に据える見解は、その後、学説の多数説になっていきました。北原もそれに従っています。ここで問題になるのは[述部の言い切り(文末)と呼応]と言えるかどうかという点です。「パンは」と「食べる」は呼応していません。

主題と説明の理論も西洋の言語理論でした。日本語に即して生みだされた概念ではなくて、「Topic-Comment relation」です。三上は「題述関係」と訳していました。「主述関係」が文法概念だとすると、それとは別の論述(論理学)についての概念といえます。

日本語がわかるということは、「パンは、朝食に食べる」とあったら、「誰が食べるのか」がわかるということです。「私は」だとわからなくてはいけません。主体が文意の理解に不可欠だからです。文末に主体推定機能がある点を、北原らは見落としています。

      

      

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■星野佳路(星野リゾート社長)が経営者人生で最も影響を受けた本:『社員の力で最高のチームを作る』

      

1 一番ベーシックな教科書

『星野リゾートの教科書』という本で、星野佳路(ホシノ・ヨシハル)社長は古典的な教科書をきっちり読んで、教科書通りに経営すると語っていました。マイケル・E・ポーターの『競争の戦略』から始まって、コトラーだの、なかなか大変そうな本が並んでいます。

3つのパート「戦略」「マーケティング」「リーダーシップ」の各4章に教科書が示されているのを見て、とても全部読めないという声がありました。これらの本の中で、一番ベースに置かれている本は、おそらく『1分間エンパワーメント』です。

この本の新版『社員の力で最高のチームを作る』では、監訳者として「まえがき」も「あとがき」も星野が書いています。「まえがき」の書き出しは[今の星野リゾートは、この本がなければ存在しなかった。私の経営者人生で最も影響を受けたのが本書だ]です。

     

2 この教科書で成長

『星野リゾートの教科書』のリストにあがっている本の中でも、一番読みやすい本のひとつでしょう。200頁足らずのストーリー仕立ての本です。なぜ、この本が一番基礎になる本、最も影響を受けた本になっているのか、星野自身が語っています。

▼私が家業の温泉旅館を継いだ1990年代、低い社員モチベーション、高い離職率、そして採用難という組織の課題に直面していた。(中略)
本書が、エンパワーメントの方法論を具体的に示していたことを発見した私は、渡りに船とばかりに実際にやってみることにした。 『社員の力で最高のチームを作る』「監訳者まえがき」

その結果は、[その後の星野リゾートの成長は、同書の教えなくしてはあり得なかったと断言できる]と「あとがき」に星野が書いています。[エンパワーメントを成功させるためのコツは、書かれている内容を一言一句、そのまま実践することだ]とのことです。

     

3 4つのパートと「3つの鍵」

目次を見れば、どんな内容の本であるかは、わかるでしょう。4つのパートからなります。Ⅰ「どうすれば会社はよくなるのか」、Ⅱ「エンパワーメントの3つの鍵」、Ⅲ「3つの鍵を実践してみよう」、Ⅳ「成功はすぐそこにある」。

これをみれば「3つの鍵」が大切なのがお分かりになるでしょう。項目がそのまま3つのカギになっています。第1の鍵「すべての社員と情報を共有する」、第2の鍵「境界線によって自立した働き方を促す」、第3の鍵「セルフマネジメント・チームを育てる」。

ストーリー仕立ての本ですから、論文のように書いて行ったら、数頁で済んでしまう内容です。それを理解しやすいようにストーリーにしています。自分でノートにまとめるにしても、この分量ならば、そう苦労なくできるでしょう。そのくらいの内容です。

ポーターの『競争の戦略』を読もうとしても、それはたいへんでしょう。この本を読んでみれば、星野の選択が相性に合うかどうかわかります。星野の推薦がなかったら、この本を読むことはなかったでしょう。きわめてベーシックな内容の本です。

     

     

       

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■人間の読み書きの方法とAIのアルゴリズム

     

1 生成AIと人間の相性

人間は、すべてのデータや情報が集まってない状況下で、かなり正しい判断が出来る、これが人間の人間的な能力であると、ウィナーが言っていました。定型的な文書ならAIが文書生成してくれるようになります。今後、まずまず良いものになってくるはずです。

20世紀の初めに機械が導入されて、作業が自動化されました。機械化によって、いわゆる肉体労働者は激減していきます。それによって人間の仕事がなくなったのではなくて、拡大していきました。同じことが、生成AIの発展に伴って起こってくるはずです。

