■現代の文章:日本語文法講義 第25回 「日本語文法の基礎概念について」

(2022年7月19日)

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1 使えない日本語の文法書

先日まで講座のテキストを作っていました。講義では、リーダーの人たちが部下の文章をチェックするときに、どうするのがよいのかという話をします。日本語の場合、文法書がほとんど役に立ちません。文法の話が長く続くと、聞く気がなくなるはずです。

受講される方たちは部下をもったリーダーですから、専門をもったビジネス人です。あるいはリーダーになるべき人たちです。レベルの低い方々ではありません。それどころか一般に言えば、かなり優秀な方々です。そういう人たちが文法を頼りにしていません。

以前、学校の先生みたいな人が、ビジネス人の場合、文法の話を聞きたがらないと話したのに対して、出来がよくないからじゃないのかといった反応をしたことがありました。ナンセンスな話です。あなたレベルじゃ、相手にされませんよ、と言いたくなりました。

仕事のできる優秀な人たちが、あるレベルに達すると、日本語について考える必要性が出てきます。ビジネスの状況を把握するときに文章で記しますから、記述は重要です。記述なしで、ビデオメッセージや、音声録音で済ませる訳には行きません。

迅速な事務処理をするには、文章になっていたほうが良いのです。音声や映像では、効率的な処理ができませんから、文章について考える必要がでてきます。リーダーだけではなくて、部下である人たちも同じです。読み書きが出来なくては困ります。

いずれにしても、仕事のできる人達なら、文章が書けなくてはいけない、読めなくてはいけないのはわかっています。必要不可欠なことです。そういうときに、日本語の文法が使われないのですから、残念というべきでしょう。

とはいえ、使う価値があるかどうかで考えたならば、とても使える代物じゃないということになります。それが本音でしょう。このあたり、何とかしたいという思いは、私にもあります。そんなこともあって日本語文法講座などという連載を始めてみたのです。

しかし現在の日本語文法に関して、外の世界の人間にとって、学説の状況だけでも、よくわかりません。ここに書かれていることが通説なのか、独自説なのかはっきりしないことがよくあります。日本語文法はまだ確立していないのかもしれないのです。

実際、留学生と話していると、やはり…ということになります。大学を出て、かなり高い地位の仕事をした人が、留学してくることがあるのです。自国語以外に、英語をやり日本語をやった人たちですから、どう感じるのか、興味があります。

彼らに、日本語の場合、まだ文法が確立していないかもしれないと言うと、たいてい英語とは違う、日本語文法はきちんと整備されていないと思うと答えるのです。ごく少数のサンプルですから、そんな感じがあるというのにすぎません。

学説の混乱が収斂したならば、これが通説であり、有力説がこれで、これは少数説ですと言えるはずなのです。当然、通説を学べばよいということになります。日本語の文法の通説的な考えというのは、どうなものか参考となる本をすこし探したのです。

そうやって探した中に、『岩波講座言語の科学 5 文法』という本がありました。この本の「2 文法の基礎概念Ⅰ」という章に基礎的な概念についての解説があります。内容が明確だと思いました。

この説明を確認していけば、最低限の用語の概念や構造について理解できそうです。学説の様子も少しはわかるかもしれません。この章を執筆したのは益岡隆志との記載があります。シリーズの編集委員であり、出版時点で神戸市外国語大学日本語学の先生でした。

この巻の「学習の手引き」を執筆していますから、日本語文法の学者として評価されているのでしょう。さらに言えば、こうしたシリーズ本の場合、自説を強調することよりも、標準的な立場にも考慮しているはずですから、その点で、読む価値はありそうです。

       

       

2 述語を中心的成分とする根拠

今回、文法なんてやってられないよという人たちに向けて、講義風に書いてみましょうか。内容を砕いたうえで、くだけた言い方で説明していくと、わかったと言ってくれる人がときどき出てきます。それを期待しましょう。こんな感じです。

