■業務マニュアルとOJTマニュアルによる業務改革

     

1 業務マニュアル作成の効果

業務マニュアルをどう定義したらよいのか、困ることがあります。ときどき文書に業務を記述したものが業務マニュアルだという言い方をしたりしました。業務を記述することの効果がわかりやすいので、私はこの定義がいいなあと思っています。

業務を記述すること自体が効果をもたらすのです。業務が記述によって把握されることは、業務が見えることでもあります。業務が見えてくると、必ずといってよいほど、なんだか無駄なことをやっていたなあとか、気に入らないところが見えてくるのです。

仕事をしているときに気がつかなくても、記述しだすと、もっといい方法があるのに気づきます。記述することにより、おのずから改善策が見えてくるのです。現状の業務を記述しようと試みると、自然に改善案が出てくること、これが業務マニュアルの効果です。

      

2 改善とは違う新規モデルの構築

改善案というのは、プラットフォーム自体を変えるわけではありませんから、安定性があります。飛躍はしませんが、混乱もしないものです。その点で、新たな業務モデルの構築とは別次元のものといえます。あたらな業務を開発するのは簡単ではありません。

しかし業務をあたらに構築しようとする場合にも業務の記述が必要ですから、どうしてもある種の訓練が必要になります。業務がどう組み立てられているのか、どう記述すれば伝わるかの訓練です。この訓練法として現状の業務を記述することが一番効果的でしょう。

つまり業務マニュアルを作成することが、あたらな業務モデルを構築するときの基礎になります。ただし、別の問題が生じることになります。いままでの業務に大きな変化が加わることになりますから、最初は洗練されていませんし、簡単に定着もしません。  

      

3 「仮説⇒実行⇒検証」モデルに不可欠なマニュアル

新しいことをするときのフレームがあります。「仮説⇒実行⇒検証」モデルです。新たな業務の仕組みは仮説にすぎません。実行して検証することが必要です。いきなり業務マニュアルを作るのではなくて、小さな実践から始めることになります。

ポイントになるところを取り出して、実験的に新たな業務を取り入れていくのです。このとき実践に必要なのは業務マニュアルよりも、OJTでしょう。まだ仮説ですから、詰め切れていません。大雑把なところがあるときにはOJTで大枠を示すのがむいています。

新しい業務の趣旨を理解してもらい、各人に提案をしてもらうことを前提にして、仮にこうやったらいいと思っているという話になるでしょう。やってみて、おかしかったら教えてほしいということです。こういう手順を踏むと、新しい仕組みも安定してきます。

リーダーは新しい仕組みをOJTによって実践してもらい、その検証を経て、新たな仕組みを開発するということです。OJTを効率的に行うために、OJT用のマニュアルが必要になります。リーダー用の指針を記述したマニュアルがOJTマニュアルということです。

      

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■ドラッカーは何も証明していない:なぜ読まれるのか?

      

1 学者から全く評価されていないドラッカー

アメリカでは、ドラッカーはあまり読まれていません。こんなことは、あたりまえだという人もいるでしょう。ところがウソでしょうと言う人もいるのです。経営学者という範疇には入りませんから、経営学ではドラッカーに言及することはないでしょう。

野田稔が『実はおもしろい経営戦略の話』で、ドラッカーが[現代の経営学者たちからは、全く評価されていません]と書いているのは当然のことでした。[その理由を彼らは、「ドラッカーは何も証明していないから」と言います](以上、p.30)。

▼現代の経営学における証明とは、先にも述べた統計学的に有意であることを明確に示すことにあります。細かい命題ごとに統計学的な有意差があるかどうかの証明が大切にされているのです。 p.30 『実はおもしろい経営戦略の話』

      

2 実践の場で役に立つ経営哲学

それでは読む価値がないのでしょうか。日本では読まれています。読む価値があるからです。一方、アメリカでは読まれていませんから、読む価値が見いだせないのかもしれません。経営学における証明がなされているかどうかを重視するかどうかなのです。