人間の読み書きの能力と、機械の文書生成能力は別のアルゴリズムから生まれています。両者は補完関係というべきものです。たぶん両者の相性は悪くありません。生成AIが進歩すると、人間の仕事がなくなるという発想は、現実的ではないと思います。

    

2 ルーティン業務をAIが担当

すべてのデータや情報が集まって、そこから何かを考えるということ自体、ビジネスをやっている人たちからすると、価値の高いものではないでしょう。ルーティンと言われるものの、かなりの部分をAIが担当してくれるようになるはずです。

現実社会では、新しい事態がつねに起こります。当然のことながら、判断材料がすべてそろっているなどということはありません。かならず何かが足らないのです。そういう中で、正しい判断をするためには、類推を使ったり、ある種のカンが必要になります。

すべての材料がそろっていて、誰もが同じように考えるものであるならば、創造的ではありえません。創造性というものは、ある種の飛躍が必要です。そのためには、ある程度の時間が必要になります。ルーティンをAIが担当してくれるのはありがたいことです。

    

3 あやうい基礎知識

いままで何度か、AI技術の開発をする方から、日本語分析の方法について、情報交換したいというお話をいただきました。どういうお考えなのか逆に知りたくて、お話したことがあります。数回にすぎませんが、毎回、ああまたかという感じを持ちました。

かつてお話したワープロソフトの日本語変換技術にかかわった人などと、同じ傾向があります。実績をあげてきたという自信があって、ある種の大胆さがあるのです。脳の領域の話や言語の分野について、ずいぶん単純化した素人レベルの知識を前提としています。

明らかに勉強不足なのですが、同じレベルの方々と勉強会をなさっていたりすると、その辺がわからなくなるようです。これは日本だけの特徴なのか、それはわかりません。人間の言語運用方法と機械の方法が違うというのは大前提となるものです。

たまたまお会いした人達ですから一般化できませんが、しかし一般の方でも同じように考える人が出てきています。ごく最近でも、人間が文章を読み書きする方法は、機械とは全く違うと言うと、ああ誤解していたと反応した例が、複数あったのでした。

     

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■『日本語の世界 第6巻 日本語の文法』を読む 第5回

     

1 「提示」と「説明」

北原保雄『日本語の文法』第五章「文の構造(二)-いわゆる複文・重文などの場合-」では、最初に文の種類が示され、文構造の種類が示されています。しかしポイントは、個別の例文の方にありそうです。北原はこの章で、たくさんの例文を並べています。

たとえば「観客がとてもよく入った今日の甲子園球場であります。」という文をどう考えたらよいでしょうか。北原は[主題に相当する部分が省略された表現だと一応は考えられる。しかし、そう考えるのは、やはり無理であろう](p.185)と書いています。

では、どう考えるべきなのでしょうか。「観客がとてもよく入った」が「説明」領域、「今日の甲子園球場であります。」が提示だとのこと。これを変形させると、「今日の甲子園球場は」(提示)+「観客がとてもよく入った」(説明)になるとのことでした。

     

2 「喚体構文」

例文を「提示」と「説明」に分けて考えても、何か意味があるとは思えません。もっと大切なことがあります。「文の骨組み」「文の構造」です。「観客がとてもよく入った今日の甲子園球場であります。」の骨格になるのは「甲子園球場であります」でしょう。

「観客がとてもよく入った」が「甲子園球場」に係り、「今日の」も「甲子園球場」に係っていることが重要です。こうした修飾がなされた「甲子園球場」に「であります」が付いた部分が文末になっています。つまりは例文全部が文末だということです。

この文末の主体は記述されていません。北原は省略と考えるのは無理だとして、これを独立した文形式だと言うのです。「とてもよく晴れた甲子園球場であります」という変形させた例文をあげて、同じ形式の「喚体構文」であると記しています(pp..186-187)。

     

3 主要ならざる構文の解説

日本語の場合、わかることは記さない、重複した記述を避けようとする力が強く働きます。文末を見れば主体が推定されますから、文脈から主体がわかる場合には、記述されません。北原のあげた例文は、文脈を考慮しないで、切りとった文です。

「今後も忘れられない場所になった。」を先において、続けて「観客がとてもよく入った今日の甲子園球場であります。」とあれば、後の例文の主体は「(私の)忘れられない場所は」となります。「とてもよく晴れた甲子園球場であります」の場合も同じです。

