■大野晋『日本語はいかにして成立したか』にみえる基本発想

    

1 厳密で精確な表現の可能性

いささか困ったことになりまして、ブログの更新が不安定になっていました。ワードプレスの何らかのバグがあるのでしょうか。更新が出来なくて、専門家に相談して修復していただいたのですが、また更新できなくなりました。幸い再び更新可能なようです。

大野晋が『日本語はいかにして成立したか』を、こんな風に始めています。[日本語は果たしてヨーロッパの言語のように、厳密で精確な表現の可能な言語なのだろうか]。旧制高校時代に[私の心の底でめぐっていた想いの一つは、それであった]とのこと。

ヨーロッパを追いかけるという意識が強かった時代だったのでしょう。[日本がヨーロッパに及ばないのは何故なのか。ことによるとそれは、日本語という言語がヨーロッパのような思考と表現の厳密さや精確さにたえない言語だからではないか]と思ったようです。

厳密で精確な表現というのは、どういうものでしょうか。大野はこれを言い換えているようです。[私は、日本人は論理的な表現に弱いと聞いていた。あるいは抽象的な思考力に欠けていると聞いた]。この言い方は、先の「言語なのだろうか」と対応しています。

      

2 圧倒的な『ファウスト』

論理性や抽象的な思考力が欠けると、厳密で精確な表現は出来ないという発想が、大野の考えにはあったようです。その考えは、間違ってはいないでしょう。しかし、それだけではないようです。大野はゲーテの『ファウスト』を学生時代に読んで圧倒されます。

▼日本語の音節の構造、その配列、文法上の語順の規則-それらはドイツ語の韻律に見られる美しい技巧、力強いリズムと韻律の旋律とを阻んでいる。日本の詩歌が日本語の性格によって本質的に追っている技術上の制約を、私はくち惜しく反芻した。 『日本語はいかにして成立したか』p.13

大野は、万葉集の歌を読み、[言葉の雄渾と犀利とに感動した]のです。『源氏物語』を読んで[この精緻な、やまとことばの散文がもしなかったら、どんなに日本語はさびしい貧しいものになっていただろう]と感じます。しかし、物足りなかったのです。

『ファウスト』を読んだとき、[その原文は波濤のように私の胸に押し寄せて来た.その韻律の圧倒的なうねりは私の心をゆすってやまなかった]。そして[鴎外の訳はまるで瓦礫のように見えた]のでした。[日本がヨーロッパに及ばない]と感じたのでしょう。

      

3 発想の転換が必要

大野晋は1919年に生まれています。したがって大野は、第二次大戦前に『ファウスト』を読んだのです。ヨーロッパに及ばないという発想は身に染みていたのでしょう。敗戦によって、日本が先進国になるなど考えもつかなかった時代に研究をスタートさせました。

『日本語はいかにして成立したか』は、1980年刊の『日本語の成立』をもとにしています。まだ先進国になったと十分に感じられない時代に書かれた本です。大野の場合、たぶん経済的な格差以上に、文化的な格差を感じていたのでしょう。

アメリカでなく、ヨーロッパに及ばないという発想は、戦前の[旧制の高等学校]にあった雰囲気かもしれません。[私は日本語が厳密で精確で美しい表現の可能な言語であるようにと心から望んでいる]とのこと。まだ、とてもかなわないということでしょう。

どうも発想が違います。論理性のある文章をどう書いたらよいのか、[厳密で精確な表現]にするには、どうすべきかという発想が必要です。そうでなくては、日本語自体が発展しません。より良い表現が可能になるための規範が必要だと、改めて思いました。

    

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