野田稔は言います。[ドラッカーの主張は現代の経営学者が定義する経営学ではないかもしれませんが、実践の場で役に立つ経営哲学であることは紛れもない事実です](p.30)。では、もっと具体的にどんな点を評価しているのでしょうか。

[企業の社会的役割を「顧客の創造」と定義]した点が[ドラッカーの数ある経営思想でもっとも有名で、なおかつ重要な部分](p.31)と評価しています。これが欲しいと感じさせる新しい価値を提供して、顧客を生み出すことが顧客の創造です。

      

3 証明の前提条件

ドラッカーは晩年になって、「顧客の創造」という概念を、企業の社会的役割あるいは目的に限定することを放棄しています。非営利組織でも、そこで提供されるものが必要だという人が存在しなくてはいけなくて、その人たちも顧客だと言うようになりました。

したがって、営利組織の目的だけでなく、非営利組織の目的として「顧客の創造」が位置づけられたのです。組織の目的あるいは社会的役割となりました。『経営者に贈る5つの質問』が、『非営利組織の成果重視マネジメント』をもとにしているのは象徴的です。

営利も非営利も、組織の経営の基本に顧客の創造があります。この点、統計学的に有意だと証明する必要はないのです。もっと根本的な概念というべきでしょう。ドラッカーは古くならないのです。統計的に有意だという証明は時代が変われば無効になります。

ドラッカーは経営哲学者でした。直接的、具体的な提言を引き出そうとするのは馬鹿げています。すぐれた経営書である『イノベーションのジレンマ』と『イノベーションと企業家精神』のどちらを繰り返し読むでしょうか。後者だという人が多くいるはずです。

     

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■文章チェック講座について:3月23日実施

   

1 会場参加者が半数以上

昨日やっと文章チェック講座のテキストが完成して提出しました。これから講義の組み立てを考え、その場での質問も取り入れながら、お話しできたらと思っています。完璧なテキストなどありませんから、参加者の反応や質問、要望が大切です。期待しています。

今回、会場での受講者数の方がオンラインよりも多いとのご連絡がありました。最近ではめずらしいことです。今後、会場とオンライン参加者が同じくらいのハイブリット講義というのが、通常形態になるかもしれません。まだわずかですが、席も残っています。

文章をチェックする側の視点で、文章を読み、それを評価するという講座です。こういうセミナーはあまりないかもしれません。かつて文章のプロファイルのような仕事をしたというお話をしたことがありました。数年前に担当する人が講座を作ってくれたのです。

     

2 文章でのチェックが大切

リーダーは、部下の文章を読んで、それをもとに考えることが大切な仕事になっています。直接会っているのだから、文章は重要でないという発想もあるでしょう。それで問題ない人も確かにいるはずです。しかし一般には文章を重視します。

私自身、文章をチェックしておくべきだったと身にしみて感じたことがありました。コロナで体調を崩した人がいたのです。直前までその人と仲良しの人が気づかなかったとのこと。急にあれこれできなくなって、いささか大変なことになりました。

メールをするなど、文字の記録があれば精神的な要因のものでしたから、まず気がついたでしょう。仲良しの人も、じつはなんだかおかしいと感じていたようです。仕事ができていたので、それを自分で否定してしまっていたとのこと。ありがちな話です。

     

3 文章チェックと誘導

文章でチェックするというと、言葉尻をどうしたこうしたと考える人がいるかもしれません。神は細部に宿りますから、文の形式やその意味やニュアンスをきっちり分析できることは必要です。こうした細部のものが、もっと大きな全体のチェックと関連してきます。

リーダーが部下の文章をチェックするとしたら、ビジネスでの活躍が前提でのチェックです。仕事に向き不向きがありますから、向いた仕事を振り向ける必要があります。力を発揮する仕事をするからこそ、多様な対応ができるようになるはずです。

