■文章の書き方の指針:梅棹忠夫の厳格な原則

▼文章は一種の設計図

学者の中で、文章が簡潔・的確な人といったら、梅棹忠夫だろうと思います。文章の書き方の原則を厳格に守っていると、梅棹は言っています。自分の文章について、≪要するに一種の設計図みたいなものです≫と書いています。

図面には、まちがいのないように、きちんと線がひいてある。それは、規則どおりかいてあるからそうなるんだ、そういうつもりでかいているんです。それは極端にいえば、いかにうまい文章をかくかというようなこととはまるでちがう話で、どれだけ約束ごと、原則を厳密にまもるか、というようなことです。 (『人生読本 文章』1978年、河出書房新社)

この文章だけでは、約束ごとが何であるのかはわかりませんが、上記を引用した『梅棹忠夫 語る』から推定することができます。中核になるのは、以下の2つだろうと思います。「複文でなく、単文中心で書くこと」と「主語を意識して立てること」です。

主語を意識して立てるというお話は、以前書きました。以下、「複文でなく、単文中心で書く」という点について考えてみたいと思います。

 

▼なぜ複文はダメだと言ったのか…?

複雑な構造を一文で書くのに、日本語は向いていません。日本語の場合、関係詞がありませんから、適当なところで文を切らないと、わかりにくくなります。そのため、単文中心で書くという言い方になったのだろうと思います。

司馬遼太郎も、夏目漱石の文と絡めて書いています。≪漱石の文章は、センテンスは短い。日本語には、関係代名詞という扉のちょうつがいがないものですから、長い文章はダメなんです≫(1991年10月22日講演「漱石の悲しみ」)。

梅棹忠夫自身、複文はダメだと言いながら、自分でも書いています。文法学者ではありませんから、用語の使い方が、若干正確さに欠けます。梅棹忠夫の代表的な文章を見てみましょう。『文明の生態史観』の書き出しの文章です。すばらしい文章です。

 トインビーという人がやってきた。歴史家として、たいへんえらい人だということだ。その著書は、いくつか翻訳がでているので、わたしも、そのうちの二つをよんだ。『歴史の研究』簡約版と、『試練に立つ文明』とである。二つとも、じつにおもしろかった。これは偉大な学説だとおもった。

単文中心であることは確かです。では、なぜ複文がまずいのでしょうか。重文を問題にしていない点がヒントになりそうです。重文とは、二つの文が並列に並んでいる構造の文です。重文は、主体+述部の並列ですから、主述関係が混乱しません。

梅棹忠夫が、複文で書かないように…という理由は、複文にすると、主述関係が混乱するからだろうと思います。逆に言うと、主述関係が混乱しなければ、複文でもかまわないということになりそうです。

 

▼問題は複文でなく、前提(TPO)の処理の仕方

梅棹の複文はどうでしょうか。引用の中では、≪その著書は、いくつか翻訳がでているので、わたしも、そのうちの二つをよんだ。≫というのが複文に当たります。少しわかりにくい文です。しかし、わかりにくさの理由は、複文だからではありません。

「その著書は、いくつか翻訳がでている」というのは、【主体+述語】という構造です。このとき、「-は…が」という形にすると、わかりにくくなるのです。「その著書の翻訳がいくつかでている」という標準形の中の、「その著書」を強調する形にも読めます。

≪その著書の翻訳がいくつかでているので、わたしも、そのうちの二つをよんだ≫、あるいは、≪その著書は、いくつか翻訳されているので、わたしも、そのうちの二つをよんだ≫…が標準的な文でしょう。

「その著書の翻訳がいくつかでているので」…は前提(TPO)です。「わたしも」…は主体。「そのうちの二つを」…は焦点。「よんだ」…は述語です。日本語のバイエルを構成する4つの要素からなる標準的な文型です。混乱する構造ではありません。

前提(TPO)が節になっている場合、その部分を前に出して読点を打てば、主述関係は混乱しません。複文であっても、【前提、主体+焦点+述部】という構造なら、問題ありません。一文にこれ以上の要素を盛り込むと、文は複雑になり、わかりにくくなります。

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