北原は第四章で、従来の学校文法のあげる成分に異議を申し立てた上で、五文型の例をあげていました。当然ながら主要な成分の組み合わせが五文型を作ります。日本語文法でも主要な成分を抽出すべきでしょう。それをしてから文構造の種類を論じるべきでした。

北原の示す「修飾=被修飾構文」「接続=被接続構文」「並立=非並立構文」などの構文は、五文型に相当するはずのない、主要ならざる構文です。構文を形成する主要成分の解説がなされ、それと関連した解説があれば、説得力を持ちえたかもしれません。

     

     

     

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■『日本語の世界 第6巻 日本語の文法』を読む 第4回

     

1 学校文法からの転換

北原保雄『日本語の文法』第四章は「補充成分と修飾成分」です。1981年出版の本ですから、学校文法という言い方がしばしばでてきます。まだ学校での文法が影響力を持っていた時期でした。実際には、影響を持っているように見えた時代だったかもしれません。

北原は[今日の学校文法では、文の成分を主語・述語・修飾語・並立語・接続語・独立語などに分けるのが一般のようである](p.122)と確認しています。その上で、これらの言葉が「-語」という形式になっているが、「-成分」と呼ぶべきだと言うのです。

[新しい概念規定を与え]る場合には「-成分」、[従来の用い方に従う場合に]は「-語」と記載するとのルールを示しました。北原は、文の成分のうち[中でも連用修飾語は最も問題である](p.122)としています。従来の文法ではひどかったのでしょう。

    

2 補語概念

かつては並立語も接続語も連用修飾語と扱われていたようです。その後も[きわめて未整理な成分で異質なものが雑居しており]という状態だったらしく、[この成分を正しく整理しなくては、日本語の文構造を正確にとらえることはできない]と記します(p.123)。

北原は、「連用補語と連用修飾語」についての三上章の説明を引き、修飾を表す[モディファイ(modify)という英文法の術語を用いている]ことから連想を働かせることになりました。三上はいわゆる修飾語ではなく補語だという説明をしたのです。

「補語」は学校文法にはない成分ですが、英語の5文型で知られています。北原は[すべてをこの五つの文型に分類しおおせるものではなく][補語(complement)は曖昧]な概念であるといった問題点がありながらも、英語教育で使えている点を評価するのです。

    

3 5文型というシンプルなツール

北原は[日本語とはおのずから構造の異なる外国語の文法を無分別に猿真似するのはよくないことであるが、既成の日本語文法論を無思慮に鵜呑みにするのも、同じ程度に、よくないことである](p.129)と記しています。まっとうな意見でしょう。

▼英語の基本文型が名詞と動詞から構成されるもので、形容詞や副詞は修飾語句であるとしても、日本語の構文が同様にそうでなければならないことにはならない。しかし、英語でそうであり、それを不思議と感じないのであれば、日本語の場合はどうだろうと振り返って考えてみるのが、考え方の筋ではないか。 p.129

上記の点、保留が必要です。北原も[補語の一部の場合を除いて、名詞と動詞から構成されており、形容詞や副詞は修飾語句(modifier)とされている](p.128)と事前に記していました。北原は、補語に当たるものと修飾語を「補充成分と修飾成分」としています。

いまも日本語文法で補充成分や補語という用語が定着してはいません。問題点もありそうです。ただ、日本の中学校でも使っている英語の5文型のようなシンプルなツールが、日本語にも必要とされています。北原は、それを意識していたということです。

     

    

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■企画を立てるプロがしてきた基礎の勉強

    

1 「係り結び」を知らないリーダー

最近、驚いたことは、業界でも有名なリーダーの方が、「係り結び」をご存じなかったことです。この世代の人が知らないというのは、考えてもみないことでした。もはや古文を読むとは思えませんでしたが、関心領域が違うと、こんなことが生じるのでしょうか。

同席していた別の業界のリーダー格の方が、「係り結びとは何ですか、知らないですよ」とおっしゃるのです。見事なほど、痕跡が消えています。学校で習っていないとは思えないのですが、興味のない領域については、きれいに忘れてしまうようです。

ともに業界の指導者ですし、最先端で活躍する専門家を擁する集団のトップにいます。もはやこのレベルの人になると、こんなデコボコが生じてしまうのでしょうか。別の企画について話しているときの出来事でしたが、知識の前提が違ったという気がしました。

      