皆さんの手元には、テキストがないはずですが、心配ありません。例文が示されていますので、それを記しておきます。「先日、北海道で、A山が激しく噴火した」(p.44)、これが例文です。この文の意味が解らない人はいないでしょう。

益岡隆志先生は、この例文を5つに分けています。「先日/北海道で/A山が/激しく/噴火した」…です。これもわかるでしょう。こういう例文があると、抽象概念も、具体的なあてはめができますから便利です。さっそく問いかけがありました。

この例文を見て、[この文の中心的成分はどれであろうか](p.44)というのです。わかりますか? 「北海道で」も気になりますが「A山が」かもしれませんね…。いやいや、違います。そのすぐあとに[その答えは「噴火した」である]と書いてありますから。

苦労して考える必要はなかったのかもしれません。「噴火した」が答でなくては、困るのかもしれないのです。ちょっと意地の悪い言い方かもしれませんが、日本語の文法は強引なところがあります。気をつけないといけないのです。

ここはひとまず、「噴火した」でよいことにしましょう。それよりも、どうして「噴火した」が中心的成分になるのか、解説を見ることの方が先です。以下のように書かれています。丁寧に読んでみてください。意味が分かるでしょうか。

▼「噴火した」という成分が与えられれば、「いつ、どこで、何が」といった成分の存在が予測され、文の大まかな枠組みが決定されるからである。この点は、例えば「先日」という成分が与えられても文の枠組みが決定されないという状況と対照的である。 p.44 『言語の科学 5 文法』

「噴火した」と言われれば、「いつ、どこで、何が」という風に頭が働くからということなのでしょう。[文の中心的な成分](p.44)と言われれば、あえて反対する必要はないかもしれませんが、何だかよくわからないなあという感じは残ります。

ひとまず、その先に行きましょう。益岡先生は、この成分を[述語成分(または、述語 predicate)と呼ぶことにしよう]と書いています。そうなると、述語が中心的成分だということですね。述語が大切なのはたしかでしょう。

このあたりまでの話なら、ビジネス人なら、ああそうですか…という素直な反応をするかもしれません。しかし素直な反応はしても、そう簡単に素直に納得しましたとはならないことが多いのです。きちんと詰めていなかったら、納得してもらえません。

学者がマネジメントの本を書いたときなど、ときどき悲惨なことになります。受け取る側が優秀なら、その人はすぐにシミュレーションをするでしょう。自分の頭で考えてからでないと、納得しません。私も皆さんの真似をしてちょっと考えてみます。

例文が「先日、北海道で、A山が激しく噴火した」です。この文の末尾に置かれた「噴火した」が述語であり、文の中心的成分だということでしたね。それでは、例文を少し変形したらどうなるでしょうか。

「先日、北海道で、激しく噴火したのがA山でした」という例文を作ったとしましょう。この例文はどう分ければいいのか…。「先日/北海道で/激しく/噴火したのが/A山でした」かもしれません。そうだとすると、先ほどと同じく5つに分けられます。

たぶん述語は「A山でした」になるはずです。これが中心的成分だということになるでしょう。なぜなら、述語が中心的な成分になるということだったからです。益岡先生は、述語について以下のように書いています。

▼述語成分を品詞の面からみると、「噴火する」や「出会う」のような動詞の述語、「美しい」や「きれいだ」のような形容詞の述語(本章では、形容詞と形容動詞を区別しないで、形容詞として一括する)、「学生だ」、「文法書である」のような名詞の述語(名詞の述語の場合は、名詞の後ろに「だ」、「である」、または「です」という要素が必要である)という3種類に区別される。 p.44 『言語の科学 5 文法』

ここから考えてみると、「A山」という名詞の後に「でした」がついて述語になったと考えてよいでしょう。では「A山でした」が中心的成分になる根拠はどうなっているでしょうか。「A山でした」とあっても、「いつ、どこで、何が」という風に頭は働きません。