その人に向いた仕事を見つけなくてはなりません。そのとき基本になるのは、やる気です。積極性のある文章になっていなくては困ります。自分の意見を明確に記すことが必要です。もしそうなっていなかったら、そちらに誘導してあげなくてはなりません。

仕事をする場合、ほかの人とのやり取りが不可欠になります。文章でのやり取りは記録に残りますから、重要なものです。文章に自信がないというリーダーもたくさんいます。自分の文章もチェックできるようにしておく必要があるのです。そんなお話になります。

      

▼部下の書いた文章のチェック方法-文章添削の定石とテクニック

       

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■西堀栄三郎から学ぶために:『ものづくり道』の「現場にあるアイデア」

  

1 西堀の代表作2冊

西堀栄三郎のことを知らないリーダーがいたとしても、もはや驚いてはいられません。時代は流れていきますから、仕方のないことでしょう。しかしこの人から学ぶことは有益なことだと信じます。西堀には著作がありますから、学ぶことは可能なはずです。

中核になる本は2冊、『石橋を叩けば渡れない』と『ものづくり道』(『創造力』)だと思います。前著が代表作だと言ってもよいでしょう。講演録をもとにして、上手にまとめられています。西堀から学ぼうとする場合、この本に加えて『ものづくり道』も必要です。

今回、西堀を知る人でも意外に読んでいない『ものづくり道』をご紹介したかったのです。この本には2本柱があります。先にご紹介した「オリジナリティのつくり方」と、もう一つが「現場にあるアイデア」です。この2つの章は必読と言えます。

    

2 現場主義「事実からの出発」

「現場にあるアイデア」の内容を簡単にご紹介しておきましょう。これは簡単です。どんなことを記しているのか、この章の最初に置かれた「事実からの出発」の見出しを見るだけでも、おわかりになることでしょう。以下をご覧ください。

・現場は理屈通りにはいかない
・種は現場にあった-真空管の品質改善
・知識を技術に応用する-ゲッターの発明
・理論は「線」、現実は「点」
・アメリカからQCを学ぶ
・誰でもわかる統計的品質管理を

日本企業の強さとして、いわゆる現場主義が言われました。西堀は、まさに現場主義の人でした。現場での現実、現物に基づいて、実践がなされます。実践するだけでなく、その客観的な測定をし、それを目標と比較して評価していったのです。

     

3 観察法の事例

西堀は「私の観察法-ベンベルグ革命」で、[実際に「観察法」でやり、この方法がいかに有効かということをいちばんよく実証している旭化成ベンベルグ工場での実験について紹介してみたい](p.235)と記しています。以下のような事例です。

(1) ベンベルグの生産で糸がかたくなる不良品が大量に発生
(2) 西堀は日付ごとに、かたい糸の発生高のグラフを作らせる
(3) 降雨量がグラフの形と類似していることに気づく
(4) 社内データを徹底的に分析して不良率変化のグラフと類似のデータを発見
⇒ 工業用水の貯水池の水位の上下と関係があることを探り当てた
(5) 用水にふくまれる物質が原因だ(雨で物質が薄まるのでは)と考えた
⇒ 珪酸イオンが減少すると、かたい糸ができるという事実を発見
(6) 珪酸イオンを増やすと、やわらかいベンベルグ糸ができる
⇒ 西堀の技術指導により、延岡工場は世界的なべンベルグ工場になった

この人工繊維に関しても、製鉄所に関しても、成果の大きさには驚くべきものがあります。いうまでもなく、簡単に習得できるものではありません。しかしこちら側がその気になれば、自分なりの方法で学ぶことができます。学ばない手はありません。

     

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■「創造性は人間の本性」:西堀栄三郎『ものづくり道』再論

    

1 西堀栄三郎を知らないリーダー

先週末に書いた西堀栄三郎のニーズ分析について、IT業界のリーダーの方から、よくわからなかったので、もっと丁寧に書いてほしいと言われました。ああ時代は変わっていくんだなあ…と思います。西堀栄三郎を知らないリーダーも多いことでしょう。