2 関心領域の継続学習

業界のトップレベルの人ですから癖があるでしょう。詳細を知らなくても、かなり正しい判断をしてきた人達です。各人が基礎としているものに違いがあるのは言うまでもありません。ただお二人とも自分の仕事と関連のある分野の知識や経験則を基礎にしています。

お話をお聞きしていると、基礎になるものが形成されたのは、若い頃に勉強したことの中で、今も継続して使っているものです。自分で勉強した分野でないと身につかないということでした。自分の関心領域を継続学習して、考える基礎にしてきたということです。

二人がともに、これからは日本語でしょうとおっしゃっていました。その際、本気で訓練するのは、自分で勉強したいと思う人に限るというお話です。自分で必要だと思って取り組む人でないと身につかないというのは、これからも原則になるでしょう。

    

3 選択と集中

二人が若い頃というのは、どうやら40代くらいまでを言っているようでした。多少面倒なことでも、本気で勉強する気がある人ということのようです。もう一度、試験勉強するくらいの元気がありますかという感じでしょう。それなら大丈夫だということです。

こうやって勉強して何度か仕事で反復して使っていけば、自然に何が使えるかわかるようになる、使えるものだけを自分のものにしていけばよい、ただし使えるものは少ない-こういうお話でした。こうやって自分の基礎を身につけてきたようです。

二人とも、基礎がそろってきたころには、もう企画を立てて成功していたことになります。基礎が出来たかどうかは、成功したかどうかで見るべきなのかもしれません。30年、40年と成功してきた、ともに70歳を超えた現役のトップランナーです。

今でもよく勉強していらっしゃいます。わがままというくらい、自分の関心領域に集中していて、関心のないことは、あきれるくらい忘れていました。選択と集中ということを思い返します。ある種の感覚を得るには、自由自在の領域が必要なのだと思いました。

      

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■梅棹忠夫「文明の生態史観」の発想:機能論的アプローチ

      

1 価値ある発想法

梅棹忠夫の「文明の生態史観」は、有名な論文でした。1957年に書かれたものですから、半世紀をとうに過ぎています。やはりというべきか、梅棹忠夫も、この論文も知らないという人が圧倒的多数になりました。しかしいまでも読む価値があります。

50頁足らずの文章ですし、読みやすいものです。普通に言う論文の文章ではありません。内容を見ると、論文と呼べるかどうか、わからなくなります。本人が論文と書いていますから、論文という言い方をしているだけです。では、どこに価値があるのでしょうか。

当然のことですが、読み方は自由です。ふと思い出して、読み返します。内容それ自体でなく、何かを考えるときのヒントとして、発想法として読んでいます。久しぶりに読んでみました。どんな発想で書かれたものなのか、ご紹介しておきたいと思います。

     

2 機能論的アプローチ

「系譜論と機能論」という項目があります。系譜論とは[文化を形づくるそれぞれの要素の系図をしめす]ものです。機能論は[それぞれの文化要素が、どのように組み合わさり、どのようにはたらいているか、ということ]を示します(p.104)。

建築に例えると、材木が吉野杉なのか米松なのかを言うのが系譜論であり、住宅であるのか学校であるのかを言うのが機能論です。機能論では[文化の素材の問題ではなくて、文化のデザインの問題]を対象とします。つまり[生活様式]を問うのです(p.104)。

さらに例えて言えば[箱の色を論ずる]のではなくて、[箱の大きさと形を問題にする](p.105)ことになります。こうした考えに基づいて現代の日本文化、日本人の生活様式の特徴を[高度の文明生活ということだとおもう]と梅棹は論じるのです(p.105)。

   

3 仮説の立て方のサンプル

「高度の文明生活」の実現に成功した国は、[まだ、ごくすくな]くて[日本と、西ヨーロッパの数か国とだけである](p.107)。梅棹は、この地域を第一地域と呼びます。そこでの[共通ののぞみ]は[「よりよいくらし」ということ]だと言うのです(p.127)。

「よりよいくらし」が目的であり、そのためには「高度の文明生活」を生活様式にすることになります。こうした生活様式の変化を「遷移(サクセッション)」と呼び、第一地域は[ちゃんとサクセッションが順序よく進行した地域]だと定義されるのです(p.126)。

この論文を読むと、機能論で考えてみるとどうなるか、どういう遷移をしていくべきかという発想で考えることになります。順序よく進行するために、どうしたらよいかを考えるのです。言い換えると「目的・あるべき様式・実行プロセス」を考えることになります。