さっきのようには行かないのです。こちらの理解の仕方が間違っていたのかもしれません。どう考えるのが正しかったのでしょうか。こういうときには、具体的に見ていったほうがわかりやすいですね。2つの例文を並べてみます。

(1)「先日、北海道で、A山が激しく噴火した」
(2)「先日、北海道で、激しく噴火したのがA山でした」

例文(1)の場合、「噴火した」が文のキーワードを束ねています。こんな風になっているのがわかりますか。
・先日   噴火した ○
・北海道で 噴火した ○
・A山が  噴火した ○
・激しく  噴火した ○

とてもいい例文です。私が変形させた例文(2)はどうでしょうね…。さっきの例文のように、きれいな束ね方になっていないのです。
・先日     A山でした ▲
・北海道で   A山でした ▲
・激しく    A山でした ▲
・噴火したのが A山でした ○

どうみても「A山でした」が各要素をうまく束ねているとはいえません。ここで束ねていると言えそうなのは「噴火したのが」でしょう。以下をご覧ください。
・先日   噴火したのが… ○
・北海道で 噴火したのが… ○
・A山が  噴火したのが… ○
・激しく  噴火したのが… ○

そうなると、先ほどの益岡先生の言うことがわからなくなってきます。もう一度読み直してみましょう。[「噴火した」という成分が与えられれば、「いつ、どこで、何が」といった成分の存在が予測され、文の大まかな枠組みが決定される]ということでした。

たしかに「噴火した…」によって、「いつ、どこで、何が」といった成分の存在が予測されます。しかし「噴火したのが」という形ですから、これは述語ではありません。ここでは述語の「A山でした」が、何かを予測していることが大切だということでしょう。

そうなると先ほどの説明では、「述語によって文の大枠が決められる」ということがポイントだったと考えるべきでした。述語によって、文の枠組みが決定されるという機能があるから、述語が中心的要素なのだということでしょう。

述語の前に置かれた部分の構造について、述語が大枠を決めているかどうか、それが問題です。そういう作用があるのなら中心的成分になるということでしょう。では、「先日、北海道で、激しく噴火したのがA山でした」というのは、どんな大枠になっていますか。

「A山です」が述語になった場合、その前に来るのは、おそらく「何々なのは…」「何々なのが…」になりそうです。「何々なのが…【A山です】」が来ると予測できます。こういう構造になるはずです。【先日、北海道で、激しく噴火したのが】+【A山でした】。

最初の例文の場合なら、「噴火した」が述語になっていましたから、「いつ、どこで、何が」などが来るだろうと、大枠が予測できます。述語がこうした機能をもつから、中心的成分なのだという風に理解できるでしょう。ひとまず、ここまではわかりました。

        

3 述語・述語修飾成分・補足成分・状況成分

こんなことをやっていると、進むのが遅すぎると感じるかもしれません。私ものろいと思います。それでも、ちょっとしたところで誤解が生じるものです。基礎的な概念ですから、きっちり理解していきましょう。項目もわずかなものです。

『岩波講座言語の科学 5 文法』の「2 文法の基礎概念Ⅰ」はよくまとまっていると思いました。内容に賛成しているわけじゃないのです。きちんと読めば、わかるように書かれています。ここにあるくらいのことは、確認しておくべきですね。

この本は1997年に出たものですから、その後の変化については書かれていません。しかし基本的概念の記述を見ると、この本の解説はすぐれていると思います。これがわかっていれば、その後の動向も理解しやすくなるはずです。まずこれを理解すべきでしょう。

それで…。先に進みましょう。例文を5つに分けて、「先日/北海道で/A山が/激しく/噴火した」となっていましたね。「激しく」は[噴火のありさまを説明している。このような成分を述語修飾成分と呼ぶ](p.45)とあります。これは、これでいいでしょう。

問題は、「先日/北海道で」の説明の仕方です。これらは「述語修飾成分」に含まれることにもなりそうですが、同時に別扱いが妥当だという立場をとっています。そのため、ここは丁寧に見ておく必要があるでしょう。以下のように解説されています。

