■ラッセル『哲学入門』をめぐって:ロジカルシンキングへの違和感

1 ロジカルシンキングより『哲学入門』を

数年前、ロジカルシンキング講座の打診がありました。私には無理ですと申し上げて、別の講座にしていただきました。それ以前に受講者から何度かご質問があったため、短い講義を聴講させていただいたことがありました。以来、私には無理だと感じています。

哲学の入門的な本を読む方が、役に立つように思われます。たとえばラッセルの『哲学入門』は、哲学の入門書の最高傑作とも言われます。ノーベル賞を受賞した学者(論理学・数学)が書いた、明確で論理的なテキストと向き合った方が、勉強になるはずです。

ラッセルは、「存在」を語ります。全てを疑っても、自分自身の存在は疑い得ない、なぜなら、自分がなかったら疑えないのだから--これがデカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」である…と。しかし、昨日と今日の自分は同一なのか…こんな調子で進みます。

 

2 論理性の獲得

ラッセルは、センスデータという概念を提示します。同じテーブルを違う位置、違った照明の下で見れば、違って見える…と。これは対象(テーブル)とは別のもので、感覚によって直接意識されるもの(見えているもの)です。これをセンスデータと呼びます。

さらに知識を二分します。テーブルの色や形など、直接意識しているセンスデータについての知識を面識と呼び、真理の知識と区別します。私はパリに行ったこともなく、パリを知りませんので面識がありません。フランスの首都だという真理の知識はあります。

こうやって読んでいくと、だんだんわかった気になってきます。多少苦労しますが、論理に追いついていく感覚を味わうことが出来ます。こうした経験が論理性を獲得するのに役立つように思います。ロジカルシンキングのツールが、安直に見えてきます。

 

3 『哲学入門』を支えていた概念が崩壊

もちろん、論理を追いかけることと、それに従うことは別です。12章「真と偽」など、興味深くても、日本語を使う人間なら違和感を感じるはずです。13年後、ラッセルはドイツ語版に序文を寄せて、その後、重要な発展があり見解が変化したと書いています。

知識の議論では、私は主体の存在を受け入れ、面識を主体と対象との関係として扱った。今では、主体もまた論理的構成物だとみなしている。その結果、感覚とセンスデータを区別することは、断念しなければならない。 [ドイツ語版:1924年]

苦笑させられます。この序文は高村夏輝訳のちくま学芸文庫に付いています。それ以前の中村秀吉訳にはありませんでした。『哲学入門』を支えていた概念が崩壊してしまったのです。それでも読まれるのは、論理を追いかける快適さがあるためかもしれません。

 

4 論理を追うことは考えることの基礎

モームは『要約すると』で、ラッセルを皮肉ります。家を建てるとき、最初にレンガがよいと言い、次に石造りにすべき立派な理由を持ち出し、その後、鉄筋がよいと理由づける建築家のようだ…、落ち着きがないし、その間、屋根なしではないか、と書いています。

モームは、かつて欲しがった首尾一貫した哲学体系などないことを悟ります。ないものねだりだったのです。しかし、相性のよい哲学書は、論理を追う楽しさがあります。論理を追う教材として使うべきものでしょう。考えることの基礎になると思います。

以前、ビジネスの基本となったパースの「信念の確立法」について書きました。論理で体系を作るのは「理性の方法」に当たります。一方、ビジネスで何かを判断するときに使う方法は、パースの薦める、検証可能な形式をとる自己訂正的な方法を選択すべきです。

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