こうした発想は、業務を考える場合にも、コンテンツを作る場合にも、使えるでしょう。マネジメントの基本にもかなっています。この論文は仮説にすぎません。しかし仮説の立て方が刺激を与えてくれるのです。当然ながら仮説がなければ、検証もできません。

      

     

     

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■売上・利益を拡大したい営業所長の話:業務マニュアル化について

     

1 業務マニュアル化がポイント

営業所長になった人が、自分の営業所の売上・利益を拡大したくて、どうしたらよいのかという相談がありました。仕組みを作り替えるしかないはずです。このことは、所長本人がよくわかっています。どこをどう変えたらよいのかという話になりました。

特別な方法などないのです。業務マニュアルが作れれば、ほとんどの場合、問題が解決します。具体的な働き方の枠組みが出来て、それを実施していけば、成果が上がっていくはずです。その前提として、成果が上がる業務の仕組みを組み立てることになります。

問題点があって、こうすればよいという見込みがあるならば、新しい仕組みを作ることも可能です。日々の仕事をしていく中で、改善策が見えている場合もよくあります。今回は、成果をあげている部門のためか、改善策が見えてきていないケースです。

     

2 ヒト・モノ・カネ

業務の場合、ヒト・モノ・カネをどうしたらよいのかということが問題になります。スタッフの数は同じままですし、製品・サービスも自分たちだけで、すぐに変えられる状況にはありません。予算を獲得して、新しい投資をする必要もなさそうです。

同じスタッフで、いまある製品・サービスのまま、値段も変えずに販売するということになります。いずれは製品も・サービス内容も変わっていくのは見えていますが、まずは、お客様への対応の仕組みを変えて、営業件数を増やしていくしかなさそうです。

スタッフへの負担が大きくならないように工夫しながら、もっと良い仕組みにするのですから、簡単ではありません。所長自身、どこから手をつければ、改善策が思いつくのかといった感じでいました。当然のことながら、現状の業務を把握することから始めます。

    

3 現状の業務からの発想

現状の業務のあり方を、その場で説明してもらいました。現在の仕組みを作った人ですから、その大枠を書いてくださいというと、さらっと書くことが出来ます。それらにかかる時間と負担感がどのくらいであるのかも、確認してみるとわかっていました。

こうやって1日の状況、1週間の状況、月単位の状況がわかってきます。それらが現在のお客様にとって便利で魅力的なものになっているかが問題です。お客様からすると、どうなっていた方が楽で早いか、どうであるなら満足感が高まるか、そんな話になります。

大枠の説明が、どんどん個別の問題になっていきました。個人差のあることにいまさらながら気がついたようです。どうやって成果をあげていたのかという話も、まだ詰め切れていないところがありました。個別で成功しているケースを標準化できるかもしれません。

今回は、個別のうまくいっているケースと、うまくいっていないケースとの対比から、新しい仕組みのアイデアが出てきました。それを実践できる形に業務マニュアル化して、導入前に検証する必要があります。もう少し実例を集めますということになりました。

     

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■『日本語の世界 第6巻 日本語の文法』を読む 第3回

      

1 文節概念の問題点

北原保雄『日本語の文法』の章立ては、3章以下、「文の構造(1)」「補充成分と修飾成分」「文の構造(2)」「日本語の主語」「主題をめぐる問題」「うなぎ文の構造」「客体的表現と主体的表現」という構成です。日本語の文構造を中核にしています。

第三章「文の構造(1)-単文の場合-」の最初の見出しは「文は文の成分から構成される」(p.68)です。文法的分析をする場合の基礎といえるでしょう。北原は、文の成分を「文節」とする橋本進吉の見解を紹介し、続いて文節の問題点をあげて解説します。

さらに別の問題があるのです。[文の構造はいわゆる述語の部分の構造に深くかかわる。したがって、文の構造を明らかにするためには、述語の構造を明らかにしなければならない](p.100)と北原は言います。述語の構造がどうなるのかが問題です。

     

2 述語概念の問題点

ところが北原は述語概念の問題点をあげます。[述語という文法用語を「いわゆる」というような語を冠したりして曖昧な意味で用いてきた]といい、北原の考える述語の概念が[従来の概念規定とはよほど違ったものになってしまう]と記しています(p.103)。

ここでは北原の見解を深追いしません。この本では[従来用いられてきたように][便宜的に用いることにしたい](p.103)と記しているためです。ただし述語という用語が適切な文法用語ではないという北原の指摘は、妥当なものだと思います。

