■構想力と日本語:司馬遼太郎の思い

1 構想力のなさを自覚

たいていの人が気のついていることでも、あらためてその問題を取り上げられると、気になることがあります。三味線の音楽を聴きながら、吉田秀和が日本の音楽に構想がないと感じた(「小径の三味線」『私の時間』所収)のは、当然のことだと思うでしょう。

吉田はそこから、日本人の書く小説の構成がかっちりしていない点に言及します。知人も「日本の小説には始めも終わりもない」と、口癖のように言うとのこと。そう言われても意外な感じがしません。その通りですから。しかし、これはとても残念なことです。

構想力のないことについて、私たちには自覚があるはずです。もっと全体の骨組みを考えたほうがよいに違いありません。問題になるのは、全体の構想をどう作っていくのかという点です。この点について、司馬遼太郎の言うことに注目したいと思います。

 

2 構想力なしでも書けてしまう便利な言語

『以下、無用のことながら』という題名の本で、司馬遼太郎は論理性の欠如を、日本語の問題として取り上げていました。司馬の場合、題名のように、あまり正面から論じないで、さらりと漏らすように語ります。この本所収の「日韓断想」でもそうでした。

ウラル・アルタイ語の日本語は[ハリガネ細工のようにくねくねしていて、構造として論理的でない]と記します。[まっすぐなハリガネをにわかに曲げるような]ことをしても、[レンガ積み構造ではないから、文章が瓦解するわけではない]というのです。

そして、こう言い放ちます。[ちょっと独断になるが、こういう言葉を使っていると、思考が乾くいとまがないだろうと思う。論理は、レンガのように乾燥したものである。情緒は接着剤のようにいつも濡れている]。日本語が問題なのだということです。

司馬は、これを逆手に取って、[以下、こんな話を続けたい。もっとも思いつくままだから、話が、ハリガネ細工のようにとんでもない方向にまがってゆくかもしれない]と記しました。構想力なしでも、文章が書けてしまう便利な言語だということでもあります。

 

3 司馬が思いつづけてきたこと

司馬の場合、エッセイですから論文を書こうとしているわけではありません。気楽に読めるように、話があちらに行ったりこちらに行ったりしながら、きちんと言うべきことは言っているのです。これは作家の芸でしょう。簡単にまねのできることではありません。

ある種言いにくいことでも穏やかに語れるのは、いいことではあります。しかしビジネスの場合、簡潔で的確な文章表現でなくてはいけません。このことは司馬自身が講演で、ドイツ参謀本部のメッケルのエピソードを紹介しながら、指摘していたことでした。

このエッセイでも言います。[自分の日本語文章を、何とか乾いた言語にし、しかも日本語の情緒的特質を失うことなく、論理的な明晰さ(フランス人が大切にするところのクラルテ clrte)に近づけたいと思いつづけてきた]。これが一番の基礎だということです。