西堀は戦後の品質管理の指導で知られています。技術コンサルとして、製鉄や繊維産業など、世界的な活躍をする会社を指導して成果を上げてきたのです。IT業界のかつてのリーダーたちは、西堀について特別な存在として扱っていました。

それでもニーズ分析については、ご存じない方がいらしたのです。それで『ものづくり道』のご案内のつもりで簡単にふれました。「1 オリジナリティのつくり方」にあります。西堀は「創造性は人間の本性」だという認識でいます。これが基本です。

    

2 心理状態が問題

西堀は[創造性を阻もうとする言動]は[「お前は人間ではない」といっているに等しい](p.18)と記しています。どうせ創造性を発揮するのなら、きっちりやればいいのだというわけです。そこで「強いニーズと知識の関係」が問題になります。

強いニーズとは[「何とかしなければならない」という切迫感]のある課題です。これが「知識」と結びついて創造性が生まれます。圧倒的な製品やサービスが日本から出てこないのは、知識以上に切迫感がないからだと、西堀は考えているようなのです。

常識的な発想で、圧倒的なものなど創造できない、非常識に考えて圧倒すべしということでした。初版のまえがきでも[心理状態が問題である]と記しています(p.334)。何とか目的を達成するぞという本気さが重要であり、そのときの手段は自由なのです。

       

3 ニーズの絞り込みと具体案

何かをなそうとするとき、一番のキモを探すことがニーズ分析になります。ニーズを細分化して、自分たちのなすべきことの本質を絞り込んでいくのです。たとえば南極では、燃料の石油が必要でした。「欲しいのは石油であって、ドラム缶ではない」のです。

石油をパイプで運べばよいと気がつきます。しかし南極にパイプなどありません。氷を使って作ればいいと西堀は言い出しました。しかし折れないパイプにする必要があります。そうだ、繊維を入れようと言ったところ、医療用の包帯があります…となったのです。

燃料である石油を安全に効率的に運ぶことがポイントでした。パイプ⇒折れないパイプ⇒繊維を入れた氷のパイプ⇒折れないように接続したパイプで給油…となったのです。ニーズの本質を絞り込むことによって、西堀は常識ではありえない達成をしてきました。

頭を働かせるときに、この発想は使えます。成功事例があった場合、この事例で仕事に役立つものは何か、応用できることはあるか、何に応用するのがいいか、どう応用したらよいか…など、ニーズが絞り込まれていくほどに具体案が出てくるのです。

    

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■ニーズ分析について:西堀栄三郎の方法

     

1 「それは君、簡単や」

西堀栄三郎は技術コンサルタントとして、戦後日本に絶大な影響を与えました。唐津一は『新版 石橋を叩けば渡れない。』の巻末に[どんな困難があっても「それは君、簡単や」の一言で事を進めていく、このようなスーパーマン]と書いていました。

西堀には魅力的な本がいつくかあります。『南極越冬記』は西堀のメモに基づいて梅棹忠夫が執筆したもの、『石橋を叩けば渡れない。』は講演を編集したものです。『創造力』(『ものづくり道』=『技士道 十五ヶ条』)が最後の著書となりました。

日本人の書いたマネジメントの本の中でも西堀のものは最高位にあると思います。体系立てては書かれていませんが、それはわれわれがなすべきことです。何かを創造するときにどうすべきなのかを体系化しようとする場合に、西堀の考えが基本になるでしょう。

     

2 ニーズの細分化と具体化

『石橋を叩けば渡れない。』について、以前に書いたことがありました(■日本人によるマネジメントの古典:西堀栄三郎『石橋を叩けば渡れない』)。最後の『創造力』も、無視できない本です(再編集した『ものづくり道』がおそらく一番読みやすい版)。

西堀はこの本で、ニーズの分析について語っています。まず最初に[ニーズを細分化して、カギになっている条件を探し出す]のです。たとえば製品の軽量化がポイントだとわかったら、どこが重いかを調べて、そこを[軽い材料に置き換え](p.31)ます。

