■モノの「導入・普及・成熟」と宮崎市定「江戸時代におけるシナ趣味」

    

1 導入期・普及期・成熟期

モノが社会に入れられるにしたがって、それらのモノは洗練されていきます。はじめは導入の時期、それが普及していく…という流れです。導入されず普及されずに終わったものの方が多いでしょう。多くのモノは淘汰され、消えていく運命にあります。

パソコンにしろ、スマートフォンにしろ、導入期があって普及期が来ました。もはやただのモノでは通用しなくて、何らかの選ばれる理由が必要になっています。品質が良いのか、値段が安いのか、何らかの魅力が必要です。それが成熟期ということになります。

社会が受け入れたモノがどんな風に変遷していくのか、そのあたりを意識して私たちはモノを見ていく必要があるでしょう。こんな話は、もはや目新しいことではありません。しかし製品やサービス提供側は、普及をめざしながら、いつも苦しんでいます。

    

2 江戸時代の贅沢の変遷

成熟期になったものを、どういうものにすればよいのか、その解決策は明確にはなっていません。簡単にこうだという方式があったら楽ですが、今後もそんなものは出てこないでしょう。しかしヒントは、どこかにあるはずです。補助線として使えるかもしれません。

『宮崎市定全集22』所収の『日出づる国と日暮るる処』の「江戸時代におけるシナ趣味」は、ヒントとなるものです。自跋で宮崎は「奢侈(シャシ)論」だと記していました。贅沢の変遷について[江戸時代を通して実証して見よう]としたものです(p.453)。

江戸時代[に入って日本に始めて町人階級というものは発生、成立したこと]から、対象として格好のものだろうと思われます。それまで[全く教養を欠き、未開]の人とも言える人たちですから、宮崎の仮説を検証するのによいサンプルになるでしょう(p.453)。

    

3 自然の道理に従い、時と所とを得た奢侈

贅沢の変遷について、[先ず分量の多きに始まり、それが質の優秀さを求めるに進み、最後には高級なる合理的趣味に落付く]というのが宮崎の仮説でした。[紀伊国屋文左衛門たち、成金の奢侈はと言えば、あぶく金銭に任せて無駄遣いする]ものです(p.453)。

しかし量が質に変わってきます。「衣装比べ」の場合、[身につけた一揃いだけで、その豪華さを競う]のです。そして[南天の実が悉く実物の珊瑚を砕いて縫いつけた]ものの方が勝ちました。これは[他人に見せびらかすという外面的な]ものです(p.65)。

質を問うてはいますが、低級な趣味にすぎません。[またそのやり方がまだ非合理的である。着物の模様になっている南天の実のところへ珊瑚を縫いつけたところが、どれだけ装飾的の効果が出るものか](p.65)、まったく理にかなっていないものでした。

次の[凡て物事は自然の道理に従い、時と所とを得た奢侈を尊重する]段階になると、強い色彩を用いない、細かく描きすぎない、技巧を使いすぎないものが出てきます(p.66)。文化文政期になると[趣味の本場たる中国にも負けない位になった](p.454)のでした。

      

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