第三章での北原の説明は、(1)日本語の文構造を考える場合に、述語の構造を明らかにしなくてはならない、しかし、(2)従来からの述語の概念には疑念がある、というものでした。北原が指摘した構図は、どうやら現在でも変わっていないようです。

      

3 優れた日本語を基礎とするアプローチが必要

文節について、第三章の最後に、北原の見解が明確に示されています。[文節、とくに述語文節などは、音韻論上の単位(音韻論的結合体)であって、文法論上の単位にはなりえないものなのである](p.121)とのことです。もはやこれが通説といえるでしょう。

第三章で北原は、日本語の文構造を明確にしようと試みながら、従来の見解の問題点を指摘するだけで終わってしまったということになります。文節の概念は使えない、いわゆる述語の構造は大切である、しかし述語概念がおかしい…と説明するのでした。

司馬遼太郎は「文章日本語」の成熟は1980年を過ぎてからという見解を講演で語っています。1981年に出た北原の本の構想は、それに先立つものですから、いまから読めば古くなっても当然です。当時、従来の見解の問題点を明示することには意味がありました。

私たちが参考にすべきことは、北原が第一章で、規範文法を批判的に扱っていたことかもしれません。優れた日本語の文表現をもとに、文法構造を見ていくというアプローチが必要でした。その観点がなくては、日本語の文構造は見えてこないように思います。

     

      

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■『日本語の世界 第6巻 日本語の文法』を読む 第2回

     

1 「文とは何か」

北原保雄『日本語の文法』第二章は「文とは何か-文法論の対象-」となっています。文章論の過去の見解を検討したうえで、[文章と文とが区別され、文章は文法論の対象から除外されることになった](p.48)、本書でもその見解に従うということです。

そう言いながら、すっきりいかない点があるのでしょう。さらにいくつかの問題を検討しています。そして[文にはまず統一性がなければならない。つまり、統一性は文であることの必要条件である](p.53)と記します。では統一性とは何でしょうか。

北原は[文がどのようにして統一されるか、あるいは、文にはどのようにして統一性が与えられるか、という問題が、重要な研究課題となってくる]とのこと(p.53)。しかし[文は統一性だけでは文とはならない](p.57)ともあります。いろいろご苦労なことです。

     

2 生産的でない議論

以上みられるように、もはや時代からずれてしまった議論がなされている感があります。文として完結していることは大切なことです。その責任は書き手にあります。文が完結していると認識させることは書き手の責任です。しかし、こうは言えないのでしょう。

書き手が句点(。)をつけていたら、ひとまず文が完結しているとの推定が働きます。完結していないのに句点がついている場合もあるでしょう。しかし書き手は、それを例外にする必要があります。「文とは何か」との議論は生産的なものではありません。

実際、北原は[フリーズ(C.C.Fries)によれば、文の定義は二百以上もあるがいずれも完全に満足のいくものではなく、定説といえるものがないというのが実情である](p.66)と書くことになります。あれこれ議論する必要はなかったということでした。

      

3 文章論の対象9項目

これでは第二章に何ら内容のあるものがなくなってしまいます。北原はこの章の最後に「文法論の対象」を9項目列記しました。(1)(2)が形態論、(3)以下が構文論、このうち(3)(4)が品詞論、(5)-(7)が文の成分論、(8)(9)が文論の課題だということです。

▼本書のことばで、分析的に述べなおせば、
(1) 単語はどのようにして構成されるか。
(2) 単語にはどういうものがあるか。
(3) 単語はどのようにして文の成分を構成するか。
(4) どういう単語がどういう文の成分を構成するか。
(5) 文の成分とは何か。
(6) 文の成分にはどういうものがあるか。
(7) 文の成分はどのようにして文を構成するか。
(8) 文とは何か。
(9) 文にはどういうものがあるか。

こうやって列記してもらうと、何が課題になっているのかが見えてきます。ただ、この9項目には濃淡がありそうです。問題になるのは、文の分析方法です。この中で言えば、どういうふうに品詞が区分され、構文をどう構成するのかが問題になります。

北原は、第一章でフランスの小学校で文法分析をしている事例を取り上げていました。それが出来るようにする日本語文法が必要です。しかし、それを可能にする文法的な装置が日本語にはまだありません。そのためのヒントをこの本から読み取りたいと思います。

       

     

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