▼問題を具体的に絞っていって、問題の要求に見合う知恵とか着想が出やすいようにする。思うに創造性のある人というのは、上手にニーズを細分化し、具体化できる人のことをいうのではないだろうか。 p.32 『ものづくり道』

     

3 新しいことをする勇気

なぜニーズの分析をするかと言えば、[創造性が生まれるためには、知識がニーズに結びつくことが必要](p.30)だからです。ここでいうニーズとは[社会や企業の要求とか問題の類](pp..30-31)であり、顧客の要求も自分の探求心からのものも含まれています。

うまい着想が出なかったら、[再度、他のやり方でニーズの分析をし直すこと]、あるいは細分化したニーズを[寝ても覚めても忘れないこと](p.32)が必要です。さらに[着想をモノにするためには非常識に考えること]が(p.33)不可欠になります。

西堀は南極越冬時に、石油の輸送用に氷でパイプを作り、限られた条件下で真空管の修理もしました。[いかに険しい道であっても、新しいことをする勇気をもちたい](p.34)ということです。ニーズの分析というシンプルで効果的な方法が、その基礎にありました。

      

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■日本語の文構造における文末の機能:文末の4系統

      

1 文末の記述は不可欠

日本語の文構造を考えるとき、主体の記述を不可欠としない点は重要です。河野六郎はこうした言語を「単肢言語」と命名しています。単肢言語の場合、インドヨーロッパ語のように主語と述語の二つとも記述しなくてはいけない両肢言語とは違う構造です。

日本語の場合、文末とその主体との対応関係を作るときに、主体の記述を不可欠としていません。主体がわかっている場面ならば記述は不要だということです。一方、文末の記述は不可欠だということになります。よほど特殊な場面でしか、記述が抜け落ちません。

記述されないということと、省略とは別のことです。前回ふれた「私はたぬき」の場合、主体は「私(が食べたいの)は」、文末は「たぬき(うどんだ)」と考えられますから、主体も文末も省略された形式になっています。記述されないのと省略は違うということです。

     

2 文末に価値評価が入る場合

単肢言語の場合、文末が省略されることはあっても、記述されないことはないと考えるのが原則でした。したがって、「私はたぬき」が「私はたぬきうどんが食べたい」の省略形だということにはなりません。文末の「食べたい」が欠落することがないからです。

「この花はきれいだ」というときに、「きれい」という価値評価が入っている以上、それは人間が介在しているという指摘があります。その通りです。しかし、大切なのは文末が欠落しているかどうかです。「私は・この花はきれいだ・と思う」にはなりません。

省略されることがあったとしても、欠落は通常の文では考えられないということです。文末に対し、その主体が何であるか、明確であることが求められています。「きれいだ」という文末の主体が何かと言えば、「この花」ということです。

      

3 文末が主体のカテゴリーを規定

日本語の文構造からすれば、文末は「きれいだ」で決着しています。ここに価値評価が入っているというのは、単純なことなのです。文の構造が変わるわけではありません。「私は…と思う」という構造にはならないということです。

形式が変われば、ニュアンスが変わり意味が変わります。意味の変化を伴わないのは、省略の場合です。「この花はきれいだ」に価値評価が入るのは、主体側の問題だということになります。「この花」についての価値評価であることは、文末で示されているのです。

日本語の文末は、①行為・現象を示す系統、②状態や評価を示す系統、③説明・解説を示す系統、④存在を示す系統…の4系統に分かれます。「きれいだ」ならば②の系統です。「咲いている」なら①の系統、「リラだ」なら③の系統になります。

文末に重心がある日本語の場合、主体がどんなカテゴリーなのかを文末の言葉で判断しているのです。存在の系統の場合、「ある」と「いる」で主体の性質が区分されています。文末が「いる」ならば、主体が知らない言葉でも生き物だと判断できるのです。

     

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■日本語の構造から考える主体と文末:「私はたぬき」の構造

  