▼文頭において、出来事が生起した時と場所を表すものがある。これらの成分は、述語修飾成分の一種ともみられるが、ここでは、文頭に表れている点を重視し、一般の述語修飾成分とは区別して状況成分と呼ぶことにする。 p.45 『岩波講座言語の科学 5 文法』

「状況成分」の要件は、前提条件として「述語修飾成分」であること、さらに①文頭に表れていること、②出来事が生起した時と場所を表すもの…となるようです。ポイントは①でしょう。文頭になかったら「状況成分」にはならないのです。

「A山が先日、激しく噴火した」となった場合、「先日」は状況成分になりません。ずいぶん絞り込んだ概念です。「文頭」というのは狭い条件ですし、「時と場所」を表すものに限っているようですから、適応範囲はかなり狭くなります。

「A山が先日、北海道で、激しく噴火した」という文の場合、「先日/北海道で/激しく」が述語修飾成分になって、3つが同じように扱われるのです。どうでしょうね。「先日/北海道で」と「激しく」を同列に扱うのに違和感はありませんか。

狭すぎる概念を提示すると、そこから漏れたものが、みょうな分類のされ方をすることがあります。その弊害に陥っていると感じさせられる例です。①の「文頭」の条件を外し、②の「時と場所」以外の条件も考慮する必要があるかもしれません。

それから変形した例文のほうも見ておきましょう。「先日、北海道で、激しく噴火したのがA山でした」の「先日、北海道で」は文頭にあって、時・場所を表しています。しかし述語「A山でした」を修飾していませんから、「状況成分」にはなりません。

さてそうなると、「先日/北海道で/A山が/激しく/噴火した」のうち、残っているのは「A山が」です。この成分はどうなるでしょうか。[述語が表す事態に関する情報を補う役割を担っている]から[補足成分と呼ぶことにしよう](pp..44-45)とあります。

補足成分という概念は必ずしも明確ではありません。「述語が表す事態に関する情報を補う」とあります。「噴火した」という事態に関する情報を補っているかどうかが問題になるでしょう。「状況成分」と関連させながら、詰めていく必要がありそうです。

さらに「A山が」を補足成分だとすると、「A山が」は主語ではなくなりますから、主語の概念が問題になります。この点、明確です。[主語は述語と相互依存の関係にあって、その意味で、対等な関係にあるものと考えられる](p.46)と記述されています。

ここから述語が中心的要素だと考える理由もわかるはずです。例文の「A山が」は述語を補う存在でしかないと言いたいのでしょう。述語と「相互依存の関係」「対等な関係」にはないということです。[主語否定論の立場に立つ]と書かれています。

ここで、[主語肯定論の立場に立つ見方もある](p.46)という書き方をしている点にも、注意しておきましょう。主語否定論の方が有力だということです。ただし、[この問題はまだ解決されたとは言えない](p.47)とも書きそえられています。

述語の概念がいびつですから、「相互依存の関係」「対等な関係」にはならないという立場にもなりうるのでしょう。しかし、これでは日本語の構造は説明できませんから、補正が必要になります。それが主題の概念です。このときの説明の仕方が問われます。

ひとまず主題の話は、次にふれましょう。そうなると成分に関して、これで終わりになります。日本語の基本構造を作っている成分は、主題を加えれば、これで全てです。列記すれば「述語成分」「補足成分」「述語修飾成分」「状況成分」「主題成分」になります。

4 主題の概念の妥当性

さてここから主題についてみていきましょう。その前に復習しておかないと、何だかまだ心配ですね。成分が5つだけですから、もう一度確認しておきましょう。注意が必要なのは「状況成分」と「補足成分」でした。解説でも、それらが取り上げられています。

2つの例文をあげて解説されていますので、確認していきましょう。例文では「先週の土曜」が共通している言葉です。
(a) 家族皆で先週の土曜に花見に出かけた。
(b) 先週の土曜日、近所で火事があった。

