■梅棹忠夫の見解について:桑原武夫『文章作法』から

     

1 ああそうなんですか…で終わる話

日本語に主語がないという見解が示されたなら、どう反応するでしょうか。たいてい、ああそうなんですか…と言うだけで終わるはずです。主語をどう定義するかが問題であって、あるなしは、定義の仕方によることでしょう。それが普通の反応だと思います。

日本語が論理的でないという見解が示されたら、やはり、ああそうですか…で終わりでしょう。しかし、かつてはそうでなかったようです。大野晋が『日本語はいかにして成立したか』で[日本がヨーロッパに及ばない]と書いたのは、ある種の懐かしい言葉でした。

大野晋は、1919年(大正8年)生まれです。その翌年生まれたのが、梅棹忠夫でした。この人になると、大野とかなり違った反応になります。かつての大半は、大野のような感じ方をする人だったのでしょうが、梅棹は、例外的な人だったのかもしれません。

     

2 いい文章の特色

桑原武夫が『文章作法』で、梅棹忠夫の『文明の生態史観』の書き出しを引いて、高く評価しています。[あとになったらふつうに見えることが、書かれたそのときにはドキッとさす。これがいい文章、いい評論というものの特色です]。ここがポイントでした。

▼西洋人が世界の歴史についてかたる場合、ふつうは日本のことなどほとんど問題にしない。それは、おおくはすくいがたい無知と独善からくる。

1957年に書かれた、この一節について桑原は、[いまから二十年前に、西洋人にむかって「すくいがたい無知と独善」というような言葉を書いた人があったか、考えてみてください。一人としていないですよ]。[何と大胆なことを書くかと]思ったというのです。

梅棹の場合も、大野晋と同世代のためなのか、関心ある領域でアメリカを意識することはあまりないようでした。ヨーロッパのほうを意識していたようです。しかし梅棹には、大野にあった[日本がヨーロッパに及ばない]という意識が感じられません。

      

3 自分の思考法の問題

『梅棹忠夫語る』で、梅棹は言います。[文章で一番大切なことは、わかるということ]だと。わかるように書かなきゃいけないというわけです。したがって、現在どうであるのかを問うのではなくて、どうすべきかを考えなくてはいけないということになります。

日本語の文においても、[主語は文章を書くとき立てるものであって、日本語が主語をあまり使わないという話とは全然別のことです]ということになります。「書く側がどうすべきか?」ということが問題です。これは、まさにあたりまえのことです。

[日本語が主語をあまり使わない]ということには、ああそうですか…と反応するしかありません。日本語で論理的な文章が書けないというのも、同じでしょう。[主語は、自分がこの文章を書くときに、これが主語であると立てなければいけないもの]です。

主語がないから、日本語では論理的に書けないという見解に対しても、[それがないから論理的に書けないというのは、自分の思考法が悪いんや]ということになります。これ以外ないと思いますが、これがふつうの考え、あたりまえの話であってほしいものです。

     

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