1 カテゴリーの省略

日本語は文末に重心の置かれる構造を持っています。主体が誰でもわかるものなら、記述しないのが標準的なスタイルです。それが標準だとしたら、省略とは言えません。そこで河野六郎は、主体を必要に応じてしか記述しない言語を単肢言語と呼びました。

単肢言語の場合、文末は記述されます。文末が記述されないことは原則としてないということです。しかし主体も文末も、一部が省略されることはあります。「私のが一番だ」という場合、「私の」のあとに、本来あるべき何らかの言葉が省略されているのです。

「コンニャクは太らない」の場合、文末が省略された形式です。太らない「食品・食べ物だ(です)」というカテゴリーが省略されています。場面によっては、略式の言い方も可能です。うどん屋さんで「たぬき」と言えば、「たぬきうどん」のことだとわかります。

     

2 主体と文末の対応関係

うどん屋さんで、「私はたぬき」と言った場合はどうでしょうか。文末の「たぬき」は「たぬきうどん」ですから、「私はたぬきうどん」になります。しかし「私」は、たぬきうどん」という料理ではありませんから、このままでは対応関係は成立しません。

ここで問題になるのは文構造です。日本語の文では、主体の記述が不可欠ではありませんが、文末の主体にあたる概念は存在しています。文末が確認できたら、その主体がわからなくてはヘンなのです。こうした対応関係を成立させる主体と文末が必要になります。

「私はたぬきうどん」というのは簡単な例文ですから意味は通じます。主体と文末の対応関係を直感的に作ることも容易でしょう。こういうとき、「私はたぬきうどんが食べたい」が本来の形だったという主張がなされたら、妥当なものだと言えるでしょうか。

    

3 「私の食べたいのは」+「たぬきうどんだ」

「私は」と「たぬきうどん」の間に対応関係が成立するためには、どちらか、あるいは両方に省略があると考えられます。この場合、すでに文末のカテゴリーの省略を埋めていますから、「食べたい」に類する言葉の欠落を考えるのは無理筋と言うしかありません。

後ろに重点のある構造をとる日本語の場合、文末に重心がかかります。主体とは違って、文末を記述しない形式はよほど特殊な場面でしか考えられません。「私はたぬきうどんが食べたい」の「食べたい」という文末が欠落することなどありえないことです。

主体の省略と考えるしかありません。「私のが一番だ」の類型がありました。「私の食べたいのは」や「私の欲しいのは」が省略されて「私は」になったということです。本来の「主体+文末」は、「私の食べたいのは」+「たぬきうどんだ」ということになります。

    

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■日本語の文に主体概念は不可欠:「単肢言語」についての誤解

    

1 後ろに重心のある言語

河野六郎は「日本語(特質)」(『日本列島の言語』)で、日本語をアルタイ型言語の一つとしています。その一番の特徴は、重要な語または単位がつねに後に置かれることだということでした。重要な語・単位を修飾する言葉は、それよりも前に置かれているのです。

たとえば「父の大臣(オトド)」の場合、実質は「父」=「大臣」と考えることが自然でしょう。本来ならば同格といってもおかしくないところです。しかし、この形式をとるとき「父」は従属する言葉となります。「父」<「大臣」という扱いになるのです。

このことはセンテンスの構造にも表れます。大野晋も『日本語練習帳』で指摘していました。[「意味」の上からセンテンスを見ると][そのセンテンスの肯定、推定(未来)、回想(過去)、疑問など一番重要な判断は日本語では文末で決定されます](p.69)。

    

2 日本語は「単肢言語」

日本語が後ろに重心のある言語だとしたら、文末が大切になるのは自然です。わかりあっている者どうしならば、文末だけでも話はほとんど通じます。「行ったの」「やめておいたよ」だけでも十分でしょう。誰のことか、どこのことか、前提が明らかだからです。

このように文末に重点が置かれる一方で、主体は必要に応じてしか記述されない言語のことを「単肢言語」と河野六郎は呼びました。文末の主体を記述しないのは主体の省略ではなくて、主体の記述をしない方が標準スタイルなのだということになります。

