■規範文法の効用:「現代の文章:日本語文法講義」第10回概要

    

1 学校文法を痛烈に批判した北原保雄

連載10回目です。いままで文法から離れて、日本語の形成についてあちこち行き来していました。何でそんな話になったのか、そのあたりを書いています。北原保雄の『日本語の文法』という本は、かつて評価されていました。いまはまず読む人がいないでしょう。

この本で北原は規範文法と記述文法を対比して、規範文法である学校文法を痛烈に批判しています。学校文法が[口語文法の重要性を認めようとしない][いな、重要性に気づいていないのである](p.21)と書きました。では、文法教育はどうあるべきでしょうか。

▼文法教育は言葉についての洞察力を養うものでなければならない。そして、言葉について考えることの楽しさを感得させ、言葉について考えることが好きになるような魅力的なものでありたい。 p.21 『日本語の世界 第6巻 日本語の文法』

ただの願望でしかありません。「…ものでなければならない」し「…ものでありたい」と言うだけで、実践はできていないのです。それよりも[文法の授業が文章を論理的に構成するための基礎的ルール](p.8)を教えることの方が現実的で可能な目標でしょう。

     

2 効用のあった規範文法

[文章を論理的に構成するための基礎的ルール]を教える前提として、文法のルールに従ったならば、論理的な文が書けるようにならなくてはなりません。そうなると、こう書けば論理的になるというルールが必要です。よって北原の否定する規範文法になります。

岩淵悦太郎は『日本語を考える』で、規範文法の効用について記しています。明治38年の「文法上許容スベキ事項」というものがあって、[たとえば、「…せさす」「…せらる」を「…さす」「さる」としても差し支えないというようなもので](p.116)した。

▼その当時の文語文には、このような誤りが多かったので、それを習慣として許容しようとしたのであった。ところが、私などが中学校教育を受けた大正時代のころには、正しく「…せさす」「…せらる」とするのが普通になっていて、折角の「文法上許容スベキ事項」の大部分は、ほとんど死文になってしまっていた。これは、文語文法の知識が一般に広がったためと言えるのではないかと思う。 pp..116-117 『日本語を考える』講談社学術文庫

文法を構築するときに、どちらのルールに従ったら論理的になるのか、こういう価値評価を入れる必要があるのです。正しいルールに従えば文が論理的になる、あるいは「簡潔・的確」な文になるなら、ルールを学ぶ価値も出てきます。文法教育もそうあるべきです。

      

3 終止形・文末の感覚

日本の場合、19世紀に列強が日本周辺にやってきましたから、近代化は切実な課題です。日本語も近代化する必要がありました。西欧の近代概念さえ理解できていない状況から、日本語を作り直すのは大変なことです。とても文法の構築まで手が回りません。

しかしそろそろ、学校文法で教えているわずかな文法用語を使って、日本語のルールを説明できないものかと思います。たくさんの抽象概念が並ぶと、なかなか使いこなせません。北原が『日本語の文法』で試みた説明も、何だかわかりにくいものでした。

北原の示した「雨が降りそうだ」と「雨が降るそうだ」の違いはどうでしょうか。「降る」には終止形による完結性があります。カッコに囲んで「<雨が降る>そうだ」というニュアンスでしょう。「雨が降る」という提示に対して、そうだねと追随した形です。

一方、「降りそうだ」は「降り・そうだ」とはならずに一体的であるといえます。日本語は文末に重点を置く言語です。日本語を母語とする人たちは、終止形・文末を直感的に感じ取ります。センテンスの途中に終止形が来ていたら、何かの混入だと感じるのです。

      

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