前の例文(a)の「先週の土曜に」は補足成分になります。わかるでしょうか。構造を見てください。以下のようになっています。
・家族皆で   出かけた
・先週の土曜に 出かけた
・花見に    出かけた

述語に対して、「いつ出かけたのか」を補足していると言えなくもありません。これが状況成分にならないのは、文頭に置かれていない点から明らかです。「述語修飾成分」のようにたんに述語を修飾するだけというより、「情報を補」っている感じはあります。

あとの例文(b)「先週の土曜日、近所で火事があった」の方も構造を見ておきましょう。この文での「先週の土曜日」は状況成分であるということです。こちらも丁寧に見ていけば、分かると思います。
・先週の土曜日 あった
・近所で    あった
・火事が    あった

まず「先週の土曜日」が、述語を修飾していることは間違いありません。さらに文頭に置かれていて、「出来事が生起した時と場所を表すもの」ですから、状況成分に該当します。区分自体はわかったのではないでしょうか。ひとまず、これで復習は終りです。

さて、問題となる主題の話です。これをどう説明するかが問われます。[「~は」という表現を主題成分(または、単に主題 topic)と呼ぶことにしよう](p.46)と記されています。問題は、実質的な概念の方です。以下のように説明されています。

▼「~は」という成分は、「~について言えば」という意味を表し、それに続く表現がその成分に対する説明を与えている点が特徴的である。 pp..45-46

ここでも例文をあげて解説していますので、それを見ましょう。以下、並べておきます。
(c) 空は青い。
(d) 空が真っ暗だ。

形式的に見て、「は」が接続するのが主題です。「が」の接続するのは「補足成分」になります。両者の違いはどこにあるのでしょうか。これも並べておきます。

(c)の「空は青い」の場合、[「空」というものに対して「青い」という説明を与えている]ということです。

(d)の「空が真っ暗だ」の場合、[「空が真っ暗だ」という観察された状況をそのまま言葉で描きあげている]ということになります。

主題の場合、説明をしているのです。一方、「補足成分」だと、「観察された状況を描いている」ことになります。この違いだという解説です。観察された状況を描くときには、「~が」になり、「~は」のときは観察ではなくて対象の説明になるとうことでしょう。

しかしそうだとすると、おかしなことになります。たとえば、ガガーリンが「地球は青かった」と言ったそうです。「~は」となっていますから、観察したものでなくて、対象の説明をしていることになります。しかしこの言葉は宇宙から地球を見ての言葉でした。

例文の「空は青い」を「空は青かった」にしただけで、観察しているというニュアンスになります。「青い」を「青かった」にしたなら、「空は」が主題でなくなるのでしょうか。そうはなりませんね。そうすると、ここの部分の説明はおかしいのです。

「空は青かった」でも「空が青かった」でも、観察された状況を描いているように感じるでしょう。主題は「~について言えば」という意味を表しているともありました。それならば、「空について言えば、青かった」というなります。具体的に見てみましょう。

たとえば、「夕方で、雨上がりでしたけどね、空について言えば、青かったですね。それが印象に残っています」という言葉から、「空について言えば、青かったです」を抜き出して、簡潔に表現するなら、どうなりますか。「空が青かった」となりませんか。

ここで最後の言葉を少し変えて、「夕方で、雨上がりでしたけどね、空について言えば、青かったですね。それだけは覚えています」という言葉ならどうでしょう。「空について言えば、青かったです」を簡潔に表現するなら、「空は青かった」でしょう。

率直なところ、この種の説明で、きちんとしたものなどそう簡単に見つかりません。そうした中で、『岩波講座言語の科学 5 文法』の「2 文法の基礎概念Ⅰ」はよくできた説明でした。もちろん概念の区分が妙な感じですから、賛成はできませんけれども。

専門職のビジネス人が、本当に日本語について考えようとするとき、読むべき文法書がないのです。これまで見たところは、基本概念の部分ですから、ここでおかしいとなったら、その先には行けません。役に立たなければ、文法書など読まれるはずないのです。