合理的に考えるならば、文脈の中で主体が了解されている場合に、わざわざ記述する必要はないのです。わかりきった主体が何度となく記述されたなら、私たちはかえってうるさく感じます。文章を添削する側の人は、おそらくそれらをカットすることでしょう。

     

3 主体がわかるのが必要条件

インド・ヨーロッパ語の場合、主語と述語動詞が人称・数を照応させています。センテンス内に、主語と述語動詞をつねに明示するルールがあるのです。このように主語(主体)と述語動詞の記述が不可欠な言語のことを、両肢言語と河野は呼びました。

両肢言語の場合、主体を記述しますから、主体が不明ということはありません。日本語の場合、主体の記述は必要ある場合に限られます。(1)文脈の中で主体が了解されていない場合、(2)主体が了解されていても、あえて記述して強調する場合の2パターンです。

文末の主体がわかっている場合、記述しようがしまいが主体は了解されています。一方、文末の主体がわからなければ、主体は記述されなくてはならないのです。つまり適切な日本語の文である限り、文末の主体がわからないケースはないということになります。

読む側にセンテンスの主体が伝わること、これでわからなかったらおかしいという文章であることが、適切な文章の不可欠な要件と言ってもよいでしょう。日本語の場合、主体を記述しないことがありますが、主体の概念が不要になったわけではないということです。

    

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■定義の仕方と一般用語の使用

1 「…ではない」という概念

先日、補足語のことを書きました。補足語などという用語は知らなかったからという人がいらっしゃって、どんなものだろうと思って読んだとのことです。よくわからなかったということでした。文法なんて関係ないという人ですから、ごもっともなことです。

しかし定義の仕方について、もう少し踏み込んで語っておくほうがよいなあという気になりました。例えば選挙権という用語なら定義できるはずです。ところが選挙権を持たない人たちをどう呼ぶのか、特別な用語があるのか、知りません。ないような気がします。

知人に確認してみましたが、被選挙権は違うものね、そんな言葉、知らないなあ…とのこと。ちょっと安心しました。こういうときに、選挙権を持たない人のことをどう呼ぶのが適切なのか、専門家たちが何種類もの呼び方を提示するようになったら困ります。

      

2 全体概念の明確性が問題

補足語の定義の仕方は、選挙権を持たない人たちに名前をつけたようなものだと思います。少なくとも西田太一郎『漢文法要説』における「補足語」の説明は、定義を明確にせずに、主要要素のうちで主語でも述語でもない重要な語句というものでした。

ある概念を正面から定義できるものもありますが、一方、全体から明確な定義に該当するものを除外した概念という説明の仕方も可能でしす。この場合、全体概念の明確性が不可欠の条件です。この点、補語であれ補足語であれ、全体概念の明確性に問題があります。

先日の【「補足語」という文法用語:筋道の立てかた】で、補足語の概念の示し方が「…でないもの」という形式であると指摘したつもりでした。必須要素というものが明確になっていないときに、こういう定義の仕方をされても、しっくりこないということです。

       

3 一般用語を活用する意味

小西甚一は『古文の読解』で、[文法学者たちは、めいめい勝手な術語を使う](p.195)と指摘していました。これ自体は、よろしいことではありません。けれども、そんなの気にしなくていいのだと書いています。それが「太っ腹文法」です。

大切なことは、[筋道の立て方を学んで]いく点にあるという指摘でした(p.195)。筋道の立て方こそ、学ぶべき重要ポイントになります。この点からすると、文法用の専門用語を使うよりも、一般用語の中に適切な言葉があるならば、その方がよいかもしれません。

文法における用語の概念は、明確になりにくいものです。ある程度の明確性を持った概念を示す言葉を選んで、そこに何らかの確認手段を加えれば、それが適切な用語になりえます。「ある程度の明確性」をもつ一般用語を利用するのは、検討